イライラしているところに恋がどうだこうだ、愛がどうだこうだとかいう歌が耳に飛び込んできたので、もっとイライラした。隣のスツールに座ってる大学生ぐらいの男のイヤフォンから漏れ聞こえているのだった。
今年一番のヒットソングらしい、大量生産、大量消費のチープな音楽。甘ったるい女性アイドルの声に神経を逆撫でされる。恋や愛をあんたなんかに語ってほしくないと、名前を思い出せない歌声の主に内心で憤ってみる。
ワイヤレスイヤフォンを耳にねじ込み、音楽アプリを起動する。音量を最大限にして、曲はセックスピストルズ。こちらも見事に音漏れしているらしく、可愛いアイドルの声を低いもごもごとしたボーカルに邪魔されて、男が驚いたようにこっちを見る。
あたしは気づかない振りをして窓の外に目を向ける。マックの二階から見下ろす夕方五時台の駅前広場は、制服姿の高校生や子どもの手を引く母親や疲れた顔のサラリーマンなんかが行きかっていて、昼間よりも高度を下げた金色の太陽が世界を暖かく染めていた。
夏至が近いから、空の色はまだ青い。そして人ごみの中に、
男が不満そうな顔であたしを一瞥し、立ち上がる。ダストボックにシェイクの紙コップを投げ込んで階段を下りていく後姿を見送ってから、音量を下げた。ここで初めてリズムに意識を委ねることが出来る。
やっぱり、本物の音楽はいい。あたしは今どきの若者が聴いているJ―POPやらK―POPやらが大嫌いだ。小中学生ならまだしも、高校生にもなってそんなものを聴いている人間の気が知れない。安易な歌詞に使い古しのメロディ。唾を吐きかけたくなるような音楽が、二十一世紀の日本には溢れ過ぎている。
アナーキンザUKをハミングしながらライン画面をチェックする。あたしが送った「マックの二階で待ってる」というメッセージはまだ既読にならない。
「もうすぐ着く」って一臣からラインが来たのは二十分近く前なのに、何をやっているんだろう。電話してみると通話中を示す電子音が答えた。何だ、そういうことか。待たされるイライラが、あきらめに形を変える。
二分後、ようやく一臣が階段を上ってきた。右手にコーラの紙コップを握り、左手を小さく上げてぎこちなく笑う。引きつった口元やどこかすまなそうな目に、責める気持ちをなくしてしまう。責めたところで何が変わるわけでもないだろうし。
「ごめん、だいぶ遅れて。待っただろ?」
「うん。二十分ぐらい」
「本当にごめん。そしてもうひとつごめんなんだけど、今日これからバイトなんだ」
嘘をつく時まばたきをする癖に、一臣は気づいていない。無理やり作った笑顔の裏側にあるものをあたしは知っている。知っててにっこり笑う。せめて一臣の内側で膨れ上がる罪悪感を、もっと煽ってやりたくて。
「いつまでいれる?」
「六時には出なきゃ、ここ」
「まだ三十分もあるじゃん。それまで話そうよ」
「いいよ。何聴いてるの?」
あたしの左耳からイヤフォンを抜き取って自分の耳にはめ、首を傾げる。そして葵は音楽の趣味がいいなぁなんて、無理のある褒め言葉をひねり出す。成績はいいくせにJ―POPやらK―POPやらが音楽の全てだと思っている今どきの若者の一人だけど、これがあたしの彼氏だ。もっとも、いつまで彼氏でいるのかわからないけど。
一臣のクラスにいる顔はいいのに性格が歪んでて一度も彼女が出来たことのない男の話や、あたしのクラスで今日の四時間目の数学を担当した男性教師が授業中に立ったままうとうとしてた話なんかをしてるうちに、あっという間に三十分が過ぎてしまう。
一臣と顔を突き合わせている間は平均的な高校生が持つありふれた話題が次から次へと飛び出し、消える。甘いムードなんてちょろっともない。じゃあ、と一臣がおずおず腰を上げ、それに続いた。
マックを出る時、二人の背中にありがとうございました、と声が投げられる。すれ違ったセーラー服の女子中学生が、一臣のことを眩しそうに見つめていた。一臣は女の子の熱っぽい視線になんか気づかないで、あたしのほうも見ないで、どこか遠いところに目をさ迷わせている。
身長一八二センチの長身で顔の造作も大人びているから、制服のお陰でかろうじて高校生だとわかるものの、私服だったらまず十八歳以下には見えない。
くっきりした二重の目や整った鼻梁のお陰で格好いいと言われるタイプだけど、顔よりはむしろ落ち着いた言動や物腰、定期テストの度に必ず学年でベストテンに入る頭脳のほうが気に入っていた。
髪は染めてないしピアスもしてないし、チャラチャラしたところはどこにもないからきっと童貞だと思ってたのに。彼女がいたことあるなんて、予想もしなかった。
「なんかもう、夏だな」
長袖のワイシャツを肘のところで折りながら一臣が言う。毛の薄い腕は部活もやってないのにやたら色が濃い。地黒らしい。
「夏休みになったらさ、旅行とか行きたいね」
深い考えなく口にした、たった今浮かんだ思いつきだった。二重の目が見開いてあたしを見る。
「旅行って、二人で?」
「もちろん。あんまり遠いところは無理だけど、箱根とか伊豆とか。一泊二日で」
「親どうするんだよ」
「友だちと行くってことにすればいいじゃない」
一臣が渋い顔をする。あたしは早くも即席で考えた夏の計画を後悔していた。
「そんなの、すぐに本当のことばれちゃうだろ。うちの親、相手の親に勝手に電話したりするし。
言い終わって、あたしから目を逸らしてしまう。高校生で無理なら、大学生だったらいいってことなのか。それまで二人が付き合ってるわけもないのに。それに相手があたしじゃなければ、友だちを使って無理をしてアリバイを作って、この素敵な計画にとびつくはずなんだ。
知っていて、何も言わない。何も言えない。
自転車置き場のところで別れた。一臣は駅まで自転車通学、あたしは駅から徒歩。ちょっと前までは、別れ際には必ず人目を気にしつつさよならのキスをしたのに、今はお互い軽く手を振るだけ。遠ざかっていく一臣の後姿に、口の中でため息をつく。キスどころか、最後に手を繋いだのはいつだろう?
一臣はこれから、前の彼女に会いに行く。あたしにはバイトだって嘘をついて。