「いらっしゃいませ」
樽の香りがふわりと鼻先をくすぐる。蓄音器は、ジャズのブルームーンを静かに刻んでいた。
(素敵だけど、素敵すぎて!緊張する!)
バーカウンターは、不規則な赤褐色の色味と経年を感じさせるブラックチェリーの無垢材、幾つものワインバスケットには、深緑のボトルが横たわっていた。
「お好きな席へ、お掛けください」
「あ、はい」
黒髪をオールバックに撫で付けた、バーマンがゆっくりと会釈をした。思わず萌香もペコリと頭を下げ、バーカウンターの一番端のスツールに腰掛けた。『どうぞ』とメニューを手渡されたが、英語とカタカナが左から右へと流れた。
(ど、どれが良いのかわかんない!)
戸惑う萌香の気配を察したバーマンが、さり気なく声を掛けて来た。
「お客さま、赤ワインと白ワイン、どちらがお好みですか?」
「あ、赤ワインが好き、です」
「かしこまりました」
バーマンは、『まずは、バリューボルドーはいかがでしょうか?』と提案して来た。バリューならばお手軽で、財布にも優しいだろうとそれをオーダーした。すると、可愛らしいサイズの器に、薄切りのトマトとモッツアレラチーズを生ハムで包んだバーフードが差し出された。バジルの緑が目に鮮やかだ。
(美味しそう)
そして、ボルドー型のグラスに注がれた、透き通る赤。萌香は、グラスを回して香を楽しむと、一口含んで喉に流し込んだ。ピックを摘んでトマトを頬張った。トマトの酸味とモッツアレラチーズの食感、上質な生ハムの塩味が幸せを運んで来た。
「美味しい」
思わず口から漏れた歓喜の声に、バーマンは口角を上げ、ゆっくりと頷いた。次に『ブルゴーニュ地方のワインはいかがですか?』と勧められ、ブルゴーニュという地名に聞き覚えがあった萌香は、『それでお願いします』と、バーマンを見上げた。
「ピノ・ノワールになります」
「綺麗ですね!」
ダウンライトに光を弾くワイングラスに、深紅のピノ・ノワールがゆっくりと揺れた。ワインを口に含むと、舌の奥にしっかりとした厚みと渋みを感じ、果実とスパイスの香りが萌香を満たした。
「こちら、和牛のローストビーフになります」
山椒の実が添えられたローストビーフは赤ワインによく合った。萌香はピックを摘んでローストビーフを口に運ぶと、ワイングラスを傾けた。
「お客さま、お召し上がりになられるピッチが早いような気がしますが、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫です。私、こう見えてもお酒、強いんです」
「なら、宜しいのですが」
バーマンは箸休めにと、フリルレタスとブロッコリー、黄色いパプリカに薄切りラディッシュのサラダをカウンターに置き、ハニーマスタードのドレッシングの器を添えた。サラダの赤いイチゴがアクセントになっている。
「写真、撮っても良いですか?」
「どうぞ」
あまりに美しい彩に、萌香は携帯電話を取り出すとカメラを構えた。そして、数枚撮ったところで我に帰った。周囲は落ち着いた紳士淑女ばかりで、カメラを構える客は萌香ぐらいだった。気恥ずかしさで頬が熱くなった、いや、もしかしたら随分と酔いが回っているのかもしれない。
「次のワインで最後にします」
「かしこまりました」
孝宏に、『今夜は帰らないかもしれない』と豪語したものの、結局、帰る場所は、あのマンションの205号室しかなかった。最後の手段で、深夜に実家に行こうものなら、同棲に反対している父親が、『それみた事か!』と萌香を連れ戻しに来る事は明らかだった。
(かと言って、ホテルに泊まるのも、勿体ないし)
同棲を始めた当初、光熱費や生活費は孝宏と折半していた。ところがいつの間にか、萌香がその大半を担っていた。給料日まであと1週間もある。ここでホテルに宿泊する余裕はなかった。
(しかも、こんな高そうな店でワインを飲んじゃったりして。孝宏のせいで無駄遣いしちゃったじゃない!もう!)
