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5-2 龍旗の軍

 明暁に低い声で迫られた麗華は、けれども、ふふ、と、けれども場違いに艶やかな笑みを見せた。


「なあに? あなただって錦衣衛なら、知っているでしょう? 三年前の爆発事件……陛下の行幸の折の。あれは千載一遇の好機だったのです」


「好機、とは……?」


 子渼はいっそ真相など知りたくないと思いながら、恐る恐る麗華に問う。あら、と、麗華は可愛らしく小首を傾げた。


「そんなの決まっているじゃないの。わたくしが陛下と親しくなるための好機よ」


 何をわかりきったことを、と、嘲るような調子で言葉を継ぐ。


「陛下は皇子でいらした頃もあまり皇宮の外へはお出ましにはならなかったし、陛下におなりになったら、ますますお出にはなりにくくなるでしょう? そうしたら、わたくしが陛下にお目にかかる機会なんか、なかなかないわ。わたくしがどれだけ陛下をお慕い申し上げているか、伝えることができない。そんなのいやだったの。だってわたくしは、こんなにも陛下に恋焦がれているのですもの。陛下への想いに身を焦がしているわたくしのことを、陛下に、ぜひとも知っていただきたかったのですわ」


「……それで、なにをしたというのだ?」


 明暁は拳をきつく握り締め、麗華に先を促す。


「わたくしの家は医を生業なりわいにしていますから、誰かが怪我をして、それを献身的に介抱するわたくしの姿を見ていただけたらって……それで、陛下の行幸の折に、手下に命じて火薬入りの竹筒を投げさせたの」


 麗華が事の重大さなどまるでわかっていなさげに言った刹那、子渼は目の前が真っ赤に染まった気がした。烈しく燃え立った怒りのためだ。


「あ、なたは、なんということを……!」


 荒い息を吐きながら麗華を責める。


 隣では明暁が――あの三年前の事件で友を失い、いまなおその傷を抱え続ける彼が――言葉もなく、小刻みに震えていた。憤りと、悲しみと、やるせなさと、そうしたものがい交ぜになったような明暁の複雑な感情が、空気を伝わって、子渼にも感じ取れる。


 それでも麗華は、そうしたことの一切をまるで意に介してはいなかった。


「もちろん、大切な陛下にお怪我をさせるつもりなんかなかったのよ。だってわたくしは陛下を愛しているのですもの。だから、陛下の御付の誰かか、まわりに集まった下々の民か、そんな人たちを標的にさせたつもりだったの。ちょっとした破裂程度で済ませるはずだったのに……どこかで命令に行き違いがあったのね、あんな騒ぎになってしまって。わたくし、怖くなってその場から逃げてしまって……陛下にわたくしの医のわざを見ていただく計画は失敗したわ」


「っ、あのとき……陛下の侍衛がおひとり、尊い命を失くされています!」


 あまりにもあっけらかんとした麗華の様子に、子渼は我慢ならずに再び声を荒げて叫んだ。


「そうね。運が悪かったのね」


 それでも麗華は、こと、と、小首を傾げるだけだ。


「他にもたくさんの者が怪我を負いました!」


 怪我をした者の中には、あるいは子渼のように、その怪我のためにその後の人生が大きく変えられた人間もいるかもしれない。あるいは兄を亡くしたこく唯基ゆいきのように、以来、ぶつけどころのない恨みを抱え、苦しまざるを得なくなった者だって存在する。


 明暁もまた、あの事件のことをいまなお深い心の傷として抱えていた。だからこそ、もしも黒幕がいるなら必ず我が手で捕えよう、と、今度の貢院の小火ぼやの案件についても真剣に調査に当たっていたのだ。


 それに、と、子渼は眉を寄せた。


「陛下もまた……いまなお、あの事件のことを、傷として抱えていらっしゃる」


 明暁をこの案件に当てた皇帝もまた事件を忘れられずにいる一人だ、と、子渼が言うと、その瞬間、麗華は、ぎりり、と、憎らしげに子渼をめつけた。


「あなたに陛下のなにがわかるというの!? わたくしの前で陛下のことを気安く語らないで!」


 そう罵られた瞬間、子渼は腹の底から熱いものが込み上げてくるのを感じた。


「あなたこそ……あなたに陛下の何がわかっているというんですかっ!」


 声を荒らげて叫ぶ。


「私は陛下を直接は存じあげない。でも、すくなくともいまのあなたよりは、陛下のお気持ちはわかりますよ……!」


 言い切って、ぜい、と、ひとつ肩で息をする。子渼は麗華の視線に劣らずの鋭い視線を、真っ直ぐに相手に向けた。


「あなたはいったい、自分が何をしたか、わかっておられますか。陛下は万民の父、その陛下の民を害するは、陛下のお身体をぐのに等しい行為なのですよ。何よりも、陛下を傷ませる行為だ。なのに、そんなこともわからず、ただ己の願望を叶えるために民を無造作に傷つけ、あまつさえ、悔いもしない……そんなあなたに、陛下を慕っているなどと言う資格はありません! あるはずがないっ!」


