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第7話 孝宏

 萌香と孝宏の出会いは3年前、萌香が22歳、孝宏が27歳の事だった。萌香が入社して間もなく、直属の上司に不幸があった。萌香は慌てて喪服を買い求め、黒いパンプスを履いた。


(あ、雨)


 通夜に向かう途中、ポツポツと雨が降って来た。白いビニール傘を探してコンビニエンスストアに駆け込むと、同じように喪服の女性がビニール傘を買い求めていた。寺院の参道には、何輪もの白い花が咲いた。


(ここか)


 荘厳な寺院には白黒の鯨幕が張られ、黄色と白の菊の花輪が幾つも並んでいた。萌香は営業係(CS課・窓口業務)の代表として香典を手渡した。


「この度は、ご愁傷様です」


 読経が流れる中、萌香は背中に視線を感じた。恐る恐る、窺い見ると、そこには、銀行員らしからぬ、髭を生やした男性行員が座っていた。その人物は、明らかに、萌香を凝視している。


(誰、なに、なんなの!?)


 そして、足が痺れる頃に萌香たちの焼香の番が回って来た。


(え!?誰?誰、誰、誰だっけ!)


 萌香は首を傾げながら焼香に立ち、コーラルピンクの数珠で手を合わせた。その間も、男性行員の目は、萌香の一挙一動に釘付けになっていた。萌香は、その気味の悪さに、眉間にシワを寄せた。


(誰だっけ?)


 そして、滞りなく通夜の式典は終わりを告げ、辺りはすっかり暗くなっていた。萌香は、白いビニール傘を軒先で広げた。



ポン



 するとそこに、先程の男性行員が入って来た。驚いた萌香が後ずさると、その男性行員はビニール傘の柄を持った。


「あ、あの」

「なに」

「失礼ですが、どこかでお会いしましたっけ?」


 男性社員はニヤリと笑うと、額に手を当てて天を向いた。


「あー、そんなに俺、存在感ない?」

「存在感、ですか?」

「俺、営業の吉岡って言うんだけど、結構、目立つと思わねぇ?」

「営業係の」

「そ!吉岡孝宏」


 確かに上背はある、見上げる角度からして、180センチくらいはあるかもしれない。それにゆるいパーマを掛け、顎髭を蓄えた風貌は銀行員らしくなかった。


「ごめんなさい、覚えがありません」

「そっかー」


 アスファルトに水滴がポタポタと落ちた。


「俺はあんたの名前、知ってるよ」

「え、どうしてですか!?」

「CS課の能面って言われてるじゃん」

「の、能面ですか!?」


 確かに、萌香は一見すると冷たい印象を受ける。仕事は的確で早いが、銀行窓口利用客からはあまり受けが良くない。『あー、またあんたか』『ちょっとは笑わんかね、ほら、この子みたいに』隣の受付に座る、同期の女子行員は、首を傾げながらニッコリと微笑んで見せた。そこで萌香も口角を上げてみたが、違和感しかなかった。そんな萌香に、孝宏は声を掛けて来た。


「あんた、長谷川萌香だろ」

「そうですけど、能面になにか用ですか!?」


 すっかりへそを曲げた萌香は、雨など関係なしに足早に歩道を歩いた。慌てた孝宏は傘を振り回しながらその後を付いてきた。


「ちょ、待てよ!濡れるだろ!」

「クリーニングに出しますから、大丈夫です!」

「分かった、能面撤回!だからちょっと待てって!」

「能面、能面って言わないでください!」


 萌香が肩で息をしながら振り返ると、孝宏は屈み込み、いきなり萌香の額に口付けた。それは、あまりにも突然の事で、萌香は言葉を失った。


「俺、あんたに一目惚れ」

「なっ、なに言ってるんですか!」

「喪服マジックての?喪服いいね、似合ってるよ」

「喪服が似合うなんて、褒め言葉じゃありません!」


 歩行者信号が青に変わり、2人は横断歩道の白い線を渡った。


「あ、俺、こっちなんだけど」

「私はこっちです!それではお疲れ様でした!」


 すると孝宏は萌香の二の腕を掴み、街を流すタクシーに手を挙げた。タクシーはウィンカーを左に点すと、歩道に車を寄せ、後部座席のドアを開けた。


「ちょっ!ちょっと!離して下さい!」

「いいから、いいから」

「どこに行くんですか!?」


 慌てる萌香を眺めた孝宏は、膝に肘を付けると手に顎を乗せ、ニヤリと笑った。


「なに、どこか行きたいの?」

「行きたくありません!私は、家に帰りたいんです!」

「家ね、家、どこ?」

泉ケ丘いずみがおかです!」

「運転手さん、泉ケ丘まで頼むわ。その後、新神田しんかんだね」


 否応なしにタクシーの後部座席に押し込まれた萌香は、無言のまま、窓ガラスを伝う雨の雫を見ていた。その間も、孝宏は立板に水を流すように喋り続け、最後にこう言った。


「あんた、笑った顔は可愛いな」

「え?」

「このまえ、ATMで困ってた婆さんの手伝い、してただろ」

「あ、はい」

「能面なんかじゃねぇよ」


 その時、萌香の胸はキュッと掴まれ、頬が赤らむのが分かった。タクシーの車内が薄暗くて良かったと、心から安堵した。


(なに、これって、なに、ときめきってやつ!?)

