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4-6 身勝手な言い分

 どうやらさんというのが男の通称であるらしい。ふたりの遣り取りを見ていても、麗華れいかとこの霰という男とに面識があること、そしてまた、麗華が主であり霰が従の立場にあることは、子渼の目にも明らかだった。


 令嬢失踪の件に関して、その黒幕は林麗華だったのだ。


 この状況からは、そう判断せざるを得なかった。子渼は、き、と、相手をきつく見据えた。


「化粧でうまく化けてるが……お前、もしかしてあの日の書生だな?」


 霰は子渼の顎をぐっと掴むと、そう問うてきた。どうやら目の前にいるのが、数日前に自分たちが媚薬を盛った相手と同じであることにも気がついたらしかった。ごそごそとふところを探ると、そこから取り出してみせたのは、折り畳まれた証書らしきものである。


「ほら、この前、お嬢の言いつけで媚薬の実験台にするつもりが、逃げられたやつ……この通行証の」


 男が書面を示しつつ、麗華にそう言う。子渼の通行証は――いつか明暁が予想した通り――この男の手元にあったらしい。が、それをのぞき込み、おそらくはそこに記された姓名を目にしたのだろう麗華が、あら、と、声を上げた。


「柳子渼って……錦衣衛の遣いとかで、わたくしを訪ねてきた方ね」


「そうなのか?」


「ええ。わたくしが媚薬の件であなたと接触しているところに、この方、割り込んでいらしたでしょ。あの次の日、危ない目に遭う心当たりはないかって、訊きにいらしたの。あなたたちに孫氏と張氏をさらわせた後だったし、わたくが次の標的なんじゃないかって思ったのでしょうね。――ふふ、探花たんかえんに招待された、つまり陛下のおきさきさま候補が危ないんだって、その目の付け所は正解だったわ。ただ、わたくしは、狙われるほうではなくて、狙うほうだったのね」


 さらり、と、そう言って、麗華は妖しく微笑んだ。


「どうして……それに、媚薬の件って……?」


 子渼は真っ直ぐに麗華を見る。


「あら、以前まえにあなたにお会いしたとき、言わなかったかしら? 陛下に嫁ぐためなら、わたくし、なんでもするつもりだって」


 そう言って目を細める麗華は、どこか恍惚とした表情をしていた。


 そのいっそあでやかな笑顔に、子渼はぞっと背筋を凍り付かせる。


 確かに麗華は、子渼に向かって、そうした発言をしていた。だが子渼は、そのときの言を、皇帝の妃にふさわしい者になるための努力を怠らないという意味であると――教養を身に付けたり、美しさを磨いたりといったことに努めるつもりであるという宣言だと――そう受け取っていたのだ。


 だが、事実は、そうではなかったらしい。


 林麗華は大胆にも、子渼の前で言い放っていたわけである――……手段を選ばず、悪事に手を染めてでも、皇后の座を得るつもりだ、と。あれはまさにそういう宣言だったのだ。


「わたくしね、今度の探花宴に勝負をかけようと思っているの。宴の席では、陛下のお傍近くへ参る機会がきっとあるわ。そのとき、陛下のお召しになるものに薬をまぜて、効きはじめる頃にふたりになるの。そして……陛下がもしわたくしに手をお付けになったら、それがたとえ事故だとしても、わたくしをそのままにはなさらないわ。だって、陛下はおやさしいですもの。それに、もともとわたくしは妃候補なのですから、伴侶を、わたくしにお決めになるはずよ」


 そう思わないかしら、と、麗華はとろりと笑んだ。


 子渼は何も答えず、ただ信じ難い思いで相手をまじまじと見据える。


 そういえば、林家は医家だ。ならば、媚薬の類だって、手に入れるのにそう難儀はしないのだろう。そして、恐ろしいことに麗華は――肉体関係という既成事実をつくるために――それを皇帝に対して使おうと考えていたらしい。


 男たちに絡まれたあの日、もしかしたら子渼は、男の身体にその薬がどう作用するのか、その実験台にされかけていたということなのかもしれなかった。


 ぞっとする。膚が粟立つ。


 目の前の愛らしい少女の思考回路は子渼にはおよそ理解不能で、それゆえに得体のしれないものに対する怖気のようなものが、子渼の背筋を冷たくした。


「わたくし以外の、陛下にお目通りする予定の女たちは、邪魔だわ」


 子渼の思いも知らず、麗華は笑いながら続けた。


「だから、宴が終わるまでどこかに消えていていただこうと思って、攫わせたの」


 令嬢を誘拐させたのも己だ、と、少女はぺろりと白状する。それもまた、まるで罪悪感があるふうには見えず、そのことがかえって、愛らしい人形のような見目の彼女を、恐ろしい化け物、怪物のように見せていた。


