目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第7話『夜明けの前に』

薄暗い酒場に、夕暮れの光が差し込んでいた。木の床に落ちる光は、まるで血のように赤く、その色合いが不吉な予感を漂わせている。ミラは黙々と床を拭いていた。


「随分と物静かだな」

アルフが酒瓶を手に言う。

「このところ、礼拝堂も閑古所だ。リサの拘束以来、人々は神を畏れる代わりに、裁定者を畏れるようになった」


レイヴンはグラスの中の酒を見つめる。確かに、街の様子は変わっていた。祈りの声も途絶え、代わりに人々は噂話に熱中している。裁定者会への不信感は、今や誰の目にも明らかだった。


「神様って」

ミラが突然、呟く。手を止め、窓の外を見やりながら。

「本当にいるのかな。いるなら、どうして私たちをこんな目に遭わせるの」


その言葉は、重い沈黙を呼び起こした。


「お前さんの言う通りだ」アルフが椅子の背もたれに深く寄りかかる。「俺たちが『神』と呼んでいるもの。それは本当に神なのか。それとも、ただの恐れか」


「恐れ、ですか」


「ああ。裁かれることへの恐れ。生きることへの恐れ。もっと言えば、人が人を支配するための道具かもしれない。裁定者会という存在がまさにそうだ。神の名を借りて、人を裁く」


レイヴンは黙ってアルフの言葉を聞いていた。かつて自分も、そう考えていた。人は恐れから神を求め、その恐れを利用して制度は作られる。だが、本当にそれだけなのか。


「でも」ミラが静かに言う。「マリアは違った。彼女は本当に、神を信じていた」


「ああ」レイヴンは初めて口を開く。「彼女は畏れからではなく、導きを求めて祈っていた。そして、俺の妹も」


「そうさ」アルフが頷く。「神への信仰は、本来そうあるべきなんだろう。畏れではなく、希望として。しかし、それを制度化した途端、人は神の意志を自分たちの都合の良いように解釈し始める」


「今の混乱も」ミラが言葉を継ぐ。「裁定者という存在が、神の意志の代弁者として君臨してきたからこそのこと。彼らへの不信は、そのまま信仰の揺らぎになる」


「だとすれば」レイヴンは窓の外を見やる。「これは新しい時代の始まりかもしれない。神と人との関係を、もう一度考え直す時が来たんだ」


「王権による統治か」アルフが意味ありげに言う。「神の名を借りない、人の手による秩序か」


その時、扉が勢いよく開かれた。


エレインが息を切らせながら入ってくる。レイヴンと目が合い、一瞬の気まずい沈黙が流れる。かつての同期の騎士。神託を放棄した時、彼女は何も言えずに俯いていた。その時の表情が、今でも胸に刺さっている。


「レイヴン」

エレインがかすかに声を震わせる。その声には、かつての凛とした調子は消えていた。


「どうした」


エレインは一度深く息を吐く。

「王が、裁定者会への不信任を表明した。神の名による裁きは終わりを告げ、新たな秩序を作るという」


酒場の空気が凍る。ミラの手から雑巾が落ちる音が、異様に大きく響いた。


「裁定者会は解体される」エレインは続ける。「裁きは王権の下で執行され、すべての判断は明文化された法に基づいて行われる」


「ルークさんは?」レイヴンが立ち上がる。


「姿を消した。他の裁定者たちも、次々と逃亡を始めている。教団の建物は、既に兵士たちに包囲されているわ」


アルフが、重々しく呟く。

「時代が、動き出したな」


エレインはレイヴンを見つめ、かつて言えなかった言葉を探していた。


だが、今はそれを語る時ではない。


「行くぞ」レイヴンが告げる。「ルークさんを探す。姿を眩ましたのには、何か理由があるはずだ」


「待って」

エレインの声が、レイヴンの足を止める。彼女は一瞬の躊躇いを見せた後、決意に満ちた表情を浮かべる。


「私に任せて」

騎士団の制服に手を伸ばしながら、エレインの目は遠くを見つめていた。そこには、これまでの彼女の人生が映し出されているかのようだった。上層貴族の娘として生まれ、騎士としての誇りを胸に生きてきた日々。そして、レイヴンの神託放棄という選択に戸惑い、苦悩した時間。


「あの日、私は何も言えなかった」エレインの声が震える。「あなたの選択を、理解できなかった。でも、この街で起きていること全て──裁定者会の名の下で失われていく命、その重さを、私は見過ごすことができなくなったの」


