「保護義務、ですか」
裁定者会議室の空気が、一瞬凍り付いた。
ルークは机の上の報告書から目を上げ、レイヴンをじっと見つめる。その瞳には、困惑と共に、かすかな理解の色が浮かんでいた。
「ミラ・グレイス。彼女の傷は、何者かによる襲撃の痕です」
レイヴンは淡々と説明を続ける。その声には、感情を抑え込もうとする力が滲んでいた。
「養父であるレイモンド・グレイス氏には、養女を守る義務があったはず。にもかかわらず、この有様です」
レイヴンは報告書の傷の記録を指差す。複数の打撲痕、刺傷。アルフの丁寧な診断書には、それぞれの傷の大きさ、深さ、予想される凶器まで克明に記されていた。
ルークは報告書に目を落とし、ゆっくりとページを捲る。その仕草には、何かを確信したような意図が感じられた。会議室に張り詰めた空気が、さらに重みを増していく。
「教典第四章には、庇護者の義務が明確に示されています」
ルークはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「養女の安全を確保できなかったのであれば、一時的な保護措置を講じる必要があるかもしれない」
「一時的、ですか」
レイヴンの声には、かすかな期待が混じる。それは単なる法規の適用以上の何かを、ルークに期待する響きだった。
「そうだ。事態が収束するまでの間、教団が彼女を預かることは可能だ」
ルークの声には、強い意志が感じられた。机の上で、その手がゆっくりと握られる。
「保護者としての適格性を、改めて審査する必要もある」
レイヴンは黙って頷く。これで少なくとも、ミラの身の安全は確保できる。そして、その間に真相を——。二人の目が合い、互いの意図を確認し合う。
「ルークさん」
去り際、レイヴンは振り返る。窓から差し込む日差しが、その姿を逆光で浮かび上がらせる。
「審査の過程で、色々なことが明らかになるかもしれません」
「分かっている」
ルークの声は静かだった。しかし、その言葉には、決して後には引かないという覚悟が込められていた。
「教典の示す義務は、形だけのものであってはならない」
白装束の裁定者と、黒を纏った男。二人の影は、夕陽に照らされて、不思議な調和を見せていた。それは、立場を超えた信頼の形を象徴するかのようだった。
回廊の窓からは、上層区画の整然とした街並みが見渡せる。そこはレイモンドのような上層貴族たちが暮らす場所。表向きの秩序の下に、どれほどの闇が潜んでいるのか。
小会議室への呼び出しは、すぐに届いた。レイモンド・グレイスの聴取に立ち会えとの命令である。それはルークの采配に違いない。レイヴンは、自身の立場を理解していた。
階段を上がり、小会議室の前に立つ。扉の向こうでは、ミラの運命を左右する審査が始まろうとしていた。レイヴンは静かに息を整える。
「養女への適切な保護を怠ったという指摘について、レイモンド・グレイス氏、あなたの見解を聞かせていただきたい」
裁定者会の小会議室。ルークの静かな声が、緊張した空気の中に響く。
書記官たちが、羽ペンを手に構えている。この聴取の記録は、後の裁定の重要な基礎となる。彼らの緊張した面持ちが、事態の重大さを物語っていた。
「私は彼女たちに、自由を与えてきました」
レイモンドの声は穏やかだった。高級な服地のローブに身を包んだ姿は、慈善家としての体裁を完璧に保っている。その立ち居振る舞いには、上層貴族らしい優雅さが滲んでいた。
「下層区画の少女たちに、教育を。より良い暮らしへの機会を。私の屋敷では、最高の環境を用意しているつもりです」
レイモンドの言葉の一つ一つには、重みが込められていた。しかし、その重みは慈愛からではなく、何か別のものから来ているように感じられた。
部屋の隅で、レイヴンは無言で状況を見守っていた。彼の存在そのものが、レイモンドへの無言の圧力となっていた。
「しかし、彼女たちの中には、その恵まれた環境を理解できない者もいます」
レイモンドは深いため息をつく。その仕草には、慈愛が滲んでいるように見えた。しかし、その目は笑っていなかった。
「深夜に勝手に外出し、危険な路地を歩き回る。これは彼女たち自身の選択です。下層区画の路地は危険に満ちている。その結果として危害を加えられることは——」
「教典第四章第十二条には、養子縁組に関する規定があります」
ルークは報告書に目を落としながら、淡々と言葉を続ける。その声には、どこか氷のような冷たさが混じっていた。
「養父による適切な保護が一時的にでも困難と認められる場合、教団は養女の身柄を保護する権利を有する。これは通常の手続きですね」
その言葉に、レイモンドの表情が微かに強張る。しかし、すぐにそれを取り繕うように、穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、その通りです」
レイモンドは優雅に頷く。その仕草には、何の曇りもないように見えた。
「現状では、彼女の安全を完全には保証できない。教団による一時的な保護は、むしろ望ましい措置かと」
「では、手続きの方を進めましょう」
ルークは書類に目を通しながら言う。その声は冷静を装っていたが、どこか危うい響きを帯びていた。
「保護期間は、事態の収束が確認されるまで。その間、詳細な事情聴取も行わせていただきます」
レイモンドは形式的な同意を示し、必要な書類に署名を済ませた。完璧な対応。それは慈善家としての体面を保つと同時に、事態の収拾を図る賢明な判断に見えた。
「では、そのように取り計らいます」
ルークが証言を締めくくる。その声には、これが終わりではないという暗示が込められていた。
レイモンドは丁寧に礼をして、部屋を後にする。しかし、去り際に投げかけた視線には、何か別の色が混じっているように見えた。