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5-7 後朝

「私、孩子こども産めませんよ、陛下」


 子渼は掠れた声でぼそりと言う。


 すると後ろから、はは、と、軽い笑い声が聞こえた。


「それはまあ、当然だな」


 明暁は笑み含みに、あっけらかんと言った。


 熱くむつんだ身体のつながりを明暁がようやくほどいて子渼を解放してくれたのは、もう夜明け近い刻限だったろうか。それまでにいったい幾度、絶頂を見せられ、幾度、彼の吐精を肚に受けとめたことだろう。


 気恥ずかしさのあまり、ついつい、いま子渼は明暁に背を向けてしまっている。


 明暁はといえば、そんな子渼を後ろからゆるやかに抱いて、横になっている恰好だった。


「お世継ぎは……どうするつもりですか?」


 背を向けたままで問いつつも、子渼は我ながら愚問を投げたものだと思っていた。


 皇帝ともなれば、皇后以外にも多くの妃嬪ひひんを持つのが普通である。明暁の世嗣せいしは、だからきっと、今後彼の後宮にはべるのだろう数多くの女性のうちの誰かが、いつか産むことになるのにちがいない。


 それこそ当然のことだったが、子渼はなんとなくもやもやとした気分にもなった。


「世継ぎ、な」


 明暁がつぶやく。


「まあ、心配せずとも、そのうち末の弟を……皇太后の産んだ皇子を、我が太子には立てるつもりだ」


 そう言いつつ、子渼の身体を抱く腕にゆるやかに力を籠めた。


「そういうことではなくてですね……あなたの御子のはなしですが」


 はぐらかされたと思った子渼は、ちょっとむっとして言った。


 すると明暁は、ふう、と、ちいさく息を漏らす。


「そっちは最初から持つ気はない。妃もだが」


 さらりと言われて、子渼は、え、と、目を瞠った。


 思わず振り向くと、射しはじめた曙光の中で、明暁は苦笑するように笑んでいる。


「だからこそ、践祚せんそから四年、妃嬪もない」


「ですが」


 子渼が戸惑って言うと、そろそろこっちを向け、と、子渼の身体の向きを変えさせた。


「明暁……?」


 子渼が戸惑いを混ぜつつ相手を呼ぶと、彼は、こちらの頭を抱え込むようにしながら嘆息した。


「言わなかったか? そも、父帝があと何年か生きていれば、俺に皇位などまわってはこなかった、と。――俺は、母の身分も高くなければ、たいした後ろだても持ってはいない。そんな俺が皇位についたのは、父帝の崩御の時点でかろうじて十八歳せいじんに至っていた皇子が、俺だけだったという、ただそれだけの理由だ。本来なら……あと数年、父帝が健在で、順当にいけば、彩蘭の子、つまりは末の弟が、父の嗣子あとつぎとして立太子されるはずだった。そうなれば俺は武官にでもなって、弟に仕える気でいた」


 皇帝の臣として生きるつもりであったのだと、明暁は肩を竦めて言った。


「だから、皇位はいずれ弟にまわす。それがあるべき姿だからな。俺は弟が立つまでの、中継ぎみたいな皇帝でしかない。――とはいえ、我が末の弟殿は、いまはまだ十歳とおばかり、これから十年近くは踏ん張らないとならんのだが」


 そんな明暁の言葉に、子渼はきゅっと眉を寄せた。相手の言い様が、己を卑下するような響きをどこかに帯びている気がして、なんとなく口惜くやしいような、せつないような、たまらない気持ちになっていた。


 む、と、くちびるを尖らせると、子渼は真っ直ぐに明暁を見る。


「でも……私にとって、初めて出会った皇帝陛下は、あなたですからね」


 相手の頬に両のてのひらを添え、包み込むようにしながら、あたたかな鳶色の眸を覗き込む。


「いいですか」


 言い聞かせるように、子渼は言葉を継いだ。


「あのね、私が、あの汚い字では無理だろうと思いながらも、それでも諦め悪く科挙を受け、官吏を目指したのは……ほかならぬ、あなたに……あの日、あの状況の中で、真っ先に民を気遣う姿を見せた皇帝陛下に、お仕えしたいと思ったからなのです。そう、言いましたよね? ――あなただったから……明暁……陛下」


