翌朝、寝室で目を覚ました透は包帯を外して顔の左側に触れ、昨晩の傷がふさがっていることを確認してからその場にゆっくりと身を起こす。隣では亜紀が寝息をたてて気持ちよさそうに眠っている。ベッドのそばの目覚まし時計の針は午前5時をさしていた。窓の外には太陽が昇りはじめているのか、空に浮かんだ雲がほんのりと赤く染まってきている。ごく普通の、見慣れたはずの朝の光景。ふと透は自分だけがこの世界にたった1人取り残されたような感覚に襲われた。
(私がこんな体にならなければ、佑と亜紀は幸せになれただろうか……?)
頭の奥がずきり、と鈍く痛む。この体になってから頭痛なんて今までまったくなかったというのに。そんな透の不安が通じたのか、携帯が鳴る。あわてて出ると瀬名からだった。
『おはようございます小松博士。あの……こんなことを朝早くからお聞きするのもあれなんですが昨日の夜遅く、どこかへ外出されていらっしゃいましたか?』
『いいや?君が帰ってからはずっと自宅にいたがね』
『そうですか。あれからずっとモニタリングしてたんですけどなんか……深夜2時から4時くらいまでの脳と機体のデータがまったく記録されてないんですよね』
それもそのはずだ。いくら自分が脳だけで生きている人間でもロボットでもない曖昧な存在だからといって亜紀との
『そうかね。そちらの機器類の故障ということは』
『それはないです。定期的にメンテナンスをはさんでますから』
『それから、その後に脳の各分野が異常なほど活発になっていたのだけ気になってしまって……今頭痛や吐き気とかしてませんか?』
この頭痛はそれが原因か。次にするときは亜紀とじっくり話し合ってからのほうがいいだろう。透は『問題ないよ』とごまかす。瀬名は続けて機体の損傷について尋ねてきた。
『フィーア博士につけられた頬の傷はもうふさがってるようですけど、顔の左側……特に目から頬あたりまでがアイカメラや中の構造が見えるくらいに一時損傷していたようですね。これはどうされたんです?』
『ああ、それは……少し派手に転倒してしまってね。転んだ勢いで壁に思いっきりぶつかったんだ。もう大丈夫だから心配しないでほしい』
『そうでしたか。たまたま怪我されたのがご自宅だったからよかったですけど、くれぐれも外でだけは本当に気をつけて下さいね。小松博士の存在はRUJの一部の人間とご家族しか知らない極秘事項なんですから。もし誰かに見られたら真木博士と僕もあっという間に
瀬名が声を低くする。言葉の端々から身震いする様子が見える気がした。透は『たしかに。それは回避すべきことだな』と返した。
『あ、そうだ。今日は地下層にフィーア博士たちを迎えに行くご予定でしたよね。またご一緒してもいいですか?』
『別にかまわないが……RUJにいなくてもいいのかね?真木から私のモニタリングを頼まれてるんだろう』
『ええ、そうなんですけどモニタリングなら僕の携帯電話やタブレット端末にも専用アプリを入れてあるのでRUJ以外でもできますよ。それに昨日、真木博士とちょっと喧嘩をしてしまってあんまりそばにいたくないんです。ダメですか』
『真木と君が?そうか。じゃあ来る時にブラックボックスを1つ持ってきてくれないかい。グラウくんが見つかる可能性を極力下げたいからね』
透がそう提案すると瀬名は『わかりました。どこかで待ち合わせしましょうか』と返す。
『ああ、そうだな。だったらあそこ……この間行った地下層の博物館で会おう』
『あの奥のほうに森があるところですね。了解です。ついたら連絡しますね』
そこで通話は終了した。透は携帯を黒のスラックスのポケットに入れ、かたわらで眠る亜紀を見る。まだ起きる気配はない。物音をたてないように静かに歩き、寝室を出て洗面所に向かう。鏡の前で自分の顔をながめ、手櫛ですくようにすっ、と頭髪の数か所に指でさわる。
するとヘアゴムでくくってポニーテールにしていた髪型が変わり、洗いたてシャツのように白くなった毛が肩あたりや目元まで急速に伸びて止まる。透は仕上げに逆Yの字のごとく長めに伸ばした後ろ髪の毛先にAlice.の機体のような鮮やかな青色のメッシュをいれると満足そうにうなずいた。これは真木が機体のアップデートをしたことによって備わった機能のうちのひとつだったがそう頻繁に使うものでもないので今日まで埋もれていたのだ。髪を洗う必要も切る必要もなく自由にアレンジが楽しめるのはそれなりに便利かもしれない。
(だいぶ早いが博物館に向かうか。亜紀と佑には用事で出かけると書置きを残しておこう)
透はリビングルームに行き、テーブル上の照明だけを点けて新聞に入っている広告の裏が白いものを出してくると少しちぎってペン先が太いボールペンで「RUJの瀬名くんと会う約束をしているので出かけます。夜までには帰ります」と走り書きし、テーブルの真ん中にあるメモスタンドに置く。昨夜遅く着替えたグレーのシャツにスラックスのポケットにいれていた白のリボンタイを結ぶと椅子の背もたれにかけてあったRUJのカーキ色のジャケットをはおり、玄関へ向かうとドアをそっと押し開けた。