皇后を迎える、だと。見送りにきてくれたのかと思ったら、婚姻の報告をしにきたのか。
子渼は無意識に、むっとくちびるを引き結んでいた。
けれどもすぐに、ふるふる、と、ちいさく
それでも、ぐるぐると頭の中に婚姻の二文字が巡るのを、子渼は止められなかった。
あるいは彼の相手は、今回救い出された孫家か張家の令嬢なのかもしれない。それで、今度の事案解決に一役買った子渼を、その
子渼はつらつらとそんなことを考え――……そして、ふざけるな、と、おもった。
たとえ本当にそうでも、明暁の婚儀になど誰がいくか、と、てのひらを握りしめる。勅命といわれようが絶対に行ってやるものか、と、くちびるを引き結んだ。
明暁の傍で誰かが微笑むのを見せられるのなんて、真っ平御免だ。
だってきっと、切なくて泣いてしまう。
祝いの席にそれでは縁起が悪い。
そうとわかっていても涙を
「なんとか言え」
明暁が苦笑した。
いったいなにを言えというのだ、理不尽な、と、子渼はくちびるを噛んだ。
その刹那、ふわり、と、己の視界を覆ったものがある。
「……え……?」
子渼は頓狂な声をあげた。
自分にかぶせられたのは、透けるような
だが、そんなものをかぶせられる意味のほうは、てんでわからなかった。
子渼が目を瞬くと、明暁が、に、と、片方の口の端を持ち上げた。
「皇后を迎えることにした」
また、そう言う。
「相手は皇太后の遠縁の娘でな、姓を柳、名は、そうだな……
子渼に手ずから紅蓋頭をかぶせた明暁は、そのまま屈むと、笑み含みのわざとらしい
どうやら面白がるように口の端を持ち上げてさえいるらしい。子渼は目を瞠り、ぽかん、と、口を半開きにした。
「次善の策として、俺の傍にいるのもいい、と、お前、そう言っていたろう。条件は科挙に及第しないこと、だったか。まあ、お前の
「…………はあ?」
「まったく……はあ、は、ないだろう。いちおう皇帝からの求婚だぞ。己の無垢を奪った責任を取れと最初に言ったのは、だいたい、お前だったのではなかったか」
その通りに責任を取ってやろうというのに、と、苦笑しながら、あるいは半分はからかうように言って、明暁は手ずから子渼にかぶせた紅い紗に手をかけて持ち上げる。
鳶色の眸に間近から顔を覗き込まれて、やはりどこかこちらの反応を面白がるような表情が癪に障って、子渼はつい、き、と、相手を
「っ、ふざけるな! 死ね!」
「ははっ、相変わらずの口だな。自分の中の昏い感情を、外へ吐き出してしまうための手段だと言っていたか。己の心をまもる、
明暁はどこか眩しそうに目を細めた。
「お前が言うなら、どんな罵詈雑言もゆるす。いくらでも罵倒したらいいし、お前の雑言に腹が立ったら、俺は……接吻で、その口を塞ぐことにしようか」
またしてもどこか悪戯めいた表情で笑うと、今度はすっと伸べた手指で子渼の頬を撫で、くちびるをなぞった。
「っ、し、死、ね……っ!」
真っ赤になって言い募った途端、わななくこちらのくちびるに、相手のくちびるが重なっていた。
「子渼……俺にとっては、お前の存在こそが、我が心を守ってくれる護符のようなものなんだ。俺はお前ほど強くない。己だけで、己を支え続けてやれる自信がない。――だが、お前がいれば……」
そう熱っぽく言いながら、明暁は、
「ん、んぅ……ふ……ぁ」
抱き竦める腕から逃れようと身を
くちびるが離れる。
ふぅ、ふぅ、と、荒れた息が漏れていた。
彼我の吐息が交ざる距離で視線が絡まった刹那、きっと熱に潤んでしまっているのだろう己の眸が自覚されて、恥ずかしくて、口惜しくもあって、子渼はわずかに俯いてしまっている。
そのとき唐突に、ふわり、と、身体が浮いた。
明暁に
「え、え、ちょ、ちょっと……っ」
戸惑ううちに、そこへ横たえられ、
「な、にを……っ」
するつもりなのか、と、問うよりも先に、再び口を口で塞がれている。相手の身体の重みをも受けとめながらのくちづけに、子渼は喘いだ。
「っ、ぁ……いきなり、なんの、つもりですか」
途切れ途切れの言葉とともに非難を込めて明暁を睨み上げたとき、自分のその行動を、子渼は後悔した。間近からこちらを見下ろしている男の眸の中に、情慾の
「わるい。
「こ、婚礼って……」
頬を染めつつ、逃げるように視線を逸らした。けれども、押さえ込まれた身体は動かない。明暁がこちらの耳許に口を寄せ、子渼、と、熱っぽく名を呼んだ。
「お前に、傍にいてほしいんだ。そうすれば、たとえ背負わねばならぬ重いものにつぶされそうになっても、俺は
「で、も……皇后って」
「はは、無茶だよな。悪い。だが他によい
「か、官吏にしてくれれば、いいじゃないですかっ」
「うん、
あまりにも真っ直ぐに言われて、子渼は息を詰めた。
かぁ、と、頬が熱くなる。
「あの日も……最初の日だが、そこまでする気などなかったのに、お前に陛下と呼ばれた瞬間に、ふいに
そう思わないか、と、言われ、子渼は耳が熱くなるのを感じる。
そういえば、皇帝そのひとである明暁の前で、そうとは知らぬまま、子渼はいかに皇帝を慕っているかを散々口にしていた。いま明暁が言う通り、事あるごとに、陛下、陛下、と、そう繰り返していたのだ。
それに思い至れば、たまらない羞恥と照れくささが込み上げた。耳朶まで熱い。穴があったら
「皇帝が官吏に手を出しては、さすがにまずいだろう? なあ、子渼」
そんな子渼の耳許に、明暁は息を吹き込むように囁きかける。こちらに同意を求めるとともに、そ、と、耳朶を甘噛みされて、その刺激に子渼はちいさくふるえた。
ずるい、と、おもう。
自分は刹那の邂逅で耳にした皇帝のたったひと声、ひと言を
そんな声を聴かされたら拒めるわけがない、と、思う。もう逃げられるわけがない、と、おもう。
子渼はきゅっと眉を顰め、くちびるを引き結んだ。
けれども、そんなものは単なる最後の意地でしかない。
だいたい明暁は子渼に圧し掛かってはいるけれども、決して強い力で無理にこちらを捕えているわけではないのだ。その声も、あくまでも請うようなそれでしかなく、なにも勅を以て命じ、強制しいるのでもなかった。
それでもいま逃げることができないでいるのは、これはもう、自ら逃げないでいるのとほとんど同じだ。
子渼はきっとどこかで、逃げたくないと思っている。
あるいは、逃げる気など、最初からない。
「陛、下……」
潤んだ眸で、相手を見詰めた。
相手は、ふ、と、目を眇めた。
「明暁でいい。――これからも、ふたりのときはそう呼ばれたい」
お前には、と、そう甘く囁いたくちびるが子渼のそれにまた重なったとき、子渼は相手に応えるように、伸ばした腕を明暁の背にまわしていた。