「な、に……?」
馬車の中に連れ込まれた子渼は、恐怖に身を
とはいえ、狭い馬車の中では、どこに逃げられるものでもない。だから仕方なしに、じぃ、と、自分を
「驚かせたようじゃの。招きが手荒になってしまって、あい、すまぬ」
正面にいる相手はゆっくりと言い、口許を袖で優雅に覆いつつ、鈴を転がすような涼やかな声で笑った。
美しい
子渼ははっとした。いま目の前にいる相手は、先程帰途に明暁を呼び出した女性ではないだろうか。
子渼を捕え、馬車に圧し込んだのは、どうやら彼女の侍女のようである。いま、しれっとした澄まし顔で、子渼の隣に座していた。
りんりんと車輪の回る音がするから、馬車はどこかへ向かっているようだ。やがて振動と響きが変わるのは、土から石畳の路へ入ったからだろうか。だとすれば、ここは
「えっと……これはいったい、どういうことでしょうか。あなたはどちらさまですか」
子渼は戸惑いつつ、正面の女性を見る。
「
目を細め、相手は微笑む。
だが、そう言われたところで、子渼にはまだわけがわからなかった。
ともあれ、彼女が明暁と親しい間柄であることはたしかなようだ。先日
「あの、あなたは……明暁とは、その、どういった御関係で?」
「おや、気になるかえ」
彩蘭と名乗った相手は、
「いえ、別に」
子渼がやや目を逸らしつつ答えると、彩蘭は、ふふ、と、ちいさく笑った。
「もしかして
おそるおそる訊くと、どう思うかえ、と、向こうは子渼の反応を面白がるふうである。それで子渼がむっとくちびるを引き結んだら、くすくすくす、と、軽やかに笑った。
「これでも
「え?」
子渼は目をぱちぱちと瞬いた。目の前の彼女は若く見えているが、見目よりも
「まあ、それはさておき……少々頼みたいことがある。が、
彩蘭がそう口にしたとき、ちょうど馬車が停まった。
外に出てみると、目の前には――子渼が飲んだくれていたような場末のそれとはまるで違う――文人・貴人も立ち寄るような、立派な酒楼が
*
楼の中に入ると、侍女が先に立って、
こうした酒楼というのは、貴人の会談・密談にもよく使われる。仕立ての良い衣装やその立ち居振る舞い、また、侍女を従え、移動に馬車を使っていることからも、彩蘭がそれなりの家柄の人間であることは間違いなかった。あるいは、こんなふうに、この酒楼で誰かと内密の話をするようなことも多いのかもしれない。
「
席に着くと、彼女は侍女に眼差しを送った。心得たように、蓉と呼ばれた侍女が動く。彼女は
「通行証じゃ。
蓉の手からそれを受け取り、子渼は袱紗を開いてみる。彩蘭の言う通り、中には一帖の証書が包まれていた。
布の貼られた表紙を
証書に記されているのは、城門や各地の関所の通行許可に関する文言だった。それはいい。だが問題は、そこに
「皇、太后……」
子渼は信じられない思いで呟いた。
証書の終わりには皇太后
「彩蘭は妾の
彩蘭は悪戯っぽく、ふふ、と、笑った。
が、子渼のほうは笑い事ではなかった。
貴顕の家柄では、真名は
普通は
とはいえ、貴人の小字などというものは、通常、世間に広く漏れ聞こえてきたりはしないのだ。すなわち、皇太后のそれを子渼が知り得るはずもなく、彩蘭と名乗られてしまえば、彼女の正体などわかろうはずもなかった。
しかし、どうやら、事実、目の前の女性は皇太后なのある。子渼は慌ててその場に畏まった。
「ふふ、礼はよい。立って……というか、そこに座って、
彩蘭は己がいまかけている卓の、向かいの位置を子渼に示す。そろりと顔を上げたものの、子渼はとてもその席に着く気にはなれなかった。
「そんな……出来かねます。
「よいというに。ほれ、はやく」
彩蘭は侍女の蓉に目配せをし、椅子を引かせると、半ば強引に子渼をそこに座らせた。
「酒でもあったほうが、緊張もほぐれるかえ?」
そう問われ、子渼はふるふると首を横に振った。
「いえ、もう、すでにだいぶ飲んでいるので」
酔いなら十分に回っていると言うと、彩蘭は一瞬きょとんと目を瞠り、それから、くくっ、と、喉を鳴らすようにして笑った。
