次に、芹屋隼人は、山形県産のワインを萌香に勧めた。
「山形県は、ワインの三大産地ではないんですよね?」
「そうですが、山形県や島根県のワインもお勧めです」
「山形、山形県」
「はい」
「山形県ってどこでしたっけ?」
芹屋隼人は笑いを堪えながら、カウンターテーブルに水滴で日本地図を書くと、その場所に雫を垂らした。
「私、地理が苦手で」
「私は道徳の授業が苦手でしたよ」
そして、芹屋隼人は、『国内製造のワインは、酸化防腐剤が入っていないから口当たりが良い』のだと、ボルドー型のワイングラスを傾けた。すると、ワイングラスが空になった頃を見計らい、バーマンが近付いて来た。
「月山ワイナリーの、ヤマソーヴィニヨンはありますか?」
「ございます」
「それをお願いします、彼女にも同じ物を」
「かしこまりました」
バーマンは頷き、棚に並んだボトルを手に取った。山形産ワインのラベルには、可愛らしい鳥のイラストが印刷されていた。
「芹屋さんは、ワインにお詳しいんですね」
「いいえ、特には。取引先との接待でよく利用するので、美味しかった銘柄を覚えている程度です」
「そうなんですか、お仕事で」
「はい」
確かに、芹屋隼人はこの店の常連客らしく、その雰囲気にしっくりと馴染んでいた。
(こんな人も、いるんだなぁ)
萌香が、接待や忘年会、新年会で利用するのは居酒屋や焼肉店、それに比べ、目の前の男性は、敷居が高そうなこのワインバーをよく利用すると言った。(生きている世界が違うって、こういう事よね)萌香が、物思いに耽っていると、芹屋隼人に話し掛けられ、我に帰った。
「萌香さん」
「あっ、はい」
「ヤマソーヴィニヨンは山葡萄を使っていて独特な風味が楽しめますよ」
「山葡萄!初めてです」
「野生的で深みのある赤ワインです」
野生的と聞いた萌香は、孝宏を連想した。孝宏は自分の帰りを待っていてくれるだろうか、それとも邪魔者が留守とばかりに、浮気相手とLIME通話で、『好きだよ』だの、『愛しているのは、君だけだよ』だのと、耳元で囁いているのだろうか?
(き、きもっ!)
萌香は、邪推を打ち消すかのように、眉間にシワを寄せて頭を左右に激しく振った。その、萌香の突拍子もない動きに芹屋隼人は驚き、不安げな面持ちで様子を窺った。
「どうされましたか?」
「あ、ちょっと酔っちゃったかもしれません」
「そうですか、大丈夫ですか?」
「大丈夫です!はい!お酒は強いので!」
日本の山葡萄と、カベルネ・ソードヴィニョンを交配し、品種改良した”ヤマソーヴィニョン”は、萌香の、ささくれた心を優しく癒した。
「芹屋さん!こんなに落ち着いた味のワインは初めてです!」
「喜んで頂けて、良かったです。紹介した甲斐があります」
「美味しい、こんな美味しいワインがあるなんて知らなかった!」
”ヤマソーヴィニョン”は、ワイングラスの中で野生を感じさせる独特の香りを放ち、ダウンライトに透かすと、ルビーに似た濃い色合いをしていた。軽やかな喉ごし、それでいて、深みのある味わいは飲みごたえがあった。
「ところで」
そこで芹屋隼人は、萌香がなぜ1人でワインを飲んでいたのかを尋ねて来た。萌香の目は上下左右に動いたが、(もう2度と会う事もないだろう)と思い、これまでの経緯を酔いに任せてぶち撒けた。
「あぁ、それでこのワインバーにいらしたんですね」
「そうなんですよ!外でお風呂に入って来たなんて普通、言いますか!?」
「まぁ、うっかり口が滑っちゃったんだろうね」
この頃になると、芹屋隼人の口調も親しみやすいものへと変化していた。
「うっかり!うっかり浮気してもいいんですか!?」
「男は仕様がない生き物だから」