「わたくしだけが難を逃れたら怪しまれるかもしれないから、いまは一度、捕まっている最中なのよ。しばらくしたら、かろうじて逃げ出したということにして……ぞくの手から必死で逃れてきたわたくし、怖い目にあったわたくしに、陛下はきっと、ご同情くださるのではないかしら? ――ああ、心配しなくとも、孫氏と張氏のことは、計画のことを知られない限り、別に害するつもりはないわ。宴が終わって、わたくしが陛下と結ばれたら、解放するつもり」


 麗華が語るのは、およそ杜撰ずさんで、幼稚な計画だ。けれども、それだけに、緻密なそれよりもかえって暴力的に思えた。


「あなたは……」


 子渼は呟く。


「あなたは、おかしい」


 ぜい、と、肩で息をするように言ったのはそんな言葉だったが、それ以外のうまい表現が、子渼には見つけることができなかった。


 己の願望を叶えるために他者を害することを躊躇ためらわない人間の心情など、もとより、理解できようはずもない。したいとも思わない。


 だが対する林麗華は、あら、と、可愛らしく小首を傾げた。


「おかしいって、どうしてかしら? わたしくは陛下をお慕いしているのよ。お傍に参るためなら、なんだってするわ。健気でこそあれ、それのどこがおかしいっていうの?」


「健気って……」


 そんなわけがなかった。いっそ、いきどおろしくさえなってくる。


「あなたは本当に……それでも、陛下をお慕いしているといえるとでも……?」


 子渼は眉を寄せ、喉の奥から絞り出すように言う。すると途端に、ぱん、と、音を立てて頬を叩かれた。


「失礼ね……何様のつもりなのよ。わたくしより陛下を愛している者など、この世にいないわ。だから、わたくしこそが陛下に愛されるべきなのに」


 なんにもわからないのね、と、麗華は不快そうに細い眉を顰め、眸に怒りをたぎらせた。


「あなたにはわからないだけ……わたくしが、どれだけ陛下を想っているか」


 麗華は言う。


「こんなことをする者を、陛下がお許しになるとでも?!」


 子渼は麗華を睨み据え、思わず叫ぶように言った。


 それに麗華がかっと眸を見開いて反論しかけた、まさにそのときだ。ふいに、廟堂の扉の向こうで、なにやらざわざわと音が聴こえ出した。


 数多あまた交錯する足音のように思われる。すぐに麗華も気がついたらしかった。


「外が騒がしいわね」


「こいつの仲間が来たんじゃないか」


 霰が顎をしゃくって子渼を差しながら言う。


「そうか……そうよね。あなたは男で、皇后候補でもなんでもないのだもの。おとりだったてわけね。――誰か、ここへ乗り込んでくるの?」


「あの錦衣衛だろう。この前も口を挟んできた」


「ああ、あの人。でも、困ったわ。この場へ乗り込まれたら、わたくし、捕まってしまうじゃない。そうしたら、陛下のお妃になれないわ」


 麗華は形の整った眉根を困惑げに寄せる。


「お嬢は被害者のふりでもすりゃあいい。こいつは俺が人質にして、逃げ切ったら口封じに始末する。錦衣衛の数人相手なら、俺らはどうとでも逃げられるさ」


「そう? そうね……どのみちこの人には話しすぎてしまったし、生かしてはおけないし、仕方がないわね」


 その言葉を聴いて、子渼ははっとしてもがいた。柱に括りつけられた身体は、ほとんど自由が効かない。思うように動けない中、必死で、身をよじる。手を柱に擦りつける。


「ちっ、暴れんな。そんなんでほどけやしねぇよ。怪我するだけだぜ」


 男が笑う。子渼は手にはしった痛みを意識した。ほれみたことか、と、あざけるような表情をする相手を眉をしかめつつ睨み、必死で指を床に這わせる。


「お嬢、じゃあ、いったん縛るぜ」


 男は麗華を攫われてきた者のひとりに見せるべく、近くの柱に縛り付けた。それから再び子渼のほうへと近づいてきた。


「なら俺は、こいつを人質にでもして逃げるからな」


 霰は子渼の腰の帯を解き、それをさるぐつわのように噛ませてくる。それからこちらを柱に縛り付けている縄を短剣でぶつりと断ち切ると、子渼を立ち上がらせ、太い腕で後ろから身体を抱え込むように拘束した。


「なんだ、悪あがきか? 床に血なんかねじくって」


 そのとき霰が一瞬、子渼の指がつけた後を見た。が、相手はすぐに、それに対する興味をなくしたようだ。


 首に短剣の切っ先を突き付けられながらも、子渼はそのことに、内心で、ほ、と、息を吐いた。


 明暁、と、心の中でその名を呼ぶ。気付いてくださいね、と、ぎゅっと目を瞑って祈った。

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