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第一話 恋はレモンソーダの味がする(6)

ベッドの上で目が合う。睫毛の長いくりっとした瞳が、思いつめたようにあたしを見ている。


午後五時台の部屋は紺色の闇にじわじわ浸され始めていて、カーテンの隙間から差し込んでくる夕日が保樹の茶色い髪をぼんやりとオレンジに染める。音が壁と床に吸収されてしまったみたいな部屋の中、保樹の唇が動く。



「俺がヤりたいのは葵だけだよ」



 震えた声だった。長い睫毛が降りる。唇が近づいてくる。あたしの二の腕をしっかり掴んでいる手のひらが熱くて、正体不明のふわふわした気持ちに自分を預けてしまいたくなる。


それでも睫毛の先端が瞼に触れそうになったその瞬間我に返り、思いきり保樹を突き飛ばした。うっと小さく声を漏らした保樹の頬を思いきりぶった。乾いた音が静寂を破る。



「もう中学生じゃないんだよ、あたしたち」


 保樹は急速に赤く染まっていく頬をかばおうともせず、呆けた表情で何か言いたそうに床を見ている。夕日が作る光の帯の中、無数の金色のちりが踊っていた。



「お互い同意してなかったら、そういうの犯罪になるんだからね」



 保樹がゆっくり立ち上がった。一度だけあたしに傷ついた視線を投げ、部屋を出て行く。階段を下りていく足音を聞きながら、ようやく身の安全を実感して安心した。胸はまだ嫌な鼓動を打っている。一瞬、あのまま保樹に許してしまってもいいと思った、そんな自分に嫌悪感を覚えた。


 大人になるために、保樹とセックスをした。大人になるにはセックスするのが手っ取り早いと思っていて、一番近くにいて幼なじみであたしのことを大好きな保樹はちょうどいい相手だったから。


早く大人になりたい。いつからか、その気持ちに絶えず突き動かされていた。


自分たちとちょっと違うところを見つけては排斥はい゛きしたり、陰湿ないじめや噂話に楽しそうに唇を歪ませたり、ちゃらちゃらしたアイドルにきゃーきゃー言ったり、そんな周りの「女の子」たちが子どもっぽくて醜くてしょうがなくて、そんなのと一緒にいたら自分まで子どもっぽく醜くなってしまいそうで、人とは距離を置いて付き合うようになった。


その代わりファッションやメイクに早く目覚めて、周りの子より大人っぽく見えるあたしを作るのに一生懸命になった。「女の子」をすっ飛ばして、さっさと大人の女の人になろうとした。



 だから小六で腕と脚の無駄毛処理をして、中一で化粧を始め、中二で保樹とセックスし、中三で髪を染めて生活指導に睨まれた。


高校に入って初めて付き合ったのは二つ年上の先輩だったし、その後一臣と付き合ったのも、ガキっぽくうるさく騒ぐ一般的な同級生の男子たちとは違って、大人びて超然とした雰囲気に惹かれたからだった。


そうやってみんなより早く大人になったところで、あたしは何を手に入れたんだろう? 大人にならなければ、セックスなんか知らなければ、ひとを本気で好きになることを覚えなければ、一臣のことで苦しまなくてすんだのに。



 ベッドに仰向けに転がってそんなことを考えていると、階段を上る足音が近づいてくる。これは保樹じゃなくて、お母さんだ。着替えもせずに干物のようにベッドに寝そべっているあたしを見て、呆れた声を出す。手にレモンソーダが入ったグラスを持っている。


「もう暗いんだから電気ぐらいつけなさいよ。それにその服、スカート短いし肩が丸出しじゃない。風邪引いても知らないわよ」



 なんて言いながら蛍光灯の紐を引き、二十センチぐらい開いていたカーテンをぴったり閉める。そして頼んでもいないのに勝手に片付けを始める。


ゴミ箱のゴミは回収され、床に脱ぎ捨てたパジャマは拾われ、丸めて転がされたプリントはゴミ扱いになった。手を動かしながら、こっちにお尻を向けて言う。



「保樹くんに意地悪するの、やめなさいよ」

「別に意地悪なんかしてない」

「保樹くんは葵のことが好きなんだと思うな」



 それぐらい、言われなくてもとっくに知っている。だからって改めて言われると返答に困ってしまう。言葉に詰まるあたしにお母さんはさらにこんなことを言い出す。



「葵は保樹くんと付き合うんだと思ってたのになぁ」

「無責任にそんなこと決めないでよ」


「決めたわけじゃないわよ。でも小さい頃から本当に仲が良くてきょうだいみたいで、昔はお父さんと二人で葵のお婿さんは保樹くんかなぁなんて話してて。あれだけ仲良しだったのに、どうして今になって避けたりするの」


「仕方ないよ、もう高校生なんだから」



 お母さんはそれ以上保樹のことは言わなかった。


 保樹と付き合わなかったのは、幼なじみで勢いでヤっちゃって、そのまま勢いで付き合って、更に勢いで結婚なんて、本当にそんなことになってしまったら最悪だと思ったからだ。


保樹はあたしのことが好きだし、お母さんたちだって二人が付き合えば反対はしないだろうし、まんざらぶっ飛んだ話でもない。


嫌だった。そんな、勢いだけで決まってしまう人生なんて。保樹とのなんの面白みもロマンもない恋愛なんて。


あたしはもっと、ドキドキする刺激的な恋がしたい。まだ若いんだから。だいいち、いつまでも単純で子どもみたいな顔をした保樹はあたしの相手にはとてもふさわしくない。気持ちのままに彼女でもない女を押し倒して無理やりヤろうとする時点で、彼氏審査不合格だ。



「これ、飲みたくなったら飲みなさい」



 学習机の上に置いたレモンソーダのグラスを指差す。ご丁寧に輪切りのレモンとミントの葉が添えられ、ストローが刺さっている。



「レモンはビタミンCがたっぷりでお肌にいいし、疲労回復効果もあるのよ」


「あたし別に疲れてないもん。お母さんみたいな疲れた大人と一緒にしないで」


「疲れって、身体の疲れだけじゃないのよ。心の疲れをあなどっちゃいけないの」



 たしかにあたしは一臣とのむなしい恋愛に疲れている。想えば想うほど悲しくなるばかりで、それでも自分の気持ちにけりをつけられずいつまてもみっともなく取り縋ってしまって。


浮気してるんでしょと問いつめてさよならのひと言を言うだけなのに、そんな簡単なことができない。早く大人になりたくてセックスしたのに、格好いい大人の女からはほど遠い。



「保樹くんもお母さんも、葵を心配してるだけなんだからね。素直になることも大事よ」



 そう言って階下に降りていくお母さんの足音が消えた後、レモンソーダをじゅるる、と啜ってみた。


ぜんぜん甘くない。苦くて酸っぱくて、炭酸がしゅわしゅわ舌の上で躍る。


蜂蜜を入れたレモネードのほうが好きなのに、お母さんが作るのはいつもレモンソーダ。


恋は、人生は、酸っぱくて苦いんだって教えてるみたいに。




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