子渼は呆然としていた。
その間にも、明暁の命を受けた将帥が立ち上がって手を振り、
孫家・張家の令嬢二人が保護される。気を失って柱に拘束されている霰と、それからたったいま明暁が縛り上げた男とが、連行されていく。
それでもまだ、子渼は声もなかった――……いったい、どういうことなのだろうか。
「陛、下……?」
やがて、子渼に代わって声を上げたのは麗華だった。こちらも混乱の極みにあるらしく、その頬は引き
明暁はまたひとつ息を吐くと、そのまま改めて麗華のほうへと歩を進める。立ったままで、相手を冷ややかな眼差しで見下ろした。
「林麗華」
相手の名を、ぴしりと呼び棄てる。それからひとつ息を吸って、吐くと、彼は続けて張りのある声をあげた。
「
明暁の口調は、それまでとははっきりと変わっていた。その荘重な物言いに、麗華は目を瞠って息を呑んだ。
けれども、まだ驚きの最中に放り込まれたままでいるのは、子渼だって同様だ。先程、明暁は陛下と呼ばれて、それに応じてみせた。かつ、いままた彼は自称しもしたのだ――……聴き間違いでなければ、朕、と、そう己を称してみせた。
自らをそう称することが赦されるのは、この国で唯一、皇帝そのひとのみである。
「皇帝、陛下……明暁、が……?」
この状況だ、そう考えるよりほかはない。けれども
「でも……蘇、明暁って……」
彼ははっきりと子渼にそう名乗ったはずだ、と、そのことを思い出しつつ、誰に言うともなく疑問を口にする。
けれども、そこまで考えて、はたと思い至る。そういえば最初に明暁が姓を告げたとき、ほんの一拍だが、沈黙のつくる空白がなかったろうか。あれはもしかして、彼が偽りを口にしようとしたがためのそれだったのではないだろうか。
「蘇は、母の姓なんだ」
果たして明暁は極まり悪そうにそう言った。
「明暁は小字……
目を瞠る子渼のほうを見てそう教える彼は、いかにも気まずいといったふうに、ちらりと眉を顰めてみせている。
「陛下……」
子渼はそう呟いたきり、ただ、はたはた、と、目を瞬いた。それでも、ああそういえば今上帝の真名である暻とはたしか明るいという意味の一字だった、しかも音は〈きょう〉ではないか、と、そんなことをぼんやりと考えてもいた。
幼少期の呼称である小字には、真名と、意味または音において通じる一字を用いるのが通例である。明暁と暻。たとえば子渼がものすごく
そう思い、いいや、それは無理だ、と、子渼はすぐに思い直した。
皇族の小字など世間に漏れ聞こえてくることはおよそなく、だったら、よほどの直感でも働かない限り、蘇姓だと、名は明暁と、そう告げた彼の正体に子渼が気付くことなどは有り得なかった。
否、むしろ有り得ないとわかっていたからこそ、彼は敢えて子渼を前に、蘇明暁を名乗ったのだ。
きっと、何か大事にしたくない、あるいは出来ない事情でもあったのだろう。皇帝としてではなく、身分を隠し、忍んで動きたい、もしくは動かざるを得ない理由が、明暁には存在していたのだ。もしかすると彼がまだ年若く、即位浅く、確かな後ろだても持たないために
「皇帝陛下……」
子渼は今度はその事実を噛みしめるように呟いてみている。
でも、そう思えば、いくつも納得できることがあった。たとえば明暁が皇帝そのひとだったのだとすれば、彼が皇帝の玉佩を持っていたことも、それを一存で他者に手渡したことも、それから皇太后と親しかったことも――彼女は明暁の義母にあたるわけだ――すべて、頷けた。
何より、錦衣衛でありながらも彼が度々
「陛下」
じわじわと実感が湧く。ならば彼の前に畏まらなければならない、と、そう思うのに、子渼の身体はうまく動いてはくれなかった。ただ
相手はまた、ちらり、と、困ったように眉根を寄せた。
「黙っていて……悪かった。
まるで
相手はまた窺うような、
けれどもすぐに、ふと気を取り直したように、麗華のほうへと向き直った。
「林麗華」
明暁は張りのある凛とした声音で相手を呼ばわった。
「いまこの場所は、
厳しい声で、短く宣告する。それから、いくぞ、と、子渼を促して
「陛下……陛下!」
そのとき、それまで驚愕の表情で固まっていた麗華が叫ぶような声を上げた。必死に明暁に呼びかける。
「数々の御無礼、どうかお許しくださいませ、陛下。待って、どうか……どうかお待ちになってください。わ、わたくし、わたくしは、陛下をお慕いしておりますの。この気持ちはほんものですわ。ですから、どうか、わたくしのはなしを……」
聴いて、と、言いかけた麗華は、けれど振り返った明暁のひと睨みで口を噤んだ。
「申し述べたいことがあるなら、この後、大理寺の審理官に向かって存分に述べるがよい。官がそなたの言に理ありと判ずれば、むざむざと
明暁はそこで一度言葉を切り、ひとつ息をする。
「だが、覚えておけ。三年前、そして、此度も、そなたは
鋭く睨み据えられ、冷たく言い放たれて、麗華は息を呑む。
「皇帝が万民の父ならば、皇后は万民の母だ。皇帝の隣に並ぶ者は、皇帝と等しい目線で、民を慈しめねばならぬ。その、なによりも大事にすべき民を
その言葉を最後に、明暁は振り切るように歩き出す。
後ろではまだ麗華が、陛下、陛下、と、喚き続ける声が聴こえていたし、子渼はそちらをちらりと一度だけ振り向いた。が、明暁が再び麗華の声に耳を傾けることはなかった。
*
明暁と共に廟堂を後にした子渼が、外に出て視線をめぐらせると、土塀に囲まれた廟の
「陛下」
堂内から現れた明暁の姿を見とめると、兵卒たちがその場で次々に膝を折った。誰もが
「陛下。後は我々が鎮圧いたしますゆえ、陛下はどうぞ皇宮へお戻りを」
堂内へ踏み込んできた先程の将帥が、再び明暁の前へ進み出て言った。
「わかった」
明暁は将の言葉に短く頷き、その後で隣の子渼を見る。
「子渼」
こちらの名を呼び、それから、何か言いたそうにした。けれども躊躇うように言い倦んだ挙句、結局は何も言わず、いったん口を噤む。鳶色の眸が迷うように揺れていたが、やがて自分に
「此度のそなたの働きに感謝する」
その後で告げられたのは、重々しい口調での――いかにも皇帝としての――言葉だった。
自分にかけられたその言葉を受けとめた瞬間、それまでどこか呆然自失としていた子渼は、はっと我に返った。弾かれたようにその場に
「も、勿体ないお言葉に、ございます」
そう口にしつつ、けれども、皇帝その人から称賛の言葉をもらったのだという高揚は、子渼の中には存在しはしなかった。むしろ胸の奥に隙間風が抜けたような、さびしいような、たのみないような、そんな気持ちになっていた。
目の前にいるのは明暁だ。けれども、皇帝陛下だ。
本来なら、憧れの国主に
子渼は顔を上げることも出来ない。だって相手はこの大濤国の皇帝なのだから、と、そう改めてそう思ったとき、いまほんの二歩ほどの彼我の距離が、まるで永遠と思えるほど遠くなったように感じられ、きゅう、と、胸が詰まった。
「黙っていて……悪かった」
最後に明暁が――今度は威儀を整えた言い方とはちがって――心底申し訳なさそうに言うのもわかったが、子渼はどうしていいかもわからず、ただその場に