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第6話 キャミソール

 萌香が客室に足を運ぶと、応接セットのテーブルには、それまでなかった装花とワインクーラーが置かれていた。ワインを氷水と一緒に入れて冷やすバケツには、温度差でポタポタと水滴が垂れていた。装花は、客室の内装に合わせた渋いパープルの薔薇と青い矢車草でアレンジメントされていた。


気障きざなんだか、ロマンチックなんだか」


 ワインクーラーの中で冷えていたのはワインではなくシャンパンだった。萌香が時計を見遣ると、時刻は午前2:00を過ぎていた。煌めく夜景を眺め、車通りの少なくなった、暗い大通りを見下ろす。歩行者信号機の青が点滅している。引き返すならば今だ。このまま服を着て、あの扉を開ければ日常へと戻る。然し乍ら、萌香はそのまま椅子に腰掛けた。


キィ


 バスルームの扉が開き、湯気が湿り気を運んで来た。


「萌香さん、いたんだ」

「いましたけど?どう言う意味ですか?」

「どう言う意味って」


 芹屋隼人が、タオルで髪を拭きながら微笑んだ。整髪料でまとめられていた黒髪は水気が滴り、髪を下ろした面差しはより一層、若々しかった。到底、35歳とは思えなかった。


「もう帰ったと思っていたよ」

「帰りませんでした」

「どうして?」

「シャンパンが飲みたかったからです」

「なかなか、言うね」




 カラン




 芹屋隼人が、ワインクーラーから取り出したシャンパンは、きめ細やかな泡を弾いてシャンパングラスにトプトプと注がれた。グラスに触れた指先が冷たい。萌香と芹屋隼人は無言で見つめ合い、ゆっくりと乾杯をした。萌香は、振り絞った勇気を一気に飲み干すと、大きく息を吸って深く吐いた。


「・・・・・」


 その時、萌香の身体はふわりと軽くなり、腹の奥底から熱さが込み上げて来た。それは、シャンパンのアルコールによるものなのか、向かい合った黒い瞳に見つめられた熱情か、線引きは既に危うかった。シャンパングラスがテーブルに置かれ、どちらからともなく唇に触れた。


「・・・・・」


 萌香の腕が、芹屋隼人の逞しい背中に回され、指先に力が籠った。芹屋隼人は萌香の頭をしっかりと掴み、その舌は、貪るように口の中を、這い回った。絡み合う舌、萌香の後頭部は白く霞掛かり無我夢中でそれを受け止めた。


「・・・・・」


 2人の間に糸が引いた。


「良いの?」

「良いんです」


 萌香は導かれるようにその場に立たされ、ゆっくりとバスローブの腰紐を解かれた。


「本当に、良いんだね」

「もう、聞かないでください」


 萌香は、芹屋隼人が触れる肩に、全身の血が集中しているのを感じた。芹屋隼人の一挙一動が、胸を昂らせる。足元に、微かな音を立てて落ちるバスローブ、萌香の頬は赤く色付いた。


「意外、黒い下着なんだ」

「意外ですか?」

「真面目そうだから、意外だった」


 芹屋隼人がキャミソールの紐を指先で摘むと、それはスルスルと二の腕を滑っていった。薄い唇が、白い首筋にひとつ、ふたつと色を落とす。萌香は、その触れそうで触れない感触に、身体を震わせた。


「・・・・・っ」


 芹屋隼人は萌香に背中を向けるように言いつけ、肩甲骨の窪みに舌を這わせた。ビクンと跳ね上がる四肢。熱い吐息が尾てい骨から首筋へと何度も舐め上げ、ゆっくりとブラジャーの留め具が外された。こぼれ落ちる丘、萌香はその開放感に、『ふぅ』と深い息を吐いた。


「おいで」


 芹屋隼人は、萌香の腕を掴むと、まるで砂糖菓子が崩れるようにベッドへと倒れ込んだ。


「もう、これはいらないね」


 取り払われる羞恥心。全てを曝け出した萌香は、芹屋隼人のバスローブの襟を掴んだ。


「なに、脱がせてくれるの?」

「私だけなんて、ずるい」

「それは大歓迎だよ、よろしくお願いします」

「は、はい」


 萌香は、ぎこちない手付きで芹屋隼人のバスローブを脱がせた。ヴィンテージフローラルパターンのベッドサイドランプに浮かび上がる、ほどよい筋肉質の胸板。萌香は、シトラス・シプレに抱き締められた。


(孝宏と、全然違う)


