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5-4 再会

 皇帝陛下。


 この国の最高権力者。


 黄櫨染こうろぜん龍袍りゅうほうまとい、玉座につく、そのひと。


 それは子渼にとって、側に仕えたい、と、三年前から強く望んできた相手であった。


 一方で、そも、雲の上のひとでもあるのだ。たとえ子渼がこののち首尾よく官吏になったとして、それでも生涯ちかしく言葉を交わすことなど有り得ないのかもしれない、そんな相手ともいえた。


「明暁……」


 子渼は無意識に呟き、そしてそっと溜め息を吐いた。ちいさな吐息は、けれども、誰もいない邸宅の房間へやの静謐に、予想外に大きく響いた。


 いま子渼がいるのは、明暁の府宅やしき正堂おもやである。中央に据えられた卓には酒杯が置かれ、けれども子渼はそれに注ぐのではなく、酒瓶さかがめを持ってそこから直接に酒をあおっていた。


 行儀悪く呑んで、口許をぐいっと拭い、それから、はあ、と、息を吐く。


 そういえばはじめて明暁に出逢った時も、子渼はこんな呑み方をしていた。そのことを思い出すと、はあ、と、無意識にまた嘆息が漏れて、今度もまた意想外に響いたその音に、子渼ははっと我に返った。


 房間へやの隅にある荷に視線をやる。


 荷とはいっても袋がひとつ、もともとたいした量ではないそれは、子渼の故郷への帰り支度だ。多少の路銀と、それから通行証さえあれば、珞安らくあんからの帰途で困ることはないだろう。科挙に落第した子渼には、本来、もはや皇都に留まる理由もなかった。


 帰るのか、と、子渼は我がことながら改めて思い、またそっと嘆息した。


 令嬢誘拐の件が解決したあの日、明暁は子渼と共にこの府宅やしきに戻ることをしなかった。多くの侍衛に取り囲まれた彼が戻った先は、きっと、皇宮なのだろう。


 子渼のことは、羽林軍の士卒のひとりが、ここまで送り届けてくれた。


 その後、皇宮からの遣いがやってきて、この府宅やしきは自由に使って構わない旨を伝えてきた。そのまま使者は、資料の入った居間の行李こうりや、わずかばかりあった明暁の私物などを、黄老と共に片付けて持ち出していった。


 その老爺も――もともと皇帝である明暁の側に控える宦官かんがんであったらしい――そのまま皇宮へと戻って行ってしまった。


 だからいまや、ここは伽藍堂がらんどうだ。


 その空虚の中に身を置いていると、明暁との数日がまるで夢幻まぼろしだったかのように思われてくる。遠くかすんでいってしまう気がする。


 だからだろうか、好きに使えといわれたものの長居するきもちにはとてもなれなくて、結局、子渼は早々にここを引き払うことを決めた。


 明日の朝には都を発つつもりだ。


 子渼は懐から通行証を取り出すと、それにじっと視線を落とした。


 故郷へ戻って、また勉学に励む日々に戻る。そして三年後、再び科挙を受けようと思っている。


 だが、次回に及第できるかどうかはわからなかった。もし首尾よく出来たとして、それでも、皇帝たる明暁と再び声を交わす機会が巡ってくるのかどうかは、もっともっと、不確かだ。


