「あなたと暮らす意味が分からない」
キッチンのシンクには、なみなみと水が張られた洗い桶。蛇口からは、ピチョンピチョンと水滴が垂れ、水面に波紋を作っている。点けっ放しのテレビからは、聞き飽きたコマーシャルソングが流れていた。ソファに肘を突いて寝転がっていた
「なに、聞こえなかった」
マンションの往来を、救急車のサイレンが近付き、そして遠く離れて行った。窓の外は暴風雨だ。夜の暗闇に街灯の明かりが揺れていた。
「孝宏と暮らす意味が分からない」
「どういう事?」
「孝宏と暮らす意味が分からない、だって孝宏は・・・」
はっ!
換気扇の通風口に舞い上がる風の音で、
「ふぅ」
水滴が付いたグラスをダイニングテーブルに置くと、あの音が聞こえた。
ピチョン ピチョン
シンクの洗い桶には1人分の茶碗と平皿、赤い箸が沈んでいた。孝宏が帰宅したら一緒に洗おうと、水に漬けておいた。冷蔵庫の中には、ラップを掛けた豚の生姜焼きが入っている。孝宏の好きな献立だ。
(今日は、早く帰るって、言ってたのに)
萌香は汗だくになったパジャマを脱ぐと、腹立ちと一緒に、洗濯かごに放り込んだ。鏡に映る栗色の髪を掻き上げる、
(いーっ)
萌香は口角を上げて作り笑いをして見たが、目が笑っていない。不機嫌な原因はあの足音にある。マンションの階段を上って来る革靴、ポケットからシリンダーキーを取り出して鍵穴に挿す。
ガチャ
遠慮がちに玄関を上がった足音は、すり足で廊下を歩いて来た。
「うおっ!おま、なにしてんだよ!」
薄暗い廊下で、素っ頓狂な声を上げ飛び上がったのは、萌香の同棲相手である、
「なにって、汗をかいたから着替えてるだけよ」
「そんなもん、早く片付けろよ」
「なによ、そんなもんって!私のおっぱいは物じゃないわ!」
寝食を共にすれば馴れ合ってしまうのか、孝宏は、萌香の胸を”そんな物”と言い、萌香も、自身が半裸である事に恥じらいを感じる事はなかった。
(そうよね”物”なのよね、触る気なんて微塵のミジンコもないのよね!)
いつからか、孝宏の手が萌香を求めなくなっていた。萌香は、それを一過性の倦怠期だと考え、いつか付き合い始めた頃のように求め合う日が来るのではないかと自身に言い聞かせた。けれど不安は募る。
(だから、あんな夢を見るのよね)
同棲3年目ともなれば結婚を考えてもおかしくない。萌香も例に漏れず、リビングにブライダル情報誌を置いてみたが、それが捲られた形跡はなかった。
<あなたと暮らす意味が分からない>
25歳、毎月の様に郵便ポストに届く、友人たちの、おめでたい寿ハガキに落胆する。
25歳、実家の母親からは、『孝宏くんは、いつ挨拶に来るの?』とプレッシャーを掛けられ、その度に言葉を濁した。
25歳、職場結婚の同僚や後輩たちが、煌めくエンゲージリングを左手の薬指に嵌め、笑顔で退職してゆく姿に恨めしさすら感じた。
<あなたと暮らす意味が分からない>
萌香は毎晩の様に同じ夢で目を醒ました。背中合わせの孝宏が遠く見えた。
「ビールないのかよ」
萌香は、はっと我に帰りランドリーバスケットからTシャツを取り出すと頭から被った。すると孝宏が、冷蔵庫の中を覗きながら不満げに振り向いた。
「あ、ごめん。買って来るの忘れちゃった」
「チッ、使えねぇな」
「ごめん、豚の生姜焼き作ったから、レンジで温めようか?」
「ビールがないのに、
萌香の心の中でなにかの糸が切れた。
「なに、その言い方!」
「なんだよ、ビール買い忘れた萌香が悪いんだろ!」
「私は孝宏のお母さんじゃないのよ!」
「そうかよ!」
「お腹、減らないの!?食べなよ!」
その時、一瞬の間が空いた。激高していた孝宏の熱が、引き潮の様に覚めてゆくのが手に取るように分かった。
「お腹減ってるでしょ、食べなよ」
「外で食べて来た」
「そうなんだ」
ここ数ヶ月、孝宏は外食が多い。初めのうちは、『取引先の接待なんだよ』とか、『高校の同窓会なんだ』とか、『フットサルチームの打ち上げなんだ』と、あれこれ理由が付いていたが、最近ではなにも言わずに遅くに帰って来る。
(またなんだ、どこで誰と!)
萌香は、おもむろに冷蔵庫の扉を開けると、豚の生姜焼きのラップを外し、生ゴミのダストボックスへと勢いよく捨てた。パタンと閉じられるダストボックスの蓋。
「萌香!なにすんだよ!」
振り返った萌香の目頭には熱いものが滲み、頬を伝って流れ落ちた。
「なにって、食べないんでしょう?」
「捨てなくてもいいじゃん」
「誰が食べるの?」
「え?」
「誰が食べるのよ!」
萌香はバスルームに向かい顔を洗った。悔しさと怒りと寂しさが涙となって、何度洗ってもそれは止まる事を知らなかった。
「・・・っつ」
タオルで顔を拭いていると、流石に言い過ぎたと思ったのか、孝宏が萌香の華奢な背中を抱き締めた。
「ごめん、悪かった」
「ゔ、ゔん」
久方ぶりの孝宏の温もりに、ふたたび涙が込み上げた萌香だったが、ふと違和感を感じて動きを止めた。これまで嗅いだ事のないホワイトムスクの香りが、孝宏の腕から匂い立っていた。
(え、これ、なに?)
孝宏は、取引先の接待でキャバレークラブに行く事もあると言っていた。実際、料理の油臭に混じってクラブの女性店員の移り香がした事もあった。然し乍ら、このホワイトムスクの香は孝宏を優しく包んでいる。
「孝宏」
「なに」
「今夜は接待だったの?」
「そうだよ」
孝宏の呼吸が一瞬、止まった様な気がした。
「そうなんだ、お疲れ様」
「うん」
「毎晩、大変だね」
「うん」
萌香は孝宏の小さな溜め息を聞き逃さなかった。
「お風呂入りなよ、沸いてるから」
「あ、外で入って来たから」
萌香が何気なく言った言葉に、孝宏はつい口を滑らせてしまった。
<あなたと暮らす意味が分からない>
萌香は手を大きく振りかざした。