 ふとそこで孝宏の面差しが頭を過り、きゅっと鼻を摘まれた。


「ふガッツ」

「こら」

「痛いです!急になんですか!」


 微笑みを湛えた目が、萌香を見下ろしていた。


「萌香さん。今は、私の事だけを考えて下さい」

「ごめんなさい」

「萌香さん」


 萌香の髪を掻き上げる手は優しい。


「芹屋さん」

「隼人と呼んで下さい」

「はや、とさん」


 芹屋隼人は啄むように口付けると、おもむろに萌香の脚を持ち上げた。そして、膝の窪みから爪先までを味わうように舐め、萌香の足の親指をその口に含んだ。


「え!芹屋さん!」

「隼人ですよ、萌香さん」

「隼人さん」

「綺麗な脚ですね」

「え」


 爪先で、芹屋隼人の舌が小刻みにうごめいた。


「今夜は、私だけのものです」

「せ、芹っ、アッ!」


 芹屋隼人の舌先が、萌香の足の指の間で前後し、軽くむ。その度に、萌香は背中を反らせ、ベッドのシーツを強く握り締めた。










 萌香は、動き出した街の気配で目を覚ました。見上げたベージュの天井にはシーリングファンがゆっくりと回り、チュールレースの天蓋てんがいを揺らしていた。ベッドの隣には誰の姿もなく、温もりもないが、乱れたシーツと萌香の身体が、熱い一夜を反芻はんすうしている。


(・・・・・)


 萌香は、バスローブを羽織ると、客室の窓の外を眺めた。青い靄の中のビル群は静かで、人の息遣いはなかった。見下ろした大通りには、数台の普通乗用車が赤色信号機で停車している。蟻のように見える小さな人が、キャリーバッグを手に金沢駅のコンコースへと走って行った。


(始発の新幹線に乗るのかな)


 振り向くと、すっかり温くなったワインクーラーが、テーブルに水の輪を作っていた。ふと見遣ると、パープルの薔薇の装花にドリンクコースターが挟まっていた。そこには、ボールペンで書かれたメッセージが残されていた。




<素敵な夜をありがとう>




「素敵な夜、か」


 萌香は大きなあくびをすると、熱いシャワーを浴びた。朧げな記憶がゆっくりと蘇って来た。萌香は、確かに芹屋隼人という人物に抱かれ、熱い一夜を過ごした。


(・・・・・)


 萌香は、朝帰りの気恥ずかしさをファンデーションで隠した。一旦、マンションに帰り、このまま出勤する事になるだろう。メイクはアイラインとアイブロウ、口紅を塗るだけにした。そして、芹屋隼人に『似合っている』と褒められた、ゴールドのピアスを着け、ファッションリングを右手の薬指に嵌めた。孝宏に対して後ろめたさはなかった。


「清算、お願いします」


 萌香は、ホテルの宿泊料金が、まさかの未払いではなかろうかと、内心、冷や汗をかきながら、ホテルのフロントにカードキーを返却した。ルームチャージ代は既に清算済みだと聞き、安堵した。


「いってらっしゃいませ」


 萌香はホテルマンに見送られ、排気ガスが往来する外の空気を吸った。丁度、始発のバスが停留所から出発するところだった。慌ててドアステップに飛び乗ると、ホテルの回転扉が遠ざかってゆくのが見えた。寝不足の黄色い太陽が眩しい。


(あ、芹屋さんの匂いがする)


 シャツに残った、シトラスシプレが少しだけ切なかった。






 マンションのゴミステーションの前で住人とすれ違った。朝帰りだと思われたのだろう、怪訝そうな顔をされた。


「ただいま」


 玄関の扉を開け、朝の挨拶をしてみたが返事はなかった。孝宏の革靴もスーツもなかった。銀行の早出だったのか、それとも浮気相手の部屋にでも転がり込んだのか?そう考えると憂鬱になり、溜め息が出た。


(なんだかなぁ)


 ホテルで予め、身支度は済ませて来た。あとは通勤服に着替えるだけだ。


(あーあ、仕事、休みたいなぁ)


 萌香は、紺に水色の細かい花柄のワンピースに袖を通し、ゴールドのピアスを外した。右手の薬指のファッションリングは、ステディな関係の男性がいる事を、周囲にアピールする為に着けている。自嘲気味な笑いが漏れた。


(こんな指輪、意味ないのに)



ピチョン



 水道のカランの調子が悪い。ふと見遣ると、ダイニングテーブルの上になにかが置かれていた。近付くとそれは、歪な形をした”おにぎり”だった。ラップの上に乱雑な字の、走り書きのメモが貼ってあった。




<腹減ったら食え>




 孝宏が、朝帰りをする萌香のために握ってくれた”おにぎり”に違いなかった。それを見た萌香の目頭は熱くなり、テーブルにはたはたと、涙の跡を作った。


「ずるいんだよなぁ」


 萌香は、その場に座り込んだ。


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