それで子渼は、なにも言わずともよかった余計事を口にしたのだと悟る。頬を染めて俯くと、彩蘭がこちらを覗き込むようにしてきた。
「なるほど、たしかに腹の内が顔か声かにそのまま出るようじゃの」
ははは、と、朗らかに笑って見せる相手は、そのことを、おそらく間違いなく明暁から聴いたのだろう。
それにしても、皇太后と知り合いだとは――しかもそれなりに親しい間柄のようだ――いったい、ほんとうに、明暁は何者なのだろうか。否、そもそも彼が皇太后に縁ある者だからこそ、あの若さで
「どうかしたかえ?」
黙った子渼に、相手は小首を傾げる。
「いえ」
子渼がちいさく
「その通行証はそなたに与えようほどに。――代わりといってはなんじゃが、そなた、
「協力、に、ございますか」
「そう」
いったいどんなこと、と、子渼は黒眸を瞬いた。
「林家の令嬢が姿を消した」
皇太后は端的に言った。
その言葉に、子渼は息を呑む。
「
「ああ、そなた、彼女を知っておるのか。それならば話は早い。そう、林麗華じゃ。――これで、
彩蘭は沈んだ、深刻そうな表情を見せた。
三人、と、いま彼女が言うのは、過日明暁が話してくれた、孫家・張家の令嬢を含めてのことだろう。
子渼はやや俯き、顎に指を当てて思案する。
三日ほど前、林家の令嬢である麗華に近付いていた怪しげな男がいたことを子渼は知っていた。あの男が――もしくは、その前日に子渼に絡んできた男の仲間も含めて、奴らが――何か関わっているのかもしれない。
「麗華さまには、すこしですが、お話を聴かせていただきました。宴では陛下に拝謁を
実際のところはどうなのだろう。孫家、張家、林家の年頃の娘を宴に招いたという彩蘭には、やはり、彼女らを皇帝の妃にという意図があったのだろうか。
「陛下も即位から今年で四年目。そろそろ妃のひとりふたり持っても良かろうに、と、そういう思惑は、
「それは、その……と、
「ふふ、そういう風聞もあるようじゃが、どうなのかの。陛下におなりになる前は、それなりにうまいこと、女遊びはされておったようだぞ。ああ、たまには男も。ただ……御即位後は、どちらも、ぱたりとないの。まあ、突然とんでもない重責を負わされることになっては、
「っ、な、萎え……」
皇太后とはいえとんでもないことを口にするものだ、と、彩蘭の遠慮のない物言いに、子渼は思った。が、その点、男好きだからかとあけすけに訊ねてしまった自分も同罪なのかもしれない。子渼が黙り込むと、彩蘭は、ふう、と、ひとつ溜め息を吐いた。
「まあ、陛下の
気心知れた間柄で、かつ錦衣衛でもある明暁に、解決について方策を相談した、と、そういうことだったわけだろうか。だが、そこまで口にしてから、ふと、彩蘭は一瞬、黙った。
すぅっと、目を細め、くすくす、と、ちいさくわらう。
「
彩蘭にそう言われ、え、と、子渼は目をぱちくりさせた。
自分を囮にという話も意想外ではあったが、先程帰宅した際の明暁の不機嫌の原因を不意に知らされ、それについても驚いていた。
急かすように子渼を
なんだ、と、子渼はおもう。やっぱりあなたやさしいんじゃないですか、と、そう思ったら、自然と口許がゆるんでいた。
「囮……私で務まるなら、やりますが」
ひとつ心の
けれどもそこで、はた、と、問題点に思い至る。
「ですが、そもそも私は男でございます。それを、どうやって囮に?」
「ん? それはの、そなたを
「……は?」
「もしも黒幕が陛下に妃を持たせまいとして動いているなら、降って湧いた婚約話に、慌てて何らかの行動に出るじゃろう。さすれば、ぼろも出ようほどに。――なに、そなたは中性的でうつくしい顔立ちをしておるし、その辺は化粧などでどうとでもなろうしな」
頼む、と、じっと見詰められ、囮になるのはやぶさかではないけれども、告げられた思わぬ作戦に、子渼は困惑して無言で瞬きをした。
そのとき、ふと、彩蘭が扉のほうに視線をやった。
「おや、誰か来たようじゃの」
彼女がそう口にするのとほとんど同時に、乱暴に扉が開けられた。