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第2話『街の傷痕』

アイゼンクラフトの下層区画。古びた建物が立ち並ぶ通りを、レイヴンは歩く。人々は彼を見るなり足早に通り過ぎていく。時折、後ろ姿に向けられる視線には、畏怖と不信が混じっていた。


路地の奥から祈りの声が漏れ聞こえてくる。朝な夕なの祈り。人々は機械的にその言葉を唱えていた。

調子の抜けた声。魂の欠片も感じられない機械的な詠唱。それはまるで、罰を恐れて暗記した詩を復唱しているようなものだった。


「畏れよ、されど愛せよ、か」


レイヴンは唾を吐くように呟く。幼い頃、下層区画の教会で散々叩き込まれた言葉だ。当時は意味なんて考えもしなかった。ただ、上の連中が言うことだから、従っておけばいいと思っていた。


今なら分かる。畏れから生まれた信仰など、くだらない。人は神を畏れるあまり、教えを石のように固めてしまう。神理典という箱の中に、神の言葉を閉じ込めて、鍵をかける。そして、その鍵を握った連中が、好き勝手な解釈をして、権力を振りかざす。


「おや、レイヴンじゃないか」


声をかけてきたのは、街の医者アルフだった。評判の悪い闇医者として知られる男だが、その腕は確かだった。


「また昼から飲んでるのか。患者は?」


「はっはっは」アルフが豪快に笑う。「この街で治療なんて、金持ちの上層連中だけのもんさ。今日の予約は夜からだ」


「ああ、すまん。お前は、金の無い奴は治療しないんだったな」


皮肉の混じったレイヴンの言葉に、アルフの表情が少し強張る。


「無償で治療を続ければ、他の患者の薬が無くなる。明確な基準が無けりゃ、こんな商売やってられねぇよ」

レイヴンは黙って周囲を見渡す。この街で「善行」を貫こうとした人間は、皆破滅していった。


「結局のところ」アルフは続ける。「神理典なんて、人が都合よく使うための道具なんだ。上の連中は上の連中の都合で、俺は俺の都合で」


そういって笑うアルフの表情には、疲れが滲んでいた。

医者としての現実と理想の狭間で生きるために、多くのことを「仕方ない」と諦めてきたのだろう。


「先週、女が死んだよ。治療費が払えなくて、門前で倒れていたんだ」


「治療はしたのか?」


「いいや」

アルフは酒を煽りながら言う。


「裁定者の連中は、見て見ぬふりさ。神の教えも、都合よく解釈すりゃ何とでもなるってわけさ」


通りには、そんな「隙間」で生きる人々が溢れていた。高利貸し、人身売買、闇市場。神理典で禁止されてないことは、何でもやりたい放題。連中は「解釈」という名の下に、欲望の限りを尽くしていた。


「もう行くぞ」レイヴンには、それ以上かける言葉が見つからなかった。足早に、路地の先へ向かって進んでいく。

「酒ばっかり飲んでないで、たまには患者の顔も見てやれよ」


軽く挨拶し、その場を立ち去ろうとする。

その時だった──


石の階段の下で、白い布切れが揺れる。近づくにつれ、それが少女のドレスだと分かった。赤く染まる地面を見て、ようやく状況を把握する。


周囲の人々は、さも見なかったかのように足早に通り過ぎていく。母親は幼い子供の目を手で覆い、商人は荷車の軋む音に意識を集中させる。誰もが、この場に関わりたくないという思いを、露骨に示していた。


レイヴンがその場に跪くと、人々の視線が一斉に集まった。神託を放棄した男が、なぜ祈りの姿勢をとるのか。その疑問が、空気を重くする。


少女の顔は、まだあどけなさを残していた。せいぜい十三、四歳といったところか。上質な白いドレスは、この界隈の住人のものとは思えない。そして何より、その額に刻まれた印。裁定者による裁きの証、その刻印が、確かにそこにあった。


「レイヴン様」巡回士の一人が声をかける。「規定では、死体の前で祈りを捧げることは裁定者のみに許された特権です」


「この子の名は?」レイヴンは静かに問う。


「規定では、身元不明の遺体は...」


「名前を聞いてるんだ」


巡回士の一人が、おずおずと手帳を開く。「マリア・グレイス。レイモンド・グレイス氏の養女です」


レイヴンが黙って少女の手を取ると、巡回士たちは身を強張らせた。


「詳細な記録を取れ」レイヴンは巡回士たちに命じる。「特に額の刻印は、正確に記録しておけ。裁定者会への報告用だ」


巡回士たちは動き出す。彼らはレイヴンの身分を知っていた。神託を放棄した後、彼はルークの下で調査官として働き始めた。


「マリア」レイヴンは静かに呟く。「お前は、誰かの都合のいい商品として扱われ、誰かの都合のいい理由で命を落とした。神の教えも、人の解釈も、結局はお前を守れなかった」


巡回士たちの間でざわめきが起こる。明らかな不敬発言。しかし、レイヴンの姿には不思議な厳かさがあった。それは形式的な祈りとは異なる、人の命への真摯な向き合い方のようにも見えた。


「これが祈りか不敬か」レイヴンはゆっくりと立ち上がる。「そんなことは、もうどうでもいい。ただ、この事実から目を逸らすことはできない」


レイヴンは空を見上げた。灰色の雲の切れ間から、かすかに光が差し込んでいた。マリアの魂は、果たしてどこへ向かうのだろう。この歪んだ世界の、どこに救いは存在するのか。


教団本部への階段を上りながら、レイヴンは少女の顔を思い返していた。裁定者の刻印。何者かが、この事件に「裁き」という名の正当性を与えようとしている。その闇の深さを、レイヴンは直感的に悟っていた。

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