「しばらくつき合ってもらうぜ」
子渼を立ち上がらせ、腕で身体の動きを封じた
男はどうやら子渼を人質にしてこの場から逃走するつもりでいるようだ。外が騒がしくなっているということは、おそらく明暁が配下を従えて到着しているのだろう。出来れば彼に迷惑をかけたくはないが、と、そう思ったが、いまのところ子渼に打てる手はなかった。
いっそ自害でもして果てたほうが邪魔にならないのかもしれないが、身を拘束され、
たとえば子渼が勝手に死んだりしたら、きっと明暁は怒るだろう。そして、怒る以上に、悲しむのだろう。引き摺るのだろう。国官を目指した時点で国のために身命を
どうする、と、子渼は思案し、隙はないか、と、己を捕らえる男を窺った。
「――子渼っ!」
そのとき、勢いよく扉が蹴り開けられた。
子渼がはっとそちらを見ると、剣を片手に提げた明暁が廟堂の中に乗り込んでくる。
「ん、んーっ」
子渼は口を塞がれたまま、声にならない声を上げる。
「うるさい」
霰が子渼を締め上げ、短剣の先端を子渼の首に押し付けた。ちりり、と、熱さのような痛みが首筋の膚を焼く。
「動くな! こいつの命はないぞ!」
子渼に刃を突き付けながら男は
剣の柄を握り直し、体勢を低く構えて、霰との間合いをはかっている。
子渼は必死で首を振った。自分のことは気にしなくていい、と、そういう意思表示だった。
それとともに、とんとん、と、足踏みをする。気づいた明暁の視線が子渼の足もとの床に落ちた。
その刹那、相手ははっと顔を上げた。どうやら子渼が伝えようとしたことに気がついてくれたらしい。こちらを見詰める
霰は自分たちの目配せには気づいていないようだ。ならば一瞬でも隙さえつくれれば後はきっと明暁がなんとかしてくれるだろう、と、子渼は己を羽交い締めにしている相手の様子を再び慎重に窺った。
霰はじりじりと明暁と睨み合っているぶん、子渼への注意はやや疎かになっている。更に、立たされているから、子渼の足は比較的自由だった。
子渼は明暁にむけて、はたはた、と、瞬きした。合図を受けた明暁が体勢をやや下げて身構えた瞬間、そのまま、霰の足の甲を、がん、と、思い切り踏んでやった。
「ッ、死にてぇのかお前!」
怒った男が子渼の身体を柱へと乱暴に押しつける。
「きゃあ!」
けれどもその悲鳴を上げたのは子渼ではなく、別の柱に縛られている
子渼のつくったいまの一瞬の隙を利用して、明暁が動いたのだ。彼は麗華の目の顔の前に、携えている長剣の剣鋒を突きつけていた。
霰がはっと麗華のほうを向く。子渼を拘束する力がすこしゆるんで、子渼は、ほ、と、息を吐いた。
「武器を捨てろ。さもなくばお前の主が死ぬぞ」
明暁は霰に向かって、そう反対に脅しをかけた。今度、ぐ、と、奥歯を噛んで動きをとめたのは霰のほうだ。
「どう、して……」
麗華が細い眉を
「わたくしは、そこの男に
哀れな少女の表情で大きな眸を潤ませて明暁を見詰めるが、明暁はただ一言、黙れ、と、冷たく吐き捨てた。
「子渼が教えてくれた。黒幕はお前だとな」
「……は?」
「床に血でそう書いてある」
「え……?」
麗華が弾かれたように子渼の足もとを見た。だが、わけがわからぬというふうに、顔を
明暁だから、わかった。子渼の書き付けを読もうと努めてくれた彼だからこそ、子渼の意は伝わったのだ。
先程、麗華と霰とが子渼を始末するという話をし始めたとき、真相が闇に葬られぬよう、子渼は懸命に血文字を綴っていた。かつて頭に負った怪我のため、常人には読めないような歪んだ形の字しか書けない子渼だが、それが今回はいっそ好都合だった。
告発を受ける下手人たちは、まさかそれが字だとは思わないだろう。あるいはたとえ文字だと認識したとしても、書かれている字形の判別までには至らないだろう。そう思って、麗華が犯人だと床に書いた。
たとえ
明暁が意地を張って夜を徹して目を通してくれていた子渼の書き付けには、間違いなく、林麗華という
子渼の読みは当たった。
過たず麗華に剣を向ける明暁の姿を見ながら、伝わってよかった、と、ほっと息を吐いた。
「その者を解放しろ」
明暁は視線を鋭くし、子渼を捕らえたままの霰に低い声で迫った。明暁の手にある剣の先端は、鈍く輝いて、いま真っ直ぐに麗華のほうに据えられている。霰は判断に困るようだ。互いに動かず――あるいは、動けず――じりじりとした時が過ぎていった。
見合う両者の間の空気が、ぴりり、と、張り詰めている。
「っ、
緊迫を破ったのは、苛立つかのような麗華の声だった。弾かれたように霰が動き、子渼に向けて短剣を振り下ろした。
けれども明暁のほうがわずかに速い。素早く
次には拳を振り上げて殴りかかってきた霰の
霰が失神する。明暁はひとつ鋭く息を吐いて呼吸を整えると、そのまま手早く男の身体を柱に括り付けた。
