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第5話 ホテル日航金沢

 芹屋隼人が、タクシードライバーに告げた行き先は、ホテル日航金沢だった。そのホテルは、石川県内で3本の指に入る高級ホテルで、外観は、金沢市が一望出来る地上30階建てだった。見上げた首が痛い。


「ありがとうございました」


 タクシーの後部座席から降りた萌香は、その煌びやかな内装に冷や汗をかいた。


「これ、は」


 黒と金をイメージした大理石のエントランスには、光の粒が流れるシャンデリアが輝いていた。


(だ、大丈夫だよね!?)


 絹のワイシャツに、一張羅のスカート。なんとか、ホテルのドレスコードをクリアした萌香は安堵の溜め息を吐いた。まさか、芹屋隼人が、繁華街の裏通りに立ち並ぶラブホテルに向かうとは思わなかったが、せいぜい、その辺りのシティホテルだと思っていた。


「まさか、こんな高級ホテルだとは」

「どうしたの?落ち着かないね」

「芹屋さん、ここはどこですか」

「日航ホテルだよ」

「それはわかってます!」

「ANAクラウンプラザが良かった?」

「そんな意味じゃありません!」


 芹屋隼人は、『そんな事は分かっているよ』と言わんばかりに失笑した。その姿を見た萌香は頬を膨らませ、芹屋隼人の背中を叩いた。カードキーをエレベーターにかざすと、30、29、28と高層階から箱が降りて来た。それに反比例し、萌香の脈拍は上昇した。


「なに、緊張してるの?」

「そう見えますか?」

「うん、顔が引き攣ってる」

「え、ええっ!」


 夜景が広がるエレベーターのガラスに映った面差しは、確かに普段とは違って見えた。これから先、萌香と芹屋隼人の間に、何が起きるかなど分かり切っている。まさか、パジャマパーティーで『はい、おやすみなさい』で終わる筈がなかった。


「萌香さん」


 エレベーターの箱は、13、14、15とその時に向かって昇っていた。


「はい?」


 萌香が振り向こうと身を捩ると、そのままシトラスシプレの香りに抱き締められた。ディオールの、オーソバージュ。落ち着いた雰囲気が萌香を包み込み、一瞬、眩暈がした。


「・・・・・」


 芹屋隼人の熱い唇が萌香の唇を覆い、萌香は、まるで芳醇な赤ワインを喉に流し込まれた様な感覚に囚われた。萌香を抱き締めた腕の力は強くなり、ガラスの壁へと押し付けられた。背中にヒヤリと冷たい感覚が広がり、地上の星に堕ちて行きそうな恐怖と快感を感じた。萌香は、そのまま芹屋隼人に身を任せた。




ポーン




 絡まった舌先が名残惜しそうに離れ、萌香は芹屋隼人に肩を抱かれて一夜を過ごす部屋へと向かった。心臓の音が全身に響く。


(・・・・・)


 カードキーは2710号室の扉を開錠し、2人を中へと招き入れた。27階はニッコーフロアと呼ばれ、渋いラベンダーを基調とした設えで、ファブリックも落ち着いたベージュで統一されていた。そして、夜景が一望出来るベッドルームには、キングサイズのベッドが鎮座していた。淡いライトに浮かび上がるその光景に、萌香の脚は竦んだ。


「萌香さん」

「あ、は、はい」

「もうちょっと笑うとか、出来ないの?」

「む、無理です」

「そんなに緊張しないで」


 萌香は氷の彫像のように動きを止めた。


「そんな事、言われても、ドキドキが止まりません」

「これから私と、もっとドキドキするのに?」

「・・・・!」


 萌香の酔いは、その一言で吹き飛んでしまった。


「シャワーはお先にどうぞ、バスタブもあるからお湯を張る?」

「お、お湯、お湯が良いかな」

「じゃあ、準備して来るね」


 芹屋隼人は手慣れた風にバスタイムの準備を始めた。


(慣れてるなー。日常ちゃめし、日常茶飯事って事か)


