葵が出してくれるならと一臣が首を縦に振り、あたしたちは公園を出てホテル街に向かって歩き出した。
選んだのは入り口のパネルから部屋を選択し、部屋の中の自動清算機でお金を払う仕組みの、誰にも会わないで事を済ませることが出来るタイプのホテル。
高校生だからって入り口で止められることがないので、うちの高校の一部生徒の間では「絶好のヤリ場」と言われている。ただし、料金が少し高いのが問題。一番安い部屋でも三時間六五〇〇円もする。
久しぶりだったけど、一臣のセックスはいつも通りだった。ありきたりの手順を丁寧に踏み、優等生らしく型通りの愛撫をして、極めて理性的にあたしを味わう。
一臣はそんな時でも、いやむしろそんな時だからこそなのかすごく冷静で、フィニッシュのタイミングだって憎らしいほどきちんとコントロール出来る。
あたしは保樹と元彼とそして一臣と、まだ三人しか経験がないからそういうことはよくわからないけれど、たぶん上手いほうなんじゃないかと思う。テクニックがどうこうとかじゃなくて、ムードを作る術に長けているのだ。
欲望はあからさまにせず小出しにして、生えたての柔らかい羽で包み込むように、大切にあたしを扱ってくれる。でも高二にして一臣をそんな男に作り上げたのはあたしじゃなくて元カノのあの女で、その事実を痛感した途端潤いも一瞬にして蒸発してしまいそうに、ひどく冷めてしまう。
一臣のセックスは上手いし気持ちいいけど、好きにはなれない。なのにあたしは川で溺れかけてる人が枯れた水草にしがみつくように、しつこく一臣を欲しがってしまう。
終わった後、裸で抱き合うのもそこそこに、一臣はまだベッドの上でぐったりしているあたしを残してシャワーを浴びに行く。快感の名残が残っているだるい身体で寝返りを打つと、テーブルの上の一臣のスマホが目に入る。
サブディスプレイが緑色に光っていて着信があったことを示している。バスルームから聞こえてくる水音は、当分止みそうにない。確かめたいという本能と、それを一応制そうとする理性がしばらくせめぎあった後、音を立てずにベッドから這い出す。
最初にスマホを覗き見たのは春休みだった。三月に入ってからラインの返信が遅くなり、会っていてもあまり楽しそうな顔をしてくれなくて、もしかしたらと思ったのだ。
でも一臣に限ってまさかという気持ちのほうが強かったし、スマホを覗き見することにも大して罪悪感はなく、勢いからの軽はずみな行動だった。その結果、知りたくなかった事実を知った。
耳でバスルームの様子を探りながらスマホを操る。一臣はパスワードを自分の誕生日に設定しているので、ロックは簡単に解除できた。あたしと一臣が繋がってた間にラインを送信してきたのは、案の定元カノだった。
元カノのライントーク画面は二人のやり取りがびっしりで、今日会った時から一臣がちょくちょくスマホをいじっていたのはそれが原因だったのだと知る。
別に意外でもなんでもないし、今さら大してショックは受けない。ひとつのメッセージが目に留まる。時間はちょうど、あたしと一臣が映画を見ていた頃。
『ていうかいつ彼女と別れてくれるの?』
絵文字も顔文字もない女の子にしてはさっぱりした文面。目に入った途端、ぎゅっと喉元を握られた気分になる。心臓が不吉に高鳴り、重い鼓動がお腹の底から突き上げるようにあたしに襲い掛かる。
この子が聞いているのは別れるかどうかじゃなくて、「いつ」別れるのかということ、つまりあたしと別れるのはもう一臣とこの子の間では決定事項なのだ。
自分の知らないところで自分の意思を無視して、勝手に進んでいく自分の運命。悔しいと思う余裕もない。その質問に対する、一臣の返信がこれだ。
『たぶんもうすぐ。別れるの、そんなに難しくないと思う。向こうはもう俺のことあんまり好きじゃないみたいだし』
時間は二人が映画館を出ていて、公園を散歩していた頃だった。すぐ隣にいても、一臣の頭にはあたしのことなんて少しもなかった。元カノのことしか考えていなかった。
テーブルの上の、さっきと同じ位置にスマホを戻す。向きはどうだったかとちょっと考えて、どうでもよくなって手を引っ込める。脚を持ち上げ、ソファーの上で膝を抱える。股の間から自分のものとも一臣のものともつかない匂いが立ち上ってくる。どんなに身体を求めても、深いところで繋がっても、もう何も誤魔化せない。
まもなく一臣がバスルームから出てくる。照れくさそうに巻いた腰のタオルの辺りから、湯気が細く上がっている。ソファーの上で膝を抱えてるあたしを見て、ちょっと目を広げる。
「そんなところで何してるの」
「別に、なんでもない」
「そう。俺、五時からバイトだからもう行くけど、いい?」
嘘をつく時の、どこか不自然なまばたき。今から元カノに会えるという喜びを抑えきれていない口調だった。
そうか、一臣はあたしがすべてを知っていることに気づいてないんじゃない。気づいていようがいまいが、そんなことはどうでもいいんだ。どうせ別れるつもりなんだから。
「いいよ。あたし、しばらくここいる」
「わかった」
一臣は素早く服を着て、あたしのこめかみに一度だけ唇を押し当ててホテルの部屋を出て行った。一臣が触れたところが痛かった。気持ちの含まれていないキスが心を削る。
しばらくしてからよろよろと立ち上がり、シャワーを浴びる。お湯の勢いを一番強くしたら、ちょっと痛い。痛いけれど大粒の雨に打たれるように全てを洗い流してほしくて、髪が濡れて化粧が崩れてしまうのも気にせず頭からシャワーを浴びる。泣いてしまうとどれが涙でどれがお湯なのかわからなくなる。
もう別れるとか、あんまり好きじゃないとか、勝手に決め付けないでほしい。あたしはまだ好きなのに。そう、わかった。たった今わかった。あたしは今だってどうしようもなく一臣のことが好きなんだ。
浮気なんてひどいことをされても、一臣が元カノに会っていても、一臣があたしのことを好きじゃなくても、あたしは大好きなんだ。
清らかな愛が醜い執着に成り果てたって、子どもがおもちゃを取られたくないような感情だって、好きは好き以外の何物にもなれない。