萌香の振りかざした手のひらは孝宏の右頬を叩いた。バランスを崩した孝宏はリビングの床に倒れ込んだ。萌香の手のひらは痛みでジンジンと痺れ、呼吸は激しく乱れて肩で息をした。
「い、痛って!なにすんだよ!」
「下の部屋の人、びっくりして起きちゃったかもね」
「なに言ってるんだよ!」
「孝宏こそ、なにを言ったの?」
ピチョン
「な、なにって?」
「お風呂、外で入って来たんだって?」
「そんな事、言ったか?」
「誤魔化さないで!」
ピチョン
「萌香、そんなデカい声出すなよ。近所迷惑だろ?」
「誰が出させていると思ってるの!?」
「デカい声出すなって!」
ピチョン
「分かった」
萌香は、エプロンを身に着けるとシンクに向かい、キッチンスポンジを泡立てた。ひとりきりの夕食を、唇を噛みながら洗い落とす。洗い桶の水を流すと、ゴボゴボと排水口から不満げな音がした。
「おい、萌香」
萌香は返事をする事なくエプロンを壁のフックに掛けると、キッチンの電気を消した。リビングは一気に暗さを増し、孝宏は気不味さで言葉を失った。萌香はもう一度顔を洗うと寝室へと向かった。
(・・・バレたか?)
孝宏は頭を掻きながらソファに座り込み、視線を足元に落とした。孝宏は、萌香の予想通りに浮気をしていた。それも、ひとり2人ではない。3人、4人と、手当たり次第に声を掛け、ベッドに誘った。一夜限りの関係もあった。
<あなたと暮らす意味が分からない>
萌香はクローゼットから白いブラウスと紺色のタイトスカートを取り出した。ベッドに腰掛け、思わず力が入り破れそうになるのを堪えながら、ストッキングを履いた。白いブラウスの下には黒いブラジャーを着けた。淫らな女になりたかった。
(孝宏が、浮気をしていたなんて!)
ドレッサーに座ってファンデーションを塗り、貼りついた生活感を覆い隠した。
(どうして今まで、今まで気付かなかったんだろう!)
アイブロウペンシルを握る手が震えた。
(どうして?いつから!?)
そう自問自答しつつ、萌香には薄らと分かっていた。自身に触れなくなったのは1年前、外食が多くなったのは半年前、浮気の気配が十分あったにも関わらず、萌香は見て見ぬふりをしていた。
(私、ダメだった?なにがダメだったの?)
瞼をゆっくりと閉じ、普段は使わない光沢のあるゴールド系ブラウンのアイシャドウを塗った。マスカラも揃いで濃いブラウンを選んだ。
(どうして、こうなったの?)
艶のあるシアーなオレンジの口紅を、ぽってりとした唇に乗せた。それまで悲しげだった面差しが、美しく華開いた。髪を掻き上げ、ゴールドの揺れるピアスを着けた。これは、萌香が自身のボーナスで購入したものだ。
(・・・・)
振り返れば、孝宏から、アクセサリーの類のプレゼントは一つもなかった。それはまるで、
(でも、浮気相手には、プレゼントしていたりして)
鏡の中で、自嘲的な笑いが込み上げた。萌香はショルダーバッグを肩に担ぐと寝室の扉を開けた。その姿を見た孝宏はギョッと驚いた顔で狼狽えた。
「ど、どうしたんだよ」
「なにが?」
「そんな格好して、もう12時過ぎてるぞ?」
「そうね」
萌香は蔑んだ目で孝宏を見下ろした。
「どこに行くんだよ」
「孝宏に言う必要ある?」
「そりゃ、どこに行くのか聞いておかないと」
「聞いてどうするの?」
「どうって」
萌香は、孝宏の言葉に振り返る事なく廊下を進んだ。それは心弾む外出などではなく、怒りしかなかった。こんな時間にどこに行くのか?萌香自身、想像すら出来なかった。とにかく、この馬鹿馬鹿しく、虚しい口論から遠く離れた場所に行きたかった。
「いってきます」
「お、おい、萌香」
「今夜は帰らないかもしれないから」
「どういう意味だよ」
「そういう意味よ」
背後で孝宏が『萌香!行くなよ!』と叫んでいたが、萌香のパンプスは205号室の扉を閉めると、階段を駆け下りた。
<あなたと暮らす意味が分からない>
萌香は往来まで出ると街を流すタクシーに手を挙げた。後部座席のドアがふわりと開き、萌香を迎え入れた。
「お客さん、どこまで」
「運転手さん」
「はい、なんですかね」
「夜遅くまで営業しているワインバー、知りませんか?」
「お客さん、もう十分、遅いですよ」
「そうね」
思わず笑みが溢れた。
「この前、別のお客さんを案内したんですがね」
「はい」
「フランスのワインは好きですか?」
「フランス、ワインなら、なんでも好きです!」
萌香は目を輝かせた。
「これがまた小洒落た店でね」
「はい」
「ラン、ランなんとかって店なんですが、良い感じでしたよ。そこでどうですかね」
「じゃあ、そこでお願いします」
「はいよ、じゃあ閉めますね。脚、気を付けて下さいね」
パタンと閉まるタクシーのドアは、萌香を自由な夜の世界へと連れ出した。車窓に流れる、色彩豊かなネオンサインは熱帯魚が泳ぐ水槽を思わせた。
(孝宏は、この街に居たのね)
歩道を腕を組んで歩く男女の姿、その年齢は明らかに親子ほど離れていて、昼の街角で会えばさぞ驚く事だろう。それが、この夜の街では許される。萌香は、孝宏と見知らぬ女性の逢瀬を想像しただけで気分が悪くなった。そして、自分がいかに狭い世界にいたのだろうとこの3年間を振り返った。
(銀行とスーパー、マンションの往復じゃ、所帯じみるのも当たり前か)
孝宏に、『私は母親じゃない!』と不平不満を吐露したところで、萌香は、いつの間にかその存在に甘んじていた。ただただ、尽くす事が結婚への近道だと思い込んでいた。
(私、馬鹿だ)
ふたたび目頭が熱くなり、グッと堪えた。やがてタクシーは賑やかな繁華街を通り抜け、アメリカ楓の並木道を真っ直ぐに進んだ。
(・・・・あ!)
高架橋の坂を下り右折すると、赤煉瓦の倉庫が並んでいた。その中の一棟に、仄かな灯りが点っている。上品で静かな佇まいは、萌香の心を鷲掴みにした。
「素敵ですね!」
「あー、思い出しましたわ」
「なにをですか?」
「店の名前ですよ」
乗車運賃を精算しながら、タクシードライバーは木製の看板を見上げた。
「あー、ランコーントル」
萌香が覗き見ると、確かにRencontreと彫られていた。
「ランコーントル」
「前に乗ったお客さんが言うには、
「出会い」
「ハイカラですよねぇ、はい、200円のお釣り」
「あ、お釣りは結構です」
「そうですか?ありがとうございます」
萌香は大きく息を吸うと、その店の扉を開けた。