目次
ブックマーク
応援する
12
コメント
シェア
通報

第2話 口論

 萌香の振りかざした手のひらは孝宏の右頬を叩いた。バランスを崩した孝宏はリビングの床に倒れ込んだ。萌香の手のひらは痛みでジンジンと痺れ、呼吸は激しく乱れて肩で息をした。


「い、痛って!なにすんだよ!」

「下の部屋の人、びっくりして起きちゃったかもね」

「なに言ってるんだよ!」

「孝宏こそ、なにを言ったの?」


 ピチョン


「な、なにって?」

「お風呂、外で入って来たんだって?」

「そんな事、言ったか?」

「誤魔化さないで!」


 ピチョン


「萌香、そんなデカい声出すなよ。近所迷惑だろ?」

「誰が出させていると思ってるの!?」

「デカい声出すなって!」


 ピチョン


「分かった」


 萌香は、エプロンを身に着けるとシンクに向かい、キッチンスポンジを泡立てた。ひとりきりの夕食を、唇を噛みながら洗い落とす。洗い桶の水を流すと、ゴボゴボと排水口から不満げな音がした。


「おい、萌香」


 萌香は返事をする事なくエプロンを壁のフックに掛けると、キッチンの電気を消した。リビングは一気に暗さを増し、孝宏は気不味さで言葉を失った。萌香はもう一度顔を洗うと寝室へと向かった。


(・・・バレたか?)


 孝宏は頭を掻きながらソファに座り込み、視線を足元に落とした。孝宏は、萌香の予想通りに浮気をしていた。それも、ひとり2人ではない。3人、4人と、手当たり次第に声を掛け、ベッドに誘った。一夜限りの関係もあった。



<あなたと暮らす意味が分からない>



 萌香はクローゼットから白いブラウスと紺色のタイトスカートを取り出した。ベッドに腰掛け、思わず力が入り破れそうになるのを堪えながら、ストッキングを履いた。白いブラウスの下には黒いブラジャーを着けた。淫らな女になりたかった。


(孝宏が、浮気をしていたなんて!)


 ドレッサーに座ってファンデーションを塗り、貼りついた生活感を覆い隠した。


(どうして今まで、今まで気付かなかったんだろう!)


 アイブロウペンシルを握る手が震えた。


(どうして?いつから!?)


 そう自問自答しつつ、萌香には薄らと分かっていた。自身に触れなくなったのは1年前、外食が多くなったのは半年前、浮気の気配が十分あったにも関わらず、萌香は見て見ぬふりをしていた。


(私、ダメだった?なにがダメだったの?)


 瞼をゆっくりと閉じ、普段は使わない光沢のあるゴールド系ブラウンのアイシャドウを塗った。マスカラも揃いで濃いブラウンを選んだ。


(どうして、こうなったの?)


 艶のあるシアーなオレンジの口紅を、ぽってりとした唇に乗せた。それまで悲しげだった面差しが、美しく華開いた。髪を掻き上げ、ゴールドの揺れるピアスを着けた。これは、萌香が自身のボーナスで購入したものだ。


(・・・・)


 振り返れば、孝宏から、アクセサリーの類のプレゼントは一つもなかった。それはまるで、と暗に告げられている様でいつも悲しかった。


(でも、浮気相手には、プレゼントしていたりして)


 鏡の中で、自嘲的な笑いが込み上げた。萌香はショルダーバッグを肩に担ぐと寝室の扉を開けた。その姿を見た孝宏はギョッと驚いた顔で狼狽えた。


「ど、どうしたんだよ」

「なにが?」

「そんな格好して、もう12時過ぎてるぞ?」

「そうね」


 萌香は蔑んだ目で孝宏を見下ろした。


「どこに行くんだよ」

「孝宏に言う必要ある?」

「そりゃ、どこに行くのか聞いておかないと」

「聞いてどうするの?」

「どうって」


 萌香は、孝宏の言葉に振り返る事なく廊下を進んだ。それは心弾む外出などではなく、怒りしかなかった。こんな時間にどこに行くのか?萌香自身、想像すら出来なかった。とにかく、この馬鹿馬鹿しく、虚しい口論から遠く離れた場所に行きたかった。


「いってきます」

「お、おい、萌香」

「今夜は帰らないかもしれないから」

「どういう意味だよ」

「そういう意味よ」


 背後で孝宏が『萌香!行くなよ!』と叫んでいたが、萌香のパンプスは205号室の扉を閉めると、階段を駆け下りた。



<あなたと暮らす意味が分からない>



 萌香は往来まで出ると街を流すタクシーに手を挙げた。後部座席のドアがふわりと開き、萌香を迎え入れた。


「お客さん、どこまで」

「運転手さん」

「はい、なんですかね」

「夜遅くまで営業しているワインバー、知りませんか?」

「お客さん、もう十分、遅いですよ」

「そうね」


 思わず笑みが溢れた。


「この前、別のお客さんを案内したんですがね」

「はい」

「フランスのワインは好きですか?」

「フランス、ワインなら、なんでも好きです!」


 萌香は目を輝かせた。


「これがまた小洒落た店でね」

「はい」

「ラン、ランなんとかって店なんですが、良い感じでしたよ。そこでどうですかね」

「じゃあ、そこでお願いします」

「はいよ、じゃあ閉めますね。脚、気を付けて下さいね」


 パタンと閉まるタクシーのドアは、萌香を自由な夜の世界へと連れ出した。車窓に流れる、色彩豊かなネオンサインは熱帯魚が泳ぐ水槽を思わせた。


(孝宏は、この街に居たのね)


 歩道を腕を組んで歩く男女の姿、その年齢は明らかに親子ほど離れていて、昼の街角で会えばさぞ驚く事だろう。それが、この夜の街では許される。萌香は、孝宏と見知らぬ女性の逢瀬を想像しただけで気分が悪くなった。そして、自分がいかに狭い世界にいたのだろうとこの3年間を振り返った。


(銀行とスーパー、マンションの往復じゃ、所帯じみるのも当たり前か)


 孝宏に、『私は母親じゃない!』と不平不満を吐露したところで、萌香は、いつの間にかその存在に甘んじていた。ただただ、尽くす事が結婚への近道だと思い込んでいた。


(私、馬鹿だ)


 ふたたび目頭が熱くなり、グッと堪えた。やがてタクシーは賑やかな繁華街を通り抜け、アメリカ楓の並木道を真っ直ぐに進んだ。


(・・・・あ!)


 高架橋の坂を下り右折すると、赤煉瓦の倉庫が並んでいた。その中の一棟に、仄かな灯りが点っている。上品で静かな佇まいは、萌香の心を鷲掴みにした。


「素敵ですね!」

「あー、思い出しましたわ」

「なにをですか?」

「店の名前ですよ」


 乗車運賃を精算しながら、タクシードライバーは木製の看板を見上げた。


「あー、ランコーントル」


 萌香が覗き見ると、確かにRencontreと彫られていた。


「ランコーントル」

「前に乗ったお客さんが言うには、だそうです」

「出会い」

「ハイカラですよねぇ、はい、200円のお釣り」

「あ、お釣りは結構です」

「そうですか?ありがとうございます」


 Rencontreランコーントル 出会い


 萌香は大きく息を吸うと、その店の扉を開けた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?