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第6話『銀の仮面の下で』

「ここは...」

ミラの声が震える。教団の保護施設の窓からは暖かな明かりが漏れ、中からは子供たちの話し声も聞こえる。だが、彼女の瞳には深い不安の色が浮かんでいた。


「大丈夫だ」レイヴンは静かに告げる。「ルークさんの口添えがある。レイモンドにも、そこまでの力はない」


しかし、ミラの表情は晴れない。確かに施設は安全かもしれない。だが、いつまでここに留まれるのか。そして、この後どうなるのか。レイモンドの影響力は、下層区画の隅々にまで及んでいるのだから。


「信じろとは言わない」レイヴンは形式的な慰めの言葉を告げる。「ただ、今は休め」


施設の扉が閉まり、ミラの姿が見えなくなる。レイヴンは石段を下りながら、報告書の内容を思い返していた。マリアの遺体。額の刻印。そして、レイモンドの不自然な行動。全ては繋がっているはずだ。


夜の路地は、昼間とは違う顔を見せる。人々の喧騒は消え、代わりに影が支配していた。


路地に無造作に置かれた木箱の影を、獣が走る。

一瞬の静寂の後、路地の隙間から見える空をたくさんの鳥が羽ばたいた。


瞬間──

耳元で、風を切る音が響く。レイヴンは咄嗟に身を翻すが、肩口を掠める一撃を避けきれない。


「もう少し...」


月光の下、銀の仮面を着けた人影が浮かび上がる。その目の部分は不自然に塞がれ、まるで自ら視界を閉ざしているかのようだ。白いローブは裁定者のものだと分かる。しかし、その佇まいには神の使徒としての厳かさなど微塵もない。


次の一撃は、より正確だった。レイヴンの胸に、浅い切り傷が走る。


「近付いてきたわ」

その声には、どこか愉悦が混じっている。

「じっとしていれば、もっと早く終わるのに」


レイヴンは路地に転がっていた空き瓶を蹴り上げる。割れる音が石壁に反響する。


「あら」仮面の女の動きが一瞬止まる。「あの子と同じ手を使うの? 実に見事だった。瓦礫を転がし、鐘を鳴らし...私の耳を惑わせて」


その声には、どこか懐かしむような響きさえある。


「でも、もう騙されない。音に惑わされず、ただ心の闇に従えば」仮面の下から冷たい笑みが漏れる。「迷うことなく、裁きを下せるようになったの」


一撃、また一撃。レイヴンの動きを完全に封じ込めるように、傷が重なっていく。

次の瞬間、彼女の姿が消えていた。レイヴンは咄嗟に身を翻すが、背中に鋭い痛みを感じる。その攻撃は、徐々に致命的な位置を探り始めていた。


「ねえ」暗闇から声が響く。「あなたには見えるかしら? この世界の歪みが」


一瞬の静寂。


次の瞬間、銀の仮面が月明かりを反射して、レイヴンの真正面に現れる。しかし今度は、その動きを読み切っていた。レイヴンのナイフが、彼女の肩を掠めた。


「これが、あなたの強さ?」

仮面の女が、僅かによろめく。


レイヴンが広間に一歩後退すると、仮面の女も、一歩間合いを詰めてくる。月の光に仮面の女の姿が照らし出される。

そこで初めて、レイヴンは相手の全容をはっきりと見ることができた。裁定者のローブの裾は所々で破れ、その下からは素肌が覗いている。


「強さとは」彼女は刃を翻す。「相手を押しつぶす力のこと」


レイヴンは後ろに跳び、距離を取る。


「弱い者に」背後から声が響く。「生きる価値はない」


その動きには、明らかな訓練の跡が窺えた。しかし、それは正統な剣術とは異なる、どこか歪んだものだった。


「強さを証明できない者は」彼女の声が狂気を帯びる。「この世界で生きる資格がない」


レイヴンは傷つきながらも、その動きの意味を探っていた。仮面の裏に潜む狂気は、単なる凶暴性とは異なる。

一進一退の中に、弱さという幻影に囚われた魂の痛みが垣間見えていた。


リサの攻撃が頂点に達した時、レイヴンは動きを止めた。目を閉じ、聴力に意識を集中させる。


「強さとは」


一撃が放たれる。しかし、レイヴンのナイフは既に彼女の腹部を貫いていた。


仮面の下から漏れる息遣いが、夜の静寂を破る。そして、長い沈黙の後、リサの体がゆっくりと石畳の上に崩れ落ちていく。


「弱さ故に、裁かれる」

倒れたまま、リサは呟く。その声には、もはや狂気すら感じられない。ただ、深い虚無だけが残されていた。

「それが、世界の理。見えないふりをしても、この痛みからは逃れられない」


ローブが風に揺れる。その隙間から、無数の傷跡が覗いていた。細い鞭が幾重にも重なった痕。鈍器による陥没した跡。三叉槍の特徴的な裂傷。斧による深い切断痕。さらには鎖による擦過傷、毒を塗られた小刀の痕、投げ槍による貫通痕。

それぞれの傷が、観衆の歓声を誘うために選ばれた道具の痕跡だった。


レイヴンは息を呑む。これほどまでの傷跡。どれほどの時間を、彼女は闇の中で過ごしてきたのか。

噂には、聞いたことがある。下層地区から集められた人間が、見世物として戦わされる地下闘技場の存在を。

まさか、彼女は...。


その時、空気が凍りついた。


月が雲に隠れ、広場が一瞬の闇に包まれる。その闇を切り裂くように、規則正しい足音が響き始めた。それは時を刻む振り子のように、容赦なく近づいてくる。


一条の月光が差し込み、白装束の人影を照らし出す。


「裁定者No.7、リサ」


ルークの声が、夜気を震わせる。その手には、儀式用の短剣が握られている。

彼は明確な殺意を持って、リサの元へと近づいていた。


「待ってください」

レイヴンは血を流しながらも、ルークの前に立ちはだかる。

「裁定者の処刑。それは、裁定者の存在そのものを否定することになります」


「私には、彼女を裁く義務がある」

ルークの声には、重い決意が込められていた。短剣が、月明かりに冷たい輝きを放つ。

「道を開けよ、レイヴン」


「裁定者とは、決して裁かれることのない存在だからこそ、その権威を示すことが出来る」

レイヴンは一歩も動かない。突き出されたルークの短剣が、彼の喉元まで迫る。

「その信頼があるから、民衆は神の意志を伝える存在として、裁定者を受け入れているんだ」


ルークの手が、僅かに震える。刃先が、レイヴンの肌を掠める。一筋の血が流れ出す。


「もしここでリサを殺せば、裁定者による裁きは人の手による裁きでしかないと証明されてしまう」

レイヴンの声が静かに響く。その目は、短剣ではなく、ルークの瞳を見つめている。

「それは即ち、裁定者会という制度そのものが、神の意志とは無縁の、単なる権力機構であると宣言するようなものです」


夜風が息を呑むように静まり返る。

その時、短剣が音を立てて地面に落ちる。


「彼女を拘束する。それ以上でも、それ以下でもない。レイヴンの、言う通りだ」


ルークは、しばらくその場で佇み続ける。その横顔からは、かつての威厳が失われかけていた。

やがて、巡回士たちが姿を現す。リサは黙ったまま、拘束を受け入れた。彼女の仮面の下からは、もう狂気も虚無も感じられない。ただ、深い疲れだけが滲んでいるようだった。

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