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4-3 予想外

「な、に……?」


 馬車の中に連れ込まれた子渼は、恐怖に身をすくめめ、車駕くるまの隅にちいさくなった。


 とはいえ、狭い馬車の中では、どこに逃げられるものでもない。だから仕方なしに、じぃ、と、自分をかどわかした相手を窺い見た。


「驚かせたようじゃの。招きが手荒になってしまって、あい、すまぬ」


 正面にいる相手はゆっくりと言い、口許を袖で優雅に覆いつつ、鈴を転がすような涼やかな声で笑った。


 美しい襦裙じゅくんまとった、妙齢の女性だ。


 子渼ははっとした。いま目の前にいる相手は、先程帰途に明暁を呼び出した女性ではないだろうか。


 子渼を捕え、馬車に圧し込んだのは、どうやら彼女の侍女のようである。いま、しれっとした澄まし顔で、子渼の隣に座していた。


 りんりんと車輪の回る音がするから、馬車はどこかへ向かっているようだ。やがて振動と響きが変わるのは、土から石畳の路へ入ったからだろうか。だとすれば、ここはまちの中央に近い、繁華なあたりなのかもしれない。


「えっと……これはいったい、どういうことでしょうか。あなたはどちらさまですか」


 子渼は戸惑いつつ、正面の女性を見る。


わらわは、彩蘭さいらん。明暁に頼まれてな、そなたの通行証をさっそく手配したので、届けに参ったのじゃ。そうしたら門前にそなたがなにやら勢い込んで姿を見せたので、ちょっとかどわかしてみた。――そなたと少々、話をしてみたくてな」


 目を細め、相手は微笑む。


 だが、そう言われたところで、子渼にはまだわけがわからなかった。


 ともあれ、彼女が明暁と親しい間柄であることはたしかなようだ。先日酒家のみやで絡んできた破落戸ごろつきや、あるいは名家令嬢をさらっているらしき犯人に連れ去られたというのではないようで、とりあえずのところは、ひと安心である。


「あの、あなたは……明暁とは、その、どういった御関係で?」


「おや、気になるかえ」


 彩蘭と名乗った相手は、悪戯いたずらっぽく目を細め、からかうように言う。


「いえ、別に」


 子渼がやや目を逸らしつつ答えると、彩蘭は、ふふ、と、ちいさく笑った。


「もしかして許婚いいなずけ……とか? それとも情人こいびと……?」


 おそるおそる訊くと、どう思うかえ、と、向こうは子渼の反応を面白がるふうである。それで子渼がむっとくちびるを引き結んだら、くすくすくす、と、軽やかに笑った。


「これでもわらわは既婚者じゃ。子もおるぞ」


「え?」


 子渼は目をぱちぱちと瞬いた。目の前の彼女は若く見えているが、見目よりも年嵩としかさだったりするのだろうか。


「まあ、それはさておき……少々頼みたいことがある。が、此処ここではなんじゃからの、みせの中でゆっくり話そう」


 彩蘭がそう口にしたとき、ちょうど馬車が停まった。


 外に出てみると、目の前には――子渼が飲んだくれていたような場末のそれとはまるで違う――文人・貴人も立ち寄るような、立派な酒楼がそびえていた。



 楼の中に入ると、侍女が先に立って、みせの者に何かを告げる。相手はひとつ頷き、かと思うと、吹き抜けの間の正面にある階段を下りて、この楼の女主人らしき人物が彩蘭のもとへ挨拶に来た。訳知り顔で案内に立つ女主人は、子渼らを階上にある奥まった一室へと案内した。


 こうした酒楼というのは、貴人の会談・密談にもよく使われる。仕立ての良い衣装やその立ち居振る舞い、また、侍女を従え、移動に馬車を使っていることからも、彩蘭がそれなりの家柄の人間であることは間違いなかった。あるいは、こんなふうに、この酒楼で誰かと内密の話をするようなことも多いのかもしれない。


よう


 席に着くと、彼女は侍女に眼差しを送った。心得たように、蓉と呼ばれた侍女が動く。彼女は袱紗ふくさに包まれた何かを子渼に差し出してきた。


「通行証じゃ。わらわが署名したゆえ、帰郷まで、そなたの旅路は誰にもはばまれることはない」


 蓉の手からそれを受け取り、子渼は袱紗を開いてみる。彩蘭の言う通り、中には一帖の証書が包まれていた。


 布の貼られた表紙をひらいた子渼は、けれども、思わず目をみはり、息を呑む。


 証書に記されているのは、城門や各地の関所の通行許可に関する文言だった。それはいい。だが問題は、そこにされた印影と署名である。


「皇、太后……」


 子渼は信じられない思いで呟いた。


 証書の終わりには皇太后りょうとあり、捺されている印影の文字は皇太后之印と読める。


「彩蘭は妾の小字しょうじじゃの」


 彩蘭は悪戯っぽく、ふふ、と、笑った。


 が、子渼のほうは笑い事ではなかった。


 貴顕の家柄では、真名はいみとして、呼ぶことを避ける傾向にある。そのため、名とは別にあざな、すなわち呼称を持ったりするが、そのうち、小字とは幼時に用いられるそれを言った。


 普通は真名まなと音または意味の通じる漢字を含み、長じて後、それをそのままあざなとすることも多い。新たにあざなを持ち直す場合でも、幼少の頃から親しい間柄などでは、敢えて小字で以て互いを呼び続けることもあった。