「長谷川」

「な、なんですか!」


 萌香が振り向くと、孝宏の顎鬚が唇に触れていた。清潔に整えられた髭は、予想に反して柔らかかった。それは一瞬、啄むような口付けだったが、萌香にすると初めてのキスだった。萌香は、思い切り両手で孝宏を突き飛ばし、その後頭部は窓ガラスに打ち付けられた。


「なにすんだよ!」

「なにって、そっちこそ!なにするんですか!」


 ルームミラーの中では2人の遣り取りが騒がしく展開され、タクシードライバーは笑いを堪えるのに必死だった。


「お客さん、泉ケ丘ですがどちらですか?」

「あ、図書館の前でお願いします」

「はい、わかりました。泉ケ丘の図書館ですね?」

「お願いします」


 その時、萌香がマンションやアパートではなく、実家で両親と暮らしている事を知った孝宏は肩を落とした。


「なんで実家住みなんだよ」

「吉岡さんには関係ないですよね!」

「残念!」

「なにが残念なんですか!」

「ひとり暮らしなら、あんな事やこんな事が出来るし?」

「・・・・・!」






 以来、孝宏は毎朝8時になると、萌香を迎えに、自宅玄関に車を乗り付けた。


「吉岡さんって暇なんですね!」

「萌香ちゃんの為なら、早起きしちゃうね」

「いつもは何時に起きるんですか?」

「午前7時30分、目覚ましTVの占いコーナーが見たいから!」

「小学生でももう少し早く起きますよ!」

「そう?」


 昼休憩には、社員食堂で萌香を探し、隣に座って味噌汁を啜った。


「今日の味噌汁の具、なに?」

「ご覧の通り、お豆腐とワカメのお味噌汁です」

「なぁ、俺らいい加減付き合わね?」

「なっ、こ、こんなところで!」


 振り向くとそこには、口からワカメを垂らした孝宏の顔があった。萌香は思わず失笑してしまった。その笑顔に孝宏は満足そうに頷いた。


「可愛い」

「な、なによ」

「萌香は笑うと可愛い。俺だけの萌香にしたい」

「なっ、こ、こんなところで!」






 暗がりの児童公園、街灯の下で車のエンジンが低く響いていた。孝宏は助手席のシートをゆっくりと倒した。シートベルトのタングプレートが外される。萌香は初めての行為に目をきつく瞑った。


「そんな顔すんなよ」

「だって」

「キスするだけだぞ」

「だって、手が」

「あ、悪ぃ」


 ゆっくりと這い上がった孝宏の手は、萌香のスカートの中を弄っていた。



ピチョン



 萌香は足繁く、孝宏のマンションに通った。その晩の献立はシチューだった。萌香が人参の皮をピーラーで剥いていると、孝宏がその背後に立った。


「お腹すいた?まだ時間掛かるよ?」

「萌香」

「まだだって」

「萌香」

「え?きゃっ!」


 萌香は、引き摺られる様にリビングの床に押し倒された。人参がコロコロと転がっていた。見上げた孝宏の目の色は深く沈み、忙しなく動く指先は萌香のTシャツを剥ぎ取った。孝宏は、萌香の丘を両手で揉みしだくと、その突起に喰らい付いた。


「い、やっ、痛っ!」


 それでも孝宏はその手を止めず、肉食動物がガゼル草食動物を仕留めるように腰を動かした。その日以来、孝宏は萌香をベッドに押し倒すと、様に、激しく求めた。


「ごめん、痛くして」


 波が去った後の孝宏は優しかったが、になると豹変する。また、孝宏の持って生まれた性癖なのか、萌香の菊の花を散らそうと、その部位に指を当てがう事もあった。


「嫌っ!それは嫌!駄目!」


 そんな時、萌香は激しく抵抗しなければならなかった。


「ごめ、つい」

「うん」

「私も、よく分からなくて」

「うん」


 そして2人は、なし崩しに孝宏のマンションで同棲生活を始めた。


「同棲って、まだ早くない?」

「俺は萌香といたいんだよ」

「でも」

「いたいんだよ」


 その頃には、萌香と孝宏の関係は職場内でも公になっていた。ただ、寿退社も間近だと囁かれていた萌香にその気配はなく、周囲は2人の微妙な関係を気遣った。


「萌香、いつになったら孝宏くんは挨拶に来るの?」

「そのうちね」

「そのうち、そのうちって」

「そのうちね」


 萌香と孝宏の同棲を認めた萌香の母親は、気を揉んだ。そして、同棲2年目を過ぎた頃から、孝宏は萌香の身体に触れる事はなかった。半年前からは帰宅時間も遅く、外食の機会が増えた。萌香は1人で夕食を食べた。


(孝宏、やっぱり、浮気してるのかな)


 然し乍ら、萌香は、孝宏の浮気について問い正す勇気が持てなかった。


(もし、もしも、もしそうだったら、どうするの?)


 アジフライの小骨が喉の奥に刺さったような日々、萌香は今夜も、1人でダイニングテーブルの椅子に座った。

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