 あなたは紛れもなく己の理想の国主なのだ、と、子渼が視線にそんな想いを込めると、明暁は驚いたように目を瞠り、それから、とろ、と、それを細めた。


「我が皇后がそう言ってくれるだけで、これから、俺はいくらでも頑張れる気がする」


「もうっ、茶化さないでください! 私は冗談で言っているのではないのですよ。こんなの、本人を前に口に出すの…………恥ずかしい、のに」


「ははっ、べつにからかったわけではないさ。――ほんとうに、頼みにしてる」


 しん、と、沁みるような明暁の言葉に、それまで頬を膨らませていた子渼は目を瞬いて相手の顔を見た。


「明暁……?」


 窺うように名を呼ぶと、口角を持ち上げた彼が、子渼の瞼にそっとくちづけた。


「お前だけを大事にする。約束する。だからずっと俺の傍で、俺を支えてくれ。俺はひとりではないと、ひとりで抱え込んで、ひとりで背負おうとして、気を張っていなくとも良いのだと……思わせてくれ。つぶれてしまわないように。――こんなことを願うなんて、弱く情けない皇帝だと、お前はわらうか?」


 真摯に請われて、子渼は刹那、黙した。


 こちらの頭を胸に抱き込んだ相手が、子渼の後頭部にある古傷を探るように、耳の後ろのあたりに触れた。


「べつに……そんなこと、おもいませんよ」


 やがて子渼は、ぽそ、と、言う。


「仕方がないから、傍にいてさしあげます」


 言葉自体は憎まれ口めいた響きを帯びてはいたけれども、でも、彼は三年前のあの日から、子渼にとって唯一の、仕えるべき皇帝だったのだ。負けそうになって、くそったれ、死ね、と、そうつぶやくたび、すっきりした心の奥底に最後にともっていたのは、あの皇帝の傍ではたらきたいという想いのだった。


 そんな相手に求められて、嬉しくないはずもない。


「あなたと、陛下と……傍にいたいと願う相手が同一で、おかげで私は身を引き裂かずにすみますし」


 言いながら、照れくさくて、俯いた。


 子渼の胸では、ことことこと、と、鼓動があたたかな早鐘を打っている。明暁は黙っていたが、今度は子渼の額にくちづけた。


「あ、で、でも、あなたが莫迦なことをしたら、死ねって遠慮なく罵りますけどね……!」


 口惜しいから、そんなことを言い足すと、明暁は、はは、と、朗らかに声を立てて笑った。


「そのくらいなら、いくらでも言えばいい。それはお前にとって、己の弱い心に負けぬようにというまじないであり……それから、俺への愛情の裏返しでも、あるんだろう? 」


 いつかの言葉尻を拾って、揚げ足を取るように言い、笑みを深める。


「……っ、あなたは! だからそういうところですよ、いっかい死ねって言いたくなるのは……!」


 顔を真っ赤に染めた子渼に、明暁はくつくつと喉を鳴らす。


「雑言を吐く口はふさぐべきだな」


 言いながら、ごろりと身を返して子渼をしとねに押し伏せ、深くくちびるを重ねてきた。


「っ、ちょっと、明暁!」


「ん……もういっかい」


「っ、はあ?」


「なんだ。いやか?」


「い、いやとかじゃ、なくて……」


 もう明るいのに、と、言いかけたくちびるを、問答無用でまたふさがれて、子渼は抵抗をやめた。


 臥牀しんだいの上でぴったりと重なりあったふたりを、漏窓すかしまどから射したあけぼのの明るい光が照らしていた。

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