「子渼」
目下の危機を回避し終えた明暁が、子渼の傍へ駆け寄ってくる。霰から解放された子渼はその場にそのままへたり込んでいたが、明暁は屈むと、まず真っ先にきつく子渼の身体を抱きしめた。
「大事ないか」
猿轡をはずし、こちらの無事を確かめるように顔を覗き込んでくる。無残に
「あなた……強かったんですね」
子渼は目を瞬きながら、つい、そんなことを呟いていた。
もしかして、子渼の小細工などなくとも、明暁はこの場を制圧できたのではないだろうか。そんなことを思いながら、子渼が、ほう、と、感嘆の息を吐くと、場違いな感想を呟くこちらの
もう一度、子渼をそっと抱きしめる。
「無事のようだな」
耳許に、ほう、と、相手の安堵の吐息が聴こえた。子渼は明暁の背に腕をまわして抱擁に応えると、はい、と、微笑しながら穏やかな口調で答えた。
「大丈夫です。また助けていただいて、ありがとうございました」
「いや……そもそも、危険を承知でお前に囮を頼んだのはこちらだ。命を懸けさせずにすんで、よかった」
「ふふ、大袈裟ですね」
「笑い事ではないぞ。
「すみません。っていうか、今回に関しては私、別に相手を挑発したりしてないと思いますけどね」
くすくす、と、子渼は笑い、どうだか、と、明暁は呆れた嘆息をこぼした。
しばらく子渼を抱き締めていた明暁だったが、やがて思い切るような吐息をひとつ、腕をほどいて立ち上がった。そのまま、林麗華の前まで移動する。
「それで……結局、この娘が黒幕なんだな。どういうことだ?」
自分も立って、明暁の隣に並んだ子渼は、複雑な思いで麗華を見た。
「麗華さまは陛下に想いを懸けておられて……それで、ご自分が皇后になるためにと、悪事を企んだようです。私の媚薬の件も、彼女の仕業だと……機を見て皇帝陛下に盛ろうとしていたと言っていました」
麗華が白状したことのあらましを、子渼は明暁に伝える。
なるほどな、と、明暁は頷いた。
「嘘よ! その者が言っているのは、すべてでたらめ! わたくしを
麗華は叫んで、き、と、子渼を睨んだ。
何ということを言うのだ、と、子渼はむっとして、それこそでたらめだ、私はほんとうのことを言っているのに、と、そう明暁に訴えようと隣の相手を見る。
が、子渼が言葉を尽くす必要などはなかった。明暁は惑わされる素振りなど
「理由がない。それに、そも、子渼はそんなことをする者ではない」
きっぱりと言い切ってくれる声を聴いて、子渼は自然と頬がゆるむのを自覚した。
「なにをにやにやしている」
明暁が、ちら、と、こちらに横目をくれて不快そうに眉を寄せたが、いいえ別に、と、子渼は笑ったままで首を振った。
「あなた私に、刹那の邂逅でよくもそこまで陛下を慕えるものだとか言いましたけど、でもあなただって出逢って間もない私をそこまで信じてくれるんだなって思っただけです」
子渼が、ふふ、と、笑みながら言うと、相手はますます眉間に皺を寄せた。
「また陛下か」
明暁がそう言った瞬間、子渼はふと、なんともやるせない気分に襲われていた。そういえば麗華の動機もまた皇帝なのだ、と、そのことを思ったからだ。
しずかに麗華を見る。彼女は繰り返し繰り返し皇帝を慕っているのだと言っていたが、子渼もまた、三年前の事件の際の邂逅以来、今上皇帝を慕い、側近くに仕えることがかなえばよい、と、常々からそう願っている者のひとりだった。麗華のことを、同じく皇帝に想いを寄せる同志とさえ思ったのに、と、切なく眉を寄せた。
「麗華さま……いったいなぜ、こんな愚かなことを」
慕う相手に近付きたい、と、その想いはきっと誰に責められるものでもない。けれども、それは己の努力によってかなえるべきものであって、決して、他人を排除し、あるいは思う相手に薬を盛るような悪事に手を染めて、成就させるべきものであるはずがなかった。
そこへ躊躇いなく踏み込む麗華のやり方は明らかに常軌を逸しているし、そんな方法を選んでしまった彼女が、子渼にはなんともつらかった。
「その目は……何ですの」
子渼が麗華を見ていると、彼女は憎々しげにこちらを睨み据えてくる。
「わたくしは陛下をお慕いしているの。誰よりも愛しているのよ。そのわたくしが陛下のお傍へ参るための、お妃にしていただくための計画を台無しにしておいて……あと、すこしだったのに。三年前は失敗したけれど、今度こそうまくいくと思ったのに……わたくしはいずれ陛下の皇后になる者なのよ。それを、たかが書生、たかが錦衣衛の分際で……わたくしの邪魔をしないでよ!」
麗華は狂気に眸を
「待て……そなたいま、三年前と言ったか」
そのとき、麗華の言葉を聴き咎めて、呟くように言ったのは明暁だ。
「三年前とは、どういうことだ。――話せ」
厳しい顔つきをして屈むと、麗華を真正面から睨み据えた。