「な、
「そうですね……」
わたしはそれまでしていたトレードマークの赤い眼鏡を左手でスッと外して、その人をジッと見つめた。
視線を向けるその人は、病院のベッドの上に横になっているのだけど、私が来ている事でドアを締め切り、その上で話しかけて来た女性――ベッドの上で横になっている人の奥様――と冷には三人だけの状況。
そして私はそのベッドの上の人へと近づいて行き、被せてある布団をそっとめくっていく。
――やっぱり……。
大きなため息が漏れる
「どうかしら那貴さん……」
「この状態になってどのくらいですか?」
「えっと……2週間くらいかしら?」
「そうですか……。私に見えている限りで話しますけど、旦那様は『胸から足元にかけて』既に
「それって……?」
「旦那さんは胸の病気か何かですか?」
「そ、そうなんだけど……え? でも足元も見えないって……」
「そうですね。足元も既に見えなくなってきていますから、全身転移する御病気か何か……かと」
「そ、そんな!! ちょっと前まではほんとうに元気だったのに!? う、うそでしょ? わかったわ!! あなた私たちには見えないからって騙そうとしているのね!!」
「そんな事は……。私をここに呼んだのは『そんな話を信じた』あなた方でしょう?」
「…………」
病室中に響くほどの怒声を浴びていた私から発せられた静かな言葉に、奥様は言葉を詰まらせる。
「信じるか信じないか……。は、もうどうでもいいです。私は頼み込まれたから来ただけですし、見えたことをそのままお伝えしたまでですから。もう用事も済んだんですよね? それではこの辺で失礼しますね」
わたしがスッと頭を下げ、病室から出てこうとドアへ歩み寄ると、奥様は小さな声で「ごめんなさい」と謝罪してくれた。
わたしはその声に小さな礼を返し、そのまま後ろを振り向くことなく病室を後にした。
『幽体離脱』という言葉を、一度は聞いたことが有る方もいると思う。でも私はその幽体離脱とは『実体を残したままで意識が実体から出てしまう事』と考えている。
だから、幽体離脱とは生きている内に起こる。死に際にもそういった事が起こるという人もいる。それはまだ実体が生きている内に意識だけが出てしまうから――なんて言っても、今の世ではエビデンス? とか証拠とかを出さないと信じてもらえないから、あまり大きな声でそんなこと言わない。ううん……言えないのだ。
――はぁ……。結局こうなっちゃうのよね……。
大きなため息1つつき気を取り直して病院から出る。
「よ!! お疲れ!!」
言葉と共に差し出された1本のペットボトル。こういう後によく飲んでいる午○の紅茶ミルクティー。
疲れた脳にも体にも染みわたるのだ。
「ありがと……」
「どういたしまして。それで那貴がそういう顔してるって事は、
「うん……」
「まぁ……元気出せよ。こればかりは仕方ないさ。見えないものを信じろって方が難しいんだから」
そう言って、私の頭をぐりぐりと乱暴に撫でる男の子は、小学生時からの同級生、
「おっとそろそろアレ掛けないのか?」
「あ、そうだった……」
そういうとポケットからケースを取り出し、しまっていた赤い縁の眼鏡を顔へと装着する。
「うん!! これで良く見えない!! 落ち着くわぁ……」
「ほんと、面倒なもん持っちまったな……」
「本当だよ……。こんなモノいらないのに……」
「まぁその眼鏡も那貴に似合ってて可愛いし良いんじゃね?」
「まぁたそういぅ事言ぅ~」
耕一郎の背中をバシバシ叩くと、耕一郎は「あははははは」と大きな声で笑ってくれる。
――私はほんとうにその笑顔に救われてる……。
隣を歩く耕一郎を見ながら、心が落ち着くのを感じていた。
私、
死期が近づいている人などの体が透けて見えちゃうこの眼は、幼少時には周囲に言っても『子供の戯言』程度の認識しかされず、特に何かされるという事も無く、普通の女の子と同じような生活をすることが出来ていた。
しかし中学生になろうかという時になって、親戚のお見舞いへと行った時から、わたしを見る目が変化する。
「ねぇ、あの人って頭に何かある病気なの?」
「え?」
お見舞いは無事何事もなく住んだその後に、病院のロビーでそのご家族とお話しをしている時に、わたしの口からふと漏れてしまった言葉。
それを聞いた親戚の方々が驚愕した顔をして、不思議そうな目を私に向けて来た。
少しばかりその集中してみられる目に耐えきれず、私はお母さんの後ろへと隠れる。
「だ、誰からお聞きになったのかしら?」
「えっと……」
親戚のおばさんがお母さんへと問いただすけど、お母さんも初めて聞いたであろう事柄故にどうしていいかわからず、私の方をチラチラと伺う。
「誰にも言っていない事なんです。私達家族以外には誰も知らないはずなのにどうして? 那貴ちゃんはどうしてそう思ったのかしら?」
少し私に近づいて来るおばさんは、表情が無くなっていて怖かった。
「えっと……」
「那貴?」
わたしが質問に言いよどんでいると、お母さんも「どうして?」という視線を向けてくる。
「えっと……その……。あの人の頭が見えなくなってたから……なんだけど……」
「見えなく……? あぁ……親戚の集まりで聞いたことが有るわ。那貴ちゃんには『見えないモノ』があるって。それが見えない人は亡くなってしまうって……」