ただ、ここまで冷静に物事を考えられるという事は、思いの外、酔ってもいないのだろう。萌香はスツールの下でパンプスをぶらぶらさせながら、束の間のご機嫌な時間をもう暫く楽しむ事にした。
(ああ、でもお腹いっぱいになっちゃった)
夕食の豚の生姜焼きが邪魔をして、折角の鯛のカルパッチョがお腹に入らない。萌香がつまらなそうな面持ちで箸を持っていると、隣のスツールに人の気配が腰掛けた。萌香は慌てて、だらしなく伸ばしていた肘を元に戻し、姿勢を正した。
「すみません」
萌香の隣のスツールに腰掛けた気配は、深い森の中で深呼吸をしたような声色の男性だった。男性はバーマンに目配せをした。
「はい」
「彼女と私に、同じワインを」
「銘柄はいかがなさいますか?」
「あぁ、ちょっと待って」
「かしこまりました」
萌香が横目で窺い見ると、その男性は、仕立ての良い濃灰のスーツにグレーのワイシャツ、品の良い織のネクタイを締めていた。孝宏の9,800円のスーツとは大違いだ。
(え、彼女!?彼女!?彼女って言った!?)
周囲を見回したが、そこに女性客の姿はなかった。驚いた萌香が上目遣いで見上げると、アジア系のエキゾチックな面差しの男性が微笑んでいた。
(外国の人、台湾かな?でも、日本語喋ってるし)
萌香は、初めて会うこの男性を、凝視した。
「なにか?」
「いえ、綺麗な顔だなぁって思って」
「綺麗ですか?」
男性は前髪を掻き上げた。
「あっ、いえ!男の方に綺麗って、おかしいですよね!ごめんなさい!」
「大丈夫です。褒められて気を悪くする事はありませんから。ありがとうございます」
「ご、ごめんなさい」
その時、萌香は、孝宏が臆面もなく、『俺、俳優のあいつに似てるって言われるんだぜ』と、自信満々で己の魅力をアピールする厚かましさを思い出し、大きな溜め息を吐いた。
(単に髭を生やした、おっさんなだけじゃない)
すると、その綺麗な顔が至近距離で萌香を覗き込んだ。
「・・・・!」
「フランスのワインも美味しいですが、日本のワインもお勧めですよ」
「そ、そうなんですね」
「渋みのあるワインがお好きなんですか?」
萌香のグラスを覗き込んで微笑む。
「いえ、渋みが弱い方が好きです」
男性は萌香に向き直り、話を続けた。
「では、長野のワインはいかがですか?」
「長野もワインの産地なんですか?」
「はい。山梨県と長野県、北海道が日本の三大産地です」
「そうなんですね。飲んでみたいです!」
「では、コンコードをお願いします。農園はお任せします」
ボルドー型のワイングラスに深みのある赤が注がれた。そして、萌香の目の前にグラスが差し出された。『乾杯』を意味するのだろう。恐る恐るグラスを持ち上げると、軽やかな音が2人の出会いを祝った。萌香はその黒い瞳に吸い込まれそうな感覚に陥った。
「どうですか?渋くないでしょう?」
「はい。口当たりがとても軽いです」
「あなたは本当にワインがお好きなんですね」
「はい、大好きです!」
萌香がグラスを傾け、ぐいっと飲もうとすると、不意に手首を掴まれた。その突然の出来事に、萌香の心臓は大きく跳ねた。
「待ってください」
「は、はい」
「ワインはゆっくりと、舌の上を流れるように味わって」
「舌の上を」
「はい。舌の上を流れるように」
萌香がゆっくりとグラスに口を近付けると、男性は満足気にその横顔を見つめた。
「あなたの名前は?教えたくない?」
「え?」
萌香はもう2度と会う事もない、一期一会の関係だと思い、ワインで頬を赤めながら『長谷川萌香です』と気軽に名乗った。
「萌香さん」
「はい」
「萌香さんの名前を尋ねて、私が名乗らないのはフェアではありませんね」
「そうでしょうか」
「ええ。私はあなたに、私の名前を知ってもらいたいんです」
ボルドー型のワイングラスが、ブラックチェリーのカウンターに置かれた。
「あなたの名前」
「はい、私の名前です」
いつしか、その手は萌香の手に重ねられていた。
「
「せりや、さん」
「私の名前は、
「芹屋隼人さん」
「はい」
Rencontre 出会い これが2人の出会いだった。