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4-4 黒幕の登場

「明、暁……」


 子渼は呆然とつぶやいた。


 乱暴に扉を開け放って堂室へやへと乗り込んで来たのは、怒りも顕わな表情をした明暁である。彼は、子渼の姿を、ちら、と、一瞥するや、目を細めて余裕の笑みを浮かべる皇太后を睨みつけた。


「彩蘭、お前……! あの話なら俺は却下したぞ。それを、子渼を無理矢理連れ去るなど、いったい何を考えている!?」


 声を荒らげて詰問する。


 どうやら明暁は、子渼が馬車に押し込まれた後――おそらくは黄老がそのことを明暁に伝えたのだろう――慌ててここまで飛んできてくれたものと思われた。


 それにしても、皇太后に対するいまの口のききかたにしても、彼女が子渼を連れて向かうだろう行き先――この酒楼――を知っていたらしいことから見ても、明暁と彩蘭とは、皇太后といち錦衣衛という関係を越えた親しい間柄のようだ。ほんとうに、いったいこの人は何者なんだ、と、子渼が目を瞬くうちに明暁はつかつかと子渼と彩蘭のいる卓のほうまで歩み寄って来た。


 ぐい、と、子渼の腕を引く。


「帰るぞ」


「で、でも、明暁」


 子渼は、ちら、と、彩蘭を窺った。


 いま、彼女の提案するおとり役を、子渼は買って出たばかりのところだ。明暁に手を引かれるまま退出するのも躊躇ためらわれて、子渼は立ち上がったものの、その場から動くことができなかった。


「まあ待て、明暁」


 そこへ彩蘭が溜め息を吐きつつそう声をかけてくる。


「なんだ」


 応じる明暁の声は低く、またぎろりと鋭い視線を彩蘭に向けた。


「そう睨むな。――そこの者、柳子渼だったか、囮をやってくれるそうじゃぞ。当の本人がうべなっておるというに、それでも駄目かえ? ん?」


「駄目に決まっている。危険だろうが」


「危険などわらわとて百も承知。じゃが、解決を急ぐなら、囮を立てるはひとつの有効な手段てだてとは思うがの。明暁、そなたとて御令嬢方をこのまま放っておくつもりはないのだろう?」


「それはそうだが、それとこれとは話が別だ。俺ひとりで何とかする。子渼を巻き込むつもりはない」


 最後に彩蘭をひと睨みしてきっぱりと言うと、明暁はまた子渼の手を強く引いた。


「待ってください、明暁」


 しかし、子渼はそこで声を上げた。


 明暁に手を引かれて立ち上がりはしたものの、まだその場に立ち尽くしたままで動かず、じっと明暁の顔を見上げる。


「私、手伝います。多少の危険くらい、かまいません。だって、もし御令嬢方がどこかにとらわれているとしたら、彼女たちはきっと、ずっと怖い想いをされているはずです。一刻も早く、救い出して差し上げねば……それに、私個人としても、麗華さまのことが心配ですし」


「林麗華か……まさか惚れたのか」


 明暁がどこか不愉快そうに言う。


「は? え? い、いえ、ぜんぜん、そんなのではありませんが……!」


 邪推だ、と、子渼は首を振った。


「彼女とは、共に陛下をお慕いする同志として、通じるものを感じておりまして」


 林家で話を聴いたとき、麗華が皇帝を恋い慕う気持ちに心打たれ、勝手に親しみを覚えたのだ。その麗華が災難に遭っているというのなら、子渼はなんとかしてやりたいと思った。それだけのことだった。


「お願いです、明暁。協力させてください。お世話になったあなたのお役にも立ちたいですし」


「駄目だ」


「でも、明暁」


「黙れ! 俺のためにお前を犠牲にはできないと言ってるんだ!」


 きつい口調で言われたその瞬間、子渼はいらっとした。


「はあ?!」


 思わず声を荒らげている。


「誰があなたのためですか! いえ、あなたのためもありますけれども、あなたのための犠牲ということは、それは引いては、あなたの主である陛下の御為の犠牲……だったら、私には悔いはありませんよ」