萌香は芹屋隼人に詰め寄り、その顔を睨み付けた。萌香の目は半分座っている。バーマンは2人の遣り取りに気を利かせ、カウンターの隅の客と談笑を始めた。
「じゃあ、芹屋さんもうっかり外でお風呂に入っちゃうんですか!?」
「私には恋人も、婚約者も、
「さい、くん?」
「あぁ、妻、奥さんの事だよ」
芹屋隼人は左手をひらひらと降って見せ、薬指に指輪がない事を萌香に知らしめた。
「でっ、でも!今、指輪を外しているだけかもしれないし!」
「見てみる?」
萌香は芹屋隼人の左手のひらを握ると、まるで手相を見るかのように左の薬指を凝視した。その付け根に、ステディな結婚指輪の日焼けの痕はなかった。
「指輪の痕が、ない」
「ないでしょ?」
「ない、なんで!?なんで!?芹屋さん、こんなに格好いいのに、なんで!?」
「ただの35歳のおじさんだよ」
萌香は驚きで目を見開いた。
「35歳なんですか!?」
「うん」
「孝宏より5歳も年上なのに!なんで?なんでそんなに若いの!?」
萌香の両手は芹屋隼人の頬を引っ張り、粗を探そうと顔を近付けて見た。然し乍ら、その血色の良い肌には、シワどころかシミひとつなかった。
「彼の名前は、孝宏くんって言うんだ」
「あ、はい。そうです」
「孝宏くんは30歳か」
「この前の誕生日で、30歳になりました」
「30歳と言えば、1番、遊びたい盛りだね」
「そうなんですか!?」
芹屋隼人は、『たぶんね』と含み笑いをしながら、萌香の手を握った。ワインの酔いが回った2人の手のひらは赤く色付き、互いの熱を感じた。萌香が握られた指先に視線を落としていると、それは芹屋隼人の指に絡め取られた。
「・・・・!」
驚いた萌香が顔を挙げると、芹屋隼人は萌香の人差し指に舌を這わせ、自身の薄い唇に当てがった。その時、萌香の尾骶骨から脳髄にかけて電流が走った。
ぬぷっ
萌香の人差し指は、芹屋隼人の熱い唇の隙間に滑り込んだ。生温かい感触が伝わってくる。それは、ワインを味わうように、ゆっくりと丹念に転がされた。芹屋隼人の、上目遣いの黒い瞳が、獲物を狙った黒豹のように萌香を捉えて離さなかった。
「・・・・・」
その動きを萌香は争う事なく見つめていた。糸を引く指先、芹屋隼人は乱れた萌香の髪を手櫛で掻き上げると、妖しく微笑んだ。ゴールドのピアスが揺れる。
「萌香さん、それなら君も羽根を伸ばしてみない?」
「羽根、ですか?」
「その浮気男に振り回される人生なんて、虚しいだけだと思わない?」
「それは、そうですけれど」
「萌香さんも、自由な時間を楽しんでも良いと思うよ」
「・・・・・」
見つめ合う2人。萌香と芹屋隼人は、残り少なくなった深紅のワインで乾杯した。
「日航ホテルまでお願いします」
「かしこまりました」
タクシーの車窓から眺める煌びやかなネオンサインは、時速60キロメートルの速さで背後へと流れて消えた。後部座席に座った萌香と芹屋隼人の指先は、言葉を交わさずとも熱く絡み合っていた。
「・・・・・」
眩しく光る対向車線のヘッドライト。薄暗闇の車内で、萌香と芹屋隼人は、それぞれが、それぞれの窓の外を見ていた。アメリカ楓の並木道が、延々と続いた。
(・・・・・私)
そして、萌香にとって無言の空間は、思いの外、居心地が良かった。
(あ、雨)
赤信号でタクシーが停まった。低いエンジン音が足元から響いてくる。スクランブル交差点を行き交う人、人、人。萌香は、隣の気配を窺い見た。異国の人を思わせる横顔、緩やかに撫で付けた艶のある黒髪、上質なスーツを着た、落ち着いた仕草の男性。
(芹屋隼人さん)
降り出した雨がタクシーの窓ガラスを伝い、色彩鮮やかなネオンの街は、水槽のように揺らぎ始めた。
(私、これから、なにをするつもりなの?)
萌香は今、水槽の中を泳ぐ1匹の熱帯魚だった。