 子渼は、きゅ、と、眉根を寄せる。


 あの日の別れが、今生こんじょうの別離――……そうだとすれば、人と人との縁の運命さだめとは、何と呆気なくも頼みないのか。


 けれども、そんなものなのかもしれないな、と、子渼は自嘲気味に思い、そしてまた酒瓶から自棄っぱちに酒を呷った。まさにその時だった。


「陛下の御到着ー」


 宦官だろうか、それとも侍衛だろうか、高々と宣する声に子渼ははっと息を呑んだ。


「えっと、えっと、ど、どうすれば……」


 慌てふためいた挙句、とりあえずは酒瓶を卓に置いて、その場にうずくまるように平伏した。


 扉が開いた。


 ちら、と、窺うと、ここにいたときよりも仕立ての良い袍を身に着けた黄老が、扉を押し開けて立っていた。


 老爺はやさしい眼差しで子渼を見ると、笑みを深め、ひとつ頷く。


「陛下がおいでです」


 穏やかな声がそう告げたと同時に、誰かが院子なかにわからきざはしを上ってくる気配があった。はっとして、子渼は再び深々と叩頭した。


 衣擦れの音が聴こえて、その人は房間へやへと入ってくる。叩頭して畏まったまま待つ子渼のすぐ前で、その足どりは止まった。


 目の端に、あまりにもきらびやかなにしきの袍の裾が見えた刹那、分かたれてしまった彼我ひがの世界を改めて思い知らされたようで、つきん、と、胸が痛んだ。


「楽に」


 皇帝は――明暁は――言ったが、子渼はやや頭を持ち上げたのみで、顔を上げることができない。皇帝への畏れ多さのためにというよりも、皇帝のなりをした相手を見たくないような、そんな奇妙な気分だった。


 もし目の当たりにしてしまえば、明暁と共にした時間がすべて、儚い夢のように雲散霧消してしまう気がして、怖い。


「なんだ、お前、また呑んだくれていたのか。懲りないな」


 顔を伏せたままの子渼の上で、ふ、と、ちいさくこぼされる笑み声が聴こえた。


 こちらをからかう口調の冗談かるくちの後、明暁は手を振って、なにやら黄老に向けて合図を送ったようだ。老爺は心得たもので、無言のまま房間へやの外へ出ると、しずかに扉を閉めた。


「もう誰の目もない。子渼、礼は良いから、顔を上げてくれ」


 名を呼んでまで請われたが、子渼はやはり相手の言う通りには出来なかった。


「と、とんでもございません」


 ちいさく言って、かえって再び額を床に擦り付ける。あるいは、自分は意地になっているのかもしれなかった。


 思えば相手にはずっと身分をいつわられて――すなわち、ある意味でだまされて――いたのだ。謝ってはもらったけれども、それでも、やっぱり改めて考えると腹が立った。


 憤りが湧いてきたら、顔なぞ上げてやるものか、と、そう思った。


 相手が根負けするまで、頭を下げ続けてやろうと思う。


 だってきっと、いま明暁を真正面から見たならば――……わけもわからず胸が詰まって、泣いてしまうかもしれない。


 子渼が頭を下げたままで、きゅ、と、くちびるを噛んでいると、ふう、と、今度は先程よりもやや長い嘆息がこぼされた。


「明日、珞安を発つのだと聴いた」


 自分を見ようとしない子渼に痺れを切らしたかのように、明暁はやがてそんなことを言った。


「はい」


 顔はあげないままで、子渼はごく短く応じる。


「それで慌てて来たんだ。間に合ってよかった」


 ゆっくりと息を吐き出すような声が頭上から落ちてきた。


 なるほど、短期間とはいえ苦労を共にした子渼を、わざわざ見送りに来てくれたということらしい。この国の最高権力者にそんな気遣いをしてもらえたというのは、この上なく有り難いことだろう。


 もう一度、会えた。


 けれども、今度こそこれが、ほんとうに今生の別れになるのかもしれない。


 官吏になれれば遠目から姿を拝することくらいはあるかもしれないが、表情がわかるほどの近くで顔を見られるのは、この機を逃せば、もう生涯ないのかもしれない。


 そう思ったら、たまらなくなった。


 やはりひと目でも相手を見ておきたいような、と、そんな衝動が胸に迫って、子渼は顔を上げかけた。


 だがそのとき、それでな、と、言葉を継いだ明暁が思わぬことを言った。


此度こたび、俺は皇后を迎えることにした」


「……は?」


 思わず呟き、反射的に顔を上げてしまって、それから子渼は柳眉をひそめる。


 なんだそれは、と、思った。

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