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5-5 紅蓋頭

 皇后を迎える、だと。見送りにきてくれたのかと思ったら、婚姻の報告をしにきたのか。


 子渼は無意識に、むっとくちびるを引き結んでいた。


 けれどもすぐに、ふるふる、と、ちいさくかぶりを振る。皇帝たる明暁が誰と結婚することになろうがいまの子渼には関わりのないことだ、と、言い聞かせるように心中で独り言ちた。


 それでも、ぐるぐると頭の中に婚姻の二文字が巡るのを、子渼は止められなかった。


 あるいは彼の相手は、今回救い出された孫家か張家の令嬢なのかもしれない。それで、今度の事案解決に一役買った子渼を、そのよしみもって、皇帝は自らの婚儀に列席させてくれるつもりであるとかかもしれない。


 子渼はつらつらとそんなことを考え――……そして、ふざけるな、と、おもった。


 たとえ本当にそうでも、明暁の婚儀になど誰がいくか、と、てのひらを握りしめる。勅命といわれようが絶対に行ってやるものか、と、くちびるを引き結んだ。


 明暁の傍で誰かが微笑むのを見せられるのなんて、真っ平御免だ。


 だってきっと、切なくて泣いてしまう。


 祝いの席にそれでは縁起が悪い。


 そうとわかっていても涙をこらえられる自信はないから、行くものか、結婚なんか勝手にしろ、と、怒り任せに明暁を睨み据えてしまいたくなった。


「なんとか言え」


 明暁が苦笑した。


 いったいなにを言えというのだ、理不尽な、と、子渼はくちびるを噛んだ。


 その刹那、ふわり、と、己の視界を覆ったものがある。


「……え……?」


 子渼は頓狂な声をあげた。


 自分にかぶせられたのは、透けるようなしゃの紅い布だった。端には金糸で美々びびしいぬいとりがある。


 紅蓋頭こうがいとうと呼ばれるものだと、すぐにわかった。新娘はなよめ衣装のひとつである。


 だが、そんなものをかぶせられる意味のほうは、てんでわからなかった。


 子渼が目を瞬くと、明暁が、に、と、片方の口の端を持ち上げた。


「皇后を迎えることにした」


 また、そう言う。


「相手は皇太后の遠縁の娘でな、姓を柳、名は、そうだな……れんとでもしておくか、さざなみの意の。ああ、この娘だが、あざなは子渼というんだ」


 子渼に手ずから紅蓋頭をかぶせた明暁は、そのまま屈むと、笑み含みのわざとらしいとぼけた口調でそう言った。


 どうやら面白がるように口の端を持ち上げてさえいるらしい。子渼は目を瞠り、ぽかん、と、口を半開きにした。


「次善の策として、俺の傍にいるのもいい、と、お前、そう言っていたろう。条件は科挙に及第しないこと、だったか。まあ、お前のつづるあの字では絶望的だろうし、ならいっそ官吏になるのは諦めて、俺の傍で、執政を手伝わないか。――皇后の位が空いているから、やる」


「…………はあ?」


「まったく……はあ、は、ないだろう。いちおう皇帝からの求婚だぞ。己の無垢を奪った責任を取れと最初に言ったのは、だいたい、お前だったのではなかったか」


 その通りに責任を取ってやろうというのに、と、苦笑しながら、あるいは半分はからかうように言って、明暁は手ずから子渼にかぶせた紅い紗に手をかけて持ち上げる。


 鳶色の眸に間近から顔を覗き込まれて、やはりどこかこちらの反応を面白がるような表情が癪に障って、子渼はつい、き、と、相手をめつけていた。


「っ、ふざけるな! 死ね!」


「ははっ、相変わらずの口だな。自分の中の昏い感情を、外へ吐き出してしまうための手段だと言っていたか。己の心をまもる、呪言まじないのようなものだ、と……」


 明暁はどこか眩しそうに目を細めた。


「お前が言うなら、どんな罵詈雑言もゆるす。いくらでも罵倒したらいいし、お前の雑言に腹が立ったら、俺は……接吻で、その口を塞ぐことにしようか」


 またしてもどこか悪戯めいた表情で笑うと、今度はすっと伸べた手指で子渼の頬を撫で、くちびるをなぞった。


「っ、し、死、ね……っ!」


 真っ赤になって言い募った途端、わななくこちらのくちびるに、相手のくちびるが重なっていた。


「子渼……俺にとっては、お前の存在こそが、我が心を守ってくれる護符のようなものなんだ。俺はお前ほど強くない。己だけで、己を支え続けてやれる自信がない。――だが、お前がいれば……」


 そう熱っぽく言いながら、明暁は、ついばむような口づけを幾度か子渼にした。それからすぐにこちらの後頭部を押さえ、背を掻きいだき、今度は呼吸いきをも奪うように貪りつく。


「ん、んぅ……ふ……ぁ」


 抱き竦める腕から逃れようと身をよじったのも一瞬のこと、差し込まれた舌に歯列を割られ、上顎を舐められればもう、子渼は、とろん、と、なってしまう。舌を絡め取られて、じゅ、と、音を立てて吸われたときには、くたんと身体から力が抜けていた。