 子渼が言うと、ふと、明暁は掴んでいた子渼の手首を離した。こちらをじっと見て、ぜい、と、苦しげな呼吸をひとつ、どうしてか切なげな――まるで泣き出す寸前の、迷子の幼子のような――表情を見せた。


「っ、皇帝のために……お前は、死ねるというのか」


 絞り出すように言ったのはそんな言葉だ。


「死ねますよ。当然でしょう」


 子渼は明暁を見上げ、何を今更、と、そういう思いを込めて、さらりと、そして、きっぱりと言った。


「だって私は、まがりなりにも国官を目指す者なのですよ。陛下の御為、国のため、喜んでこの命を差し出します。大濤だいとう国の国益のために犠牲になることなど、うに覚悟の上。そうでなければ科挙になど挑みませんよ。舐めないでください」


 子渼は腰に手を当て、やや胸を反らせて言った。


 けれども、明暁は黙ったままで何の反応もしない。ただただ眉をしかめている相手の手を、だから子渼はそっと取った。


「ねえ、明暁。ひとりで出来ることなんて、たかが知れていると思いませんか?」


 そ、と、溜め息を吐くように言う。


「ほら、たとえば皇帝陛下だって、ひとりの人間ひとである以上、背負えるもの、抱えられるものは、多くはない。だからこそ、陛下をお支えする数多あまたの臣下があり、彼らと共に国をお治めになるわけでしょう? だったら、あなただって、ひとりでなんとかするなんて莫迦ばかげた戯言たわごといっていないで、私に手伝わせてくださいよ。ひとりよりもふたりのほうが、出来ることが多いでしょう? たったそれだけのことなのに、なにを、そんなに、あなたは躊躇ためらっておられるのですか」


 ねえ、と、相手の手指をやさしく握ったままで語りかけたが、明暁は子渼の手をそれを素っ気なく振り払った。


「お前はまた、陛下陛下と」


 そう、不快そうに言う。


「だってお慕い申し上げているんですから、仕方がないでしょう」


 子渼は、ふん、と、明暁から顔を背けた。


「たった一度、刹那の邂逅で……よくもそこまで、盲目に相手を想えるものだ」


「ほっといてください。あなたにとやかく言われる筋合いはありません。――とにかく、私にはすでに覚悟があるのですから、あとは……あなたが覚悟するだけです、明暁」


 子渼が真摯な表情に戻って言うと、明暁はわずかに息を呑んだ。


 けれども彼は、何か言いあぐむふうにして、結局黙り込んでしまう。だから子渼は、まだ迷うか、と、そうひとつ呆れたように吐息して、もうすこし言葉を継いだ。


「ひとつの犠牲も払わずに成り立つ国なんて、あるとお思いですか? 莫迦じゃないんですか? それでも陛下にお仕えする錦衣衛なのですか? 私がまだ一介の書生であるのに対して、あなたはすでに、この国の手足の一部なのですよ。何を犠牲にし、何を守るべきか、わかっているべき立場でしょう。それなのに、犠牲を躊躇うなど、ちょっと考えが甘いのではありませんか」


「っ、甘いと言われようがなんだろうが、俺はその犠牲を、む無しとは思えない! ひとつの犠牲もだ! たとえ臆病だとわらわれ、そしられようと、それでも、惜しい……誰ひとりとして、国のために、皇帝のために、犠牲になっていいはずがない。ちがうか?!」