 バスルームから水音が聞こえる。『もう少し、時間が掛かるから』と、バスタブの湯張りが終わるまで、ソファで寛ぐ事にした。


「ふぅ」


 萌香は小さく深呼吸をすると、ゴールドのピアスとファッションリングを外してアクセサリートレーに置いた。


「それが彼の趣味なの?萌香さんに、とても似合ってる」

「いえ、これは自分で買ったんです」

「え、指輪も?」

「はい」


 ネクタイを解きかけていた芹屋隼人はその動きを止めた。そして、萌香が同棲を始めてから、まともなプレゼントを受け取っていない事を知り、気の毒そうな面持ちになった。


「男性なら、好意を抱く女性にアクセサリーを贈りたいと思うのが普通だろう?」

「多分、そうですよね」

「せめてピアスのひとつくらいは買えるだろう、孝宏くんは無職なのか?」

「いえ、同じ職場で働いています」

「そうなのか」


 そこで、バスタブが湯で満たされた事を報せるチャイムが鳴った。


「萌香さん、お先にどうぞ」

「はい、ありがとうございます」


 そこで、萌香が戸惑っていると、芹屋隼人はショルダーバッグを手渡した。


「知っているのは名前だけで良いよ、バスルームに持って行って」

「ありがとうございます」


 やはり手慣れている。芹屋隼人にすれば一夜の恋など日常の事なのだろう。萌香は微妙な面持ちになった。


(なに考えてるのよ!芹沢さんとは今夜だけなんだから!)


 白いブラウスのボタンをひとつ、ふたつと外すと、小ぶりな胸を包み込む黒いブラジャーが顕になった。『淫らな女になりたい』と思ったが、まさか本当に自分がこんな事をするとは思いも寄らなかった。


(自分でもびっくり、こんな事をしちゃうなんて)


 萌香は、恥じらいと戸惑いを脱ぎ捨てて、バスルームの扉を開けた。するとそこには、見た事のない景色が眼下に広がっていた。煌めく夜景が、ガラス窓いっぱいに広がった。


「わぁ、綺麗!すごい!綺麗!」


 萌香は、バスルームの照明を最小にして仄かな灯りの中で、夢見心地のバスタイムに浸ろうと足先を湯船に浸した。適温のジャグジー、微小な泡が心地よい。


(すごい贅沢)


 それでも頭に浮かぶのは、孝宏の言葉だった。『風呂、外で入って来たから』今になって、その衝撃と悲しみが込み上げて来た。涙が頬を伝う。


(だからって、こんな当て付けみたいな事して。私も相当な馬鹿だな)


 萌香はバスルームで声を殺して泣いたが、次第に、悲劇のヒロインを演じている自分が愚かで滑稽に思えて来た。涙も枯れ果てるとはこの事だった。はた、と気が付けば憑き物が取れた様に、思考回路が明瞭になった。


(そうよ!)


 ワインバーで声を掛けられた、芹屋隼人との出会いは一夜限りと割り切って、これから新しい恋人を見つけ、輝かしい未来を切り拓くという選択肢もある。


(孝宏なんか!)


 30歳にもなって結婚を意識しない浮気男との未来など、たかが知れている。


(そうよ!孝宏だけが男じゃないわ!)


 ただ、このまま泣き寝入りする事は悔しい。せめて、孝宏の浮気相手を突き止めて、孝宏と一緒に土下座をさせ、謝罪の一言を要求しても罰は当たらないだろう。


(慰謝料を請求したいくらいだけど!多分、出来ないけど!許せない!)


 そこで萌香は、幼馴染の田辺慎介たなべしんすけの顔を思い出した。生命保険会社に勤務する田辺慎介は、営業職で暇を持て余しているらしく、事あるごとに萌香にLIMEを寄越している。


(慎介に、孝宏の身辺調査をして貰うのもアリね!アリ!)


 などと、萌香がジャグジーでぶくぶく考え事をしていると、芹屋隼人がバスルームに声を掛けて来た。


「萌香さん、まさか倒れてないよね?」

「あ、はい!生きてます!」

「じゃあ、私も一緒に入って良いかな?」

「はい!え、いいえ!今すぐ出ます!」


 扉の向こうで『ちぇっ』と声が聞こえた。年齢の割に、可愛らしい人なのかもしれない。慌てて泡を流し落とした萌香は、黒い下着を身に付けた。アイブロウペンシルで眉を整え、口紅を塗る。


(萌香!覚悟を決めるのよ!)


 萌香は、バスローブを羽織り腰紐を結えた。


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