 くちびるが離れる。


 ふぅ、ふぅ、と、荒れた息が漏れていた。


 彼我の吐息が交ざる距離で視線が絡まった刹那、きっと熱に潤んでしまっているのだろう己の眸が自覚されて、恥ずかしくて、口惜しくもあって、子渼はわずかに俯いてしまっている。


 そのとき唐突に、ふわり、と、身体が浮いた。


 明暁にかかえ上げらたのだ、と、理解した瞬間には、彼は架子床ねどこのほうへと歩を進めていた。そのまま、そこに据えられた臥牀しんだいまで運ばれる。


「え、え、ちょ、ちょっと……っ」


 戸惑ううちに、そこへ横たえられ、し掛かられていた。


「な、にを……っ」


 するつもりなのか、と、問うよりも先に、再び口を口で塞がれている。相手の身体の重みをも受けとめながらのくちづけに、子渼は喘いだ。


「っ、ぁ……いきなり、なんの、つもりですか」


 途切れ途切れの言葉とともに非難を込めて明暁を睨み上げたとき、自分のその行動を、子渼は後悔した。間近からこちらを見下ろしている男の眸の中に、情慾のほむらが揺らぐのを見てしまったからだ。


「わるい。華燭洞房婚礼初夜まで待ってやれない」


「こ、婚礼って……」


 頬を染めつつ、逃げるように視線を逸らした。けれども、押さえ込まれた身体は動かない。明暁がこちらの耳許に口を寄せ、子渼、と、熱っぽく名を呼んだ。


「お前に、傍にいてほしいんだ。そうすれば、たとえ背負わねばならぬ重いものにつぶされそうになっても、俺はえることが出来ると思う。お前が、俺の傍で俺を支えてくれたなら……たぶん、俺はつぶれずに、ちゃんと皇帝をやっていける」


「で、も……皇后って」


「はは、無茶だよな。悪い。だが他によい方策ほうを思いつかなくてな」


「か、官吏にしてくれれば、いいじゃないですかっ」


「うん、もっともだ。ただ……俺はお前を、こんなふうに、抱きたいと思ってしまったから……そういう意も含んで、お前を、傍に置きたいんだ」


 あまりにも真っ直ぐに言われて、子渼は息を詰めた。


 かぁ、と、頬が熱くなる。


「あの日も……最初の日だが、そこまでする気などなかったのに、お前に陛下と呼ばれた瞬間に、ふいにたぎって、あとはどうも抑えが利かなかった。悪かったとは思っているが……俺を求めるお前の声は、まるで甘い蜜のようだったんだ。それからも、何度も……お前が熱っぽく陛下と口にするたびに、胸がふるえて……ほだされるなというほうが、無理だ」


 そう思わないか、と、言われ、子渼は耳が熱くなるのを感じる。


 そういえば、皇帝そのひとである明暁の前で、そうとは知らぬまま、子渼はいかに皇帝を慕っているかを散々口にしていた。いま明暁が言う通り、事あるごとに、陛下、陛下、と、そう繰り返していたのだ。


 それに思い至れば、たまらない羞恥と照れくささが込み上げた。耳朶まで熱い。穴があったら這入はいりたい。子渼は居た堪れなさに明暁から顔を背けた。


「皇帝が官吏に手を出しては、さすがにまずいだろう? なあ、子渼」


 そんな子渼の耳許に、明暁は息を吹き込むように囁きかける。こちらに同意を求めるとともに、そ、と、耳朶を甘噛みされて、その刺激に子渼はちいさくふるえた。


 ずるい、と、おもう。


 自分は刹那の邂逅で耳にした皇帝のたったひと声、ひと言をよすがに、この三年、皇帝を想い慕ってきたのだ。まさにその人が、子渼に、子渼だけに、いま熱っぽく語りかけている。


 そんな声を聴かされたら拒めるわけがない、と、思う。もう逃げられるわけがない、と、おもう。


 子渼はきゅっと眉を顰め、くちびるを引き結んだ。


 けれども、そんなものは単なる最後の意地でしかない。


 だいたい明暁は子渼に圧し掛かってはいるけれども、決して強い力で無理にこちらを捕えているわけではないのだ。その声も、あくまでも請うようなそれでしかなく、なにも勅を以て命じ、強制しいるのでもなかった。


 それでもいま逃げることができないでいるのは、これはもう、自ら逃げないでいるのとほとんど同じだ。


 子渼はきっとどこかで、逃げたくないと思っている。


 あるいは、逃げる気など、最初からない。


「陛、下……」


 潤んだ眸で、相手を見詰めた。


 相手は、ふ、と、目を眇めた。


「明暁でいい。――これからも、ふたりのときはそう呼ばれたい」


 お前には、と、そう甘く囁いたくちびるが子渼のそれにまた重なったとき、子渼は相手に応えるように、伸ばした腕を明暁の背にまわしていた。

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