 明暁の剣幕に、ふと、子渼は息を呑んだ。


 それから、そっとわらう。


「……ちがいません。ぜんぜん、ちがいません。でも、それは、たぶん無理なのです」


 子渼はかなしく目を細めた。


「臆病だなんて、思いませんよ。あなたはやさしいんです。ただね、明暁。目の前のわずかの犠牲を恐れるあまり判断を誤っては、もっと多くを失うことにもなりかねません。そうでしょう? 時には大局を見て非情になり、誰かを、何かを、切り捨てて、犠牲するような決断をしなければならないことだってある……出来ないでは済まされませんよ。それは、陛下と共に国を背負う者の負うべき責務なのですから」


「……っ、重い」


「当然です」


「つぶれそうだ」


「当然です。犠牲を受け入れ、そして、そうである以上、その犠牲を忘れずに生涯抱え続けていかねばならないのですから。けれども、踏ん張るしかありません。大丈夫です。その重みが分かっている人間だからこそ、無闇と犠牲を増やさずにすむのだと私は思います。そして、そんなふうに……犠牲の重みを知るあなただから、そんなあなたの役に立つなら……多少の危険など、私にとって、どうということはありません。――あなたのためになら、私、死んだってかまわない」


 そう言った途端、子渼は自分でも、ああそうか、と、思った。


 国のため、皇帝のために我が身命を惜しむつもりがないのと同様に、いま、子渼は明暁のためにも、一身をなげうって悔いないと思っているのだ。まだ出逢って数日だけれども、明暁は子渼にそう思わせてくれるものをもっていた。有態ありていにいえば、いま目の前にいるこの男に、子渼は好意、好感を持っている。惹かれている。


「死んでも、いいですよ」


 もう一度、ほう、と、溜め息つくように口にした刹那、明暁の腕が伸びて、子渼の身体を抱き寄せた。


「死なせるか」


 耳許に、うなるように、そう言われる。


「ええ、そうですね。だって、危険が迫ったら、きっとあなたは、私を助けに飛んできてくれる。信じています。――むしろ、だから、平気なのかも」


 子渼はくすくすと笑った。そして明暁の頭に手をまわすと、なだめるように、やさしくそこを撫でた。


「なあ……子渼」


 やがて明暁がしずかに呼びかけてくる。子渼は視線を上げ、相手の表情を窺い見た。彼は相変わらず眉根をひそめていたが、それはこれまでのように苦悶のためにそうするのではなく、何かを決意しようとする、それに伴う痛みに耐える顔なのだと、子渼には思えた。


 だから子渼は、なんですか、と、ごく穏やかに相手の次の言葉を促した。


「背負って、くれないか……俺と共に。この先、背負うものの重みに、俺がつぶれてしまわないように」


 すこし身体を離した明暁のあたたかなとび色の眸に、請うように見詰められ、子渼は、ぱちぱち、と、目を瞬いた。


 不安げな眼差しでこちらを見る相手は、きっといまこの瞬間、ほんとうに大切な何かを思い切ろうとしている。根拠はなくともそう思うから、子渼は、にこり、と、微笑みつつ頷いた。


「もちろんです。私でお役に立てるのなら、いくらでも」


 そう答えてから、あ、と、おもう。


「でも、あの、次善の策にはなりますが。だって科挙に及第ごうかくしたら、私は陛下にお仕えするんですからね! でも、それまでの間なら……あなたが望んでくれるなら、私は、あなたの傍で、あなたのお手伝いをします」


 喜んであなたを支える、と、子渼が言うと明暁は、ふ、と、口許をゆるめて目を細めた。それからもう一度、ぎゅ、と、子渼を抱き締めてから身体を離した。


 深呼吸をひとつ、彼はすぐさま表情を引き締める。


「――決まったかえ」


 こちらの様子を黙って見ていた彩蘭が言った。明暁は彩蘭を見て、ひとつ頷く。


「初めて見る……いい顔つきじゃの」


 皇太后はそんなことを言って目を眇めた。


「明暁、その者はそなたにとってとても貴重だ。今後、ゆめ、傍らから離さぬように」


 彼女は意味深に笑みながらそんなことを言った。それを受けた明暁は、わかっている、と、短く答えた。

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