彼女は深く息を吐く。その仕草には、もはや迷いはなかった。


「裁定者会が築いた秩序。それは確かに、世界に一つの答えを示してきた。でも、その陰で失われてきたものの重さを、私は知ってしまった」


エレインが次の言葉を紡ごうとした時、騎士団の伝令が息を切らせて駆け込んでくる。


「大変です!下層区画で暴動が発生しました。民衆が教会を取り囲み、裁定者会の解体を求めています」騎士団の伝令が息を切らせて報告する。


エレインは表情を変えずに応じた。

「分かりました。騎士団は秩序維持のため、速やかに対応を」


伝令が立ち去ると、エレインはレイヴンを振り返る。その瞳には、静かな炎が宿っていた。


「私に任せて。この混乱の中で、教団への監視は必ず緩む」彼女の声は冷静だった。「王の命により、騎士団は民衆の保護を最優先しなければならない。その間に、あなたは行って」


「エレイン...」


「今のあなたなら、私の選択の意味も分かるはず」彼女は微かに頷く。「行って。裁定者の間へ」


レイヴンは無言で頷き、夜の闇に姿を消した。


教団の廊下は、不気味なまでの静けさに包まれていた。壁に掛けられた裁定者たちの肖像画が、まるで亡霊のように彼を見下ろしている。No.1の肖像からは、今もなお絶対の権威が感じられた。しかし、その瞳の奥には何か別のものが潜んでいるような気がする。


裁定者の間の扉は、僅かに開いていた。中からは、古い羊皮紙を捲る音が漏れ聞こえる。


「入れ」

静かな声が響く。

「お前が来ることは、分かっていた」


光の位置から、ルークは意図的に月明かりを背に受けるように座っていた。その姿は、まるで最後の裁きを待つ者のようでもあった。


「ルークさん」レイヴンが一歩進み出る。「No.1は、どこに」


「もういない」

ルークの声は、不思議なほど透明だった。

「私の手で、葬った」


部屋の空気が、まるで凍りついたように静まり返る。月明かりに照らされたルークの横顔には、深い影が落ちていた。


「裁定者No.1」ルークはゆっくりと振り返る。「彼は裁きの絶対性を説いた。神の意志は揺るがず、その解釈もまた一つであると」


机の上には、古い文書が広げられている。その文字は、まるで血のように赤く見えた。


「だが、それは違った」ルークの声が震える。「神の意志とは、そのように単純なものではない。No.1は裁定者会を、ただの支配の道具に貶めた。裁きは恣意的なものとなり、強者の論理だけが罷り通る」


「そして、あなたは」レイヴンが静かに問う。


「レイヴン」ルークの声が、不思議な力を帯びる。「私が裁定者として見出した答えは、間違っていた。だが、お前が神託を放棄した時の選択は、正しかった」


月明かりが、彼の疲れた表情を浮かび上がらせる。


「私は、より高次の存在としての神を求めた。教典の新たな解釈によって、この世界の歪みを正そうとした。だが、それもまた人の傲慢さの表れに過ぎなかった」


ルークは窓辺から離れ、机の上の文書に手を置く。


「No.1は神の意志を単純化し、支配の道具とした。私はそれを否定し、より深い解釈を示そうとした。しかし、どちらも同じ過ちを犯していた。神の意志という名の下で、人の裁きを絶対化しようとしたのだ」


その時、廊下から足音が近づいてくる。


「行け」ルークは静かに命じる。「これが最後の導きだ。完璧な答えなど、どこにもない。神の意志も、人の力も、全ては不完全だ。だからこそ、問い続けなければならない」


「ルークさん!」


「お前とエレインなら」ルークの目が、遠くを見つめる。「きっと、その先に道を見出せる。人が人として生きる世界を」


レイヴンは無言で頷く。

次の瞬間、扉が大きく開かれ、騎士団が部屋になだれ込んでくる。暗闇で刃が閃き、悲鳴が響く。レイヴンは咄嗟に身を翻すが、ルークの姿は既に見えなかった。


街は大きく変わろうとしていた。


教会での祈りの声は消え、代わりに人々は自らの言葉で語り始めていた。裁定者による裁きを待つことなく、人々は自分たちの手で正義を模索し始める。それは混沌であり、同時に新たな秩序の芽生えでもあった。


エレインの声が、夜明けの空気を震わせる。

「完璧な答えなどない。それでも、私たちは歩み続けなければならない」


レイヴンは彼女を見つめる。その瞳には、かつての迷いは微塵もなかった。


「俺の妹は、最期まで神を信じていた」レイヴンは静かに言う。「マリアもそうだった。彼女たちは畏れからではなく、導きを求めて祈っていた。その純粋さを、この手で守れなかった」


「だからこそ」エレインの声が力強く響く。「これからは違う。人が人として生きることの意味を、私たちは知ってしまった。制度ではなく、権力でもなく、ただ一人の人間として」


朝日が昇り始め、古い世界の影が薄れていく。それは終わりであり、同時に始まりでもあった。教団の尖塔に差し込む光は、もはや威圧的ではなく、ただ新しい日の始まりを告げているようだった。


「行きましょう」エレインが言う。その声には、かつてない確かさが込められていた。


「私たちにしか、見えない景色がある」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?