「…………」
おばさんがずっと私を見つめて独り言をブツブツと言っている。
「いい加減な事言わないで!! いくら子供だったとしても、言っていい事と悪いことが有るの!! 家族が心配してこうして集まっているのに、どうしてそういう事が言えるの!?」
「ちょ、ちょっとやめてください!! まだ子供ですよ?」
おばさんに強くなじられながら、腕を引っ張られると、私はその場で転んでしまった。
「え? あっ……。で、でもその子、那貴ちゃんが変なこと言うから……」
「子供のいう事を大の大人が間に受けてどうするんですか!! 親戚の中での噂話でしょう? それを小さい子に暴力まで振って……」
倒れてしまっている私を、お母さんが引き起こしてくれ、そのままギュッと抱きしめてくれる。
「ご、ごめんなさい……。で、でも、もう那貴ちゃんは連れてこないで……」
倒れてしまっている私を見てはっとしたおばさんが、私にではなくお母さんに謝罪をして、そのまま病院の中へと戻って行った。
「大丈夫?」
「……怖かったよぉ……」
「そうね。でもね那貴……、いくら
「う、うん。ごめんなさい」
「ううん。那貴が謝る事はないのよ……。謝らなければならないのはむしろ、私達。お父さんやお母さんも那貴がそういう事を言っているのは知っていたけど、子供のいう事だからって流してしまっていたの。でも……那貴には本当に『見えて無かった』のね」
「うん……」
「ごめんなさいね。信じて上げることが出来なくて」
「ううん。でもお母さんは信じてくれるの?」
「えぇ信じるわ。おそらくあの人は……」
そういうとお母さんは、おばさんが歩いて行った方向へと視線を向け、少しばかり考え事をするように黙る。
「行きましょう」
「うん……」
少しの時間が経過して、お母さんが私を抱擁から解放し、手を繋いで歩き出す。
「那貴」
「なぁに?」
「その……見えないのって、いつも見えないの?」
「そうだよ。こうして歩いている人の中にもそういう人がいるもん」
「そっか………じゃぁ」
そうして一度帰宅した後に、お父さんとお母さんと私の三人で改めてお出かけすることになり、そのお出かけ先で眼鏡屋さんに立ち寄ると、一つの眼鏡を造る。
店員さんには本当に良いのかと何度も確認されたけど、お父さんもお母さんも首を縦に振っているから、店員さんも諦めたようで、要望した眼鏡を仕上げてくれることになった。
こうして数日後に出来た『赤縁の眼鏡』。
それは私の視界を歪ませるためだけに造られた眼鏡。いつも見えるのならば、視界を歪ませしっかりと見えてしまわない様にと両親が考えて作ってくれたモノだ。
元々両目の視力は1.5ほどある私。その眼鏡をかけると当初は頭痛に悩まされ、視界が歪むことで気持ち悪さが込み上げる事がしばしばで、慣れるまで相当苦労したけれど、なんとか克服することが出来たのは中学生になってすこし経った頃。
その頃には急に眼鏡をする事になった私を心配する数人の友達が出来ていたのだけど、その中でも小学校で何度かクラスメイトになったことが有る耕一郎が割と一緒に居てくれることが多くなっていた。
それから友達の顔ぶれが多少変わりはしたけど、高校生になった今に至ってずっと一緒に居てくれるのは耕一郎だけになっている。
「なぁ那貴」
「なに?」
「もう辞めるか?」
「…………」
耕一郎と一緒に歩いていると、こういうことが有った後にはいつもこの言葉が耕一郎から私に発せられる。
「ううん。辞めないよ」
「どうしてだ? 言っちゃなんだけどさ、那貴の事を最初は信頼してるとか言ってるけど、結局はあぁいう事言うんだぜ?」
「うん。でもそれは仕方ないんじゃないかなと思う」
「どういうことだ?」
「色々尽くしてさ、どうしていいかわからなくなったら、人ってなんにでもすがりたくなるんじゃない?」
「むっ……そうかもしれないけどよぉ」
「耕一郎が心配してくれているのは分かるよ。でも、それでも私は、私の眼が誰かの役に立てるというのなら、辞めない……。これからも望まれたらたぶん私はそこに行くと思うよ。だからもし、耕一郎が嫌なら――」
「いやじゃない!!」
隣を歩いていた耕一郎が立ち止まる。私も数歩だけ先で立ち止り、振り返った。
「嫌じゃない。俺は那貴と一緒にいるよ」
「うん……」
「だから、那貴が辞めないっていうのなら、俺も一緒に付いていく」
「……うん。ありがとう……」
「いや。これは俺が
耕一郎が私をじっと見つめながら、私の方へと近づいて来る。そして黙って私の右手をとり、ギュッと握りこむ。
「あったかいね……」
「だろう? 心があったかい奴は手も温かいんだぜ?」
「えぇ~? 本当にぃ?」
「いや、知らんけど……」
「あはははははは。もう!! 耕一郎らしいな!!」
わたしも耕一郎の手をギュッと握り返す。
私はたぶん、耕一郎の事が好き。
自覚はまだ半信半疑だけど、手を握られても嫌じゃないからきっと私は耕一郎の事が好きなんだろうな。
私はきっと、これからも必要としてくれる人がいるのなら、その人のために動いてしまうだろう。でもその時は私の隣には耕一郎が居てくれる。そんな気がする。
そのまま、私たちはまた歩き出す。
もちろん握った手はそのままで――。