「なっ……あなたにそんなことを言われる筋合いこそ、ないわ! わたくしはこの世の誰よりも陛下を愛しているの! わたくしの想いが、誰のものよりも強いわ!」


「愛? 陛下への? はっ、笑わせないでくださいよ。あなたのそれは単なる我執ではありませんか。だって……だって、もし、己への恋心を暴走させたものがそのために民を傷つけただなどと、お優しい陛下がお知りになったら……きっと、ひどく心をお痛めになります。そんなことは、すこし考えればわかるというのに……陛下を愛する者であれば、陛下を悲しませるようなそんなことを、するわけがありません」


 だから愛などと軽々しく言ってくれるな、と、子渼は己の中で逆巻く烈しい怒りに任せて言い放った。感情が昂るあまり、泣きそうにさえなっている。


「子渼」


 明暁が立ち上がり、憤りのために細かくふるえる子渼の身体を引き寄せた。やさしく抱き締め、頭を引き寄せて肩口に顔を埋めさせて、なだめるように背を撫でてくれる。


「ごめんなさい、私……差し出がましい口を」


 錦衣衛として皇帝とも面識があるだろう明暁を差し置いて熱弁してしまったことを、子渼は詫びる。けれども明暁は、いや、と、ちいさく首を振った。


 子渼を見るそのとび色の目が、なんだかまぶしいものでも見るように、わずかに細められている。口許が、はにかむように、すこしだけ笑んでいる。


「……ありがとう」


 明暁は子渼の背に回している腕にすこしだけ力を籠めると、しずかに言った。


 相手の言の意味を取りかねて、子渼ははたりと瞬きをする。何か礼を言われるようなことがあったろうか、と、子渼が明暁の意図を確かめようとしたそのとき、突如、廟堂の扉のほうから誰かがまろび込んできた。


「お嬢! さん!」


 叫ぶように言いながら這入はいってきたのは、おそらくは霰の手下なのだろう、いかにも荒くれ者といった風体の男だった。


「龍旗を掲げた軍が外に……」


 言ってから、けれども男は、自分の頭目たちがすでにふたりとも拘束されているのを目の当たりにして戸惑うふうだ。


 その隙をついて動いたのは明暁だった。子渼から手を離し、身を低く構えると、堂内へ飛び込んできた男の腕を掴みあげ、男の身体を軽々と投げ飛ばす。床にうつぶせに抑え込むと、腕をひねりあげ、そのまま相手の動きを封じてしまった。


 ぐう、と、低く呻く男を手早く縛り上げ、明暁は立ち上がる。


 その間、麗華は呆然とした表情をしていた。


「龍、旗……禁軍? でも、どうして……陛下直属の軍が、動いたりするの?」


 そう言ってから、明暁を見上げる。


「禁軍なんて……あなたみたいな、たかだか錦衣衛ひとりが動かせるものじゃ、ないでしょう。なのに、どうして……」


 ぶつぶつと呟く麗華のほうへと、明暁がおもむろに一歩踏み出した、まさにそのときだった。


「――陛下!」


 扉のほうから、甲冑かっちゅうまとった数人の士卒がなだれ込んでくる。先頭に立って入ってくるのは、おそらくは将なのだろう、立派ななりの青年だった。


 陛下、と、その将帥しょうすいが口にした信じ難い言葉の意味を、けれども子渼が問ういとまなどはなかった。


 青年は、あろうことか明暁の前まで進み出ると、一片の躊躇ためらいもなく、すっと膝を折ったのだ。後に続いている兵卒たちも、みな、めいめいにそれにならった。


「陛下、御無事で?」


 将たる青年がいったん伏せた顔をやや上げて問う。


 子渼は混乱した。陛下とはいったいどういうこと、と、声もなく、ただ目を瞠ってまじまじと明暁を見詰める。


 明暁は、ふう、と、ひとつ息を吐いた。


「大事ない。――後の差配は任せる」


「御意」


 このやりとりにもまた、子渼は息を呑む。いったいなにがどうなっているのだ、と、もはや問うことすらも忘れて、ただ莫迦ばかみたいにぽかんとしていた。

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