 とはいえ、貴人の小字などというものは、通常、世間に広く漏れ聞こえてきたりはしないのだ。すなわち、皇太后のそれを子渼が知り得るはずもなく、彩蘭と名乗られてしまえば、彼女の正体などわかろうはずもなかった。


 しかし、どうやら、事実、目の前の女性は皇太后なのある。子渼は慌ててその場に畏まった。


「ふふ、礼はよい。立って……というか、そこに座って、わらわの話を聴いてくりゃれ」


 彩蘭は己がいまかけている卓の、向かいの位置を子渼に示す。そろりと顔を上げたものの、子渼はとてもその席に着く気にはなれなかった。


「そんな……出来かねます。勿体もったいなくて」


「よいというに。ほれ、はやく」


 彩蘭は侍女の蓉に目配せをし、椅子を引かせると、半ば強引に子渼をそこに座らせた。


「酒でもあったほうが、緊張もほぐれるかえ?」


 そう問われ、子渼はふるふると首を横に振った。


「いえ、もう、すでにだいぶ飲んでいるので」


 酔いなら十分に回っていると言うと、彩蘭は一瞬きょとんと目を瞠り、それから、くくっ、と、喉を鳴らすようにして笑った。


 それで子渼は、なにも言わずともよかった余計事を口にしたのだと悟る。頬を染めて俯くと、彩蘭がこちらを覗き込むようにしてきた。


「なるほど、たしかに腹の内が顔か声かにそのまま出るようじゃの」


 ははは、と、朗らかに笑って見せる相手は、そのことを、おそらく間違いなく明暁から聴いたのだろう。


 それにしても、皇太后と知り合いだとは――しかもそれなりに親しい間柄のようだ――いったい、ほんとうに、明暁は何者なのだろうか。否、そもそも彼が皇太后に縁ある者だからこそ、あの若さで錦衣衛きんいえいも務め、今回も、皇帝の意を受けたらしい調査に臨んでいるのかもしれない。


「どうかしたかえ?」


 黙った子渼に、相手は小首を傾げる。


「いえ」


 子渼がちいさくかぶりを振ると、そうか、と、瞬きをひとつ、吐息をひとつ、子渼の顔を真っ直ぐに見た。


「その通行証はそなたに与えようほどに。――代わりといってはなんじゃが、そなた、わらわに協力する気はないか」


「協力、に、ございますか」


「そう」


 いったいどんなこと、と、子渼は黒眸を瞬いた。


「林家の令嬢が姿を消した」


 皇太后は端的に言った。


 その言葉に、子渼は息を呑む。


麗華れいかさまが、ですか」


「ああ、そなた、彼女を知っておるのか。それならば話は早い。そう、林麗華じゃ。――これで、わらわ探花たんかえんに招いた三人の娘が、三人ともに姿を消したことになる」


 彩蘭は沈んだ、深刻そうな表情を見せた。


 三人、と、いま彼女が言うのは、過日明暁が話してくれた、孫家・張家の令嬢を含めてのことだろう。


 子渼はやや俯き、顎に指を当てて思案する。


 三日ほど前、林家の令嬢である麗華に近付いていた怪しげな男がいたことを子渼は知っていた。あの男が――もしくは、その前日に子渼に絡んできた男の仲間も含めて、奴らが――何か関わっているのかもしれない。


「麗華さまには、すこしですが、お話を聴かせていただきました。宴では陛下に拝謁をたまわる予定もあるのだとおっしゃっていて……おきさき候補を自負されているようでしたが」


 実際のところはどうなのだろう。孫家、張家、林家の年頃の娘を宴に招いたという彩蘭には、やはり、彼女らを皇帝の妃にという意図があったのだろうか。


「陛下も即位から今年で四年目。そろそろ妃のひとりふたり持っても良かろうに、と、そういう思惑は、わらわにはたしかにあるのだがの。ま、陛下にはまるでその気がないようじゃ。此度こたびもおぜんてをしてみたものの、余計なことをと苦々しく思っておられるに違いない」


「それは、その……と、殿方とのがたがお好きだから、とか?」


「ふふ、そういう風聞もあるようじゃが、どうなのかの。陛下におなりになる前は、それなりにうまいこと、女遊びはされておったようだぞ。ああ、たまには男も。ただ……御即位後は、どちらも、ぱたりとないの。まあ、突然とんでもない重責を負わされることになっては、えても仕方があるまいが」


「っ、な、萎え……」


 皇太后とはいえとんでもないことを口にするものだ、と、彩蘭の遠慮のない物言いに、子渼は思った。が、その点、男好きだからかとあけすけに訊ねてしまった自分も同罪なのかもしれない。子渼が黙り込むと、彩蘭は、ふう、と、ひとつ溜め息を吐いた。


「まあ、陛下のねやのことはいったんくとしてじゃな、わらわとしては、三人の娘たちの身を憂えておる。もしも妾が探花宴に呼んだばかりに……すなわち、皇帝の妃嬪ひひん候補と思われたがために、彼女らがさらわれたのだとしたら、そのきっかけを作ったのは、間違いなくわらわじゃ。責任も感じる。加えて、陛下が盤石なお立場を築かれんとするのをさまたげるたくらみかもしれんという意味でも、看過しがたい。――というような話を、先程、明暁にもしたわけじゃが」


 気心知れた間柄で、かつ錦衣衛でもある明暁に、解決について方策を相談した、と、そういうことだったわけだろうか。だが、そこまで口にしてから、ふと、彩蘭は一瞬、黙った。


 すぅっと、目を細め、くすくす、と、ちいさくわらう。


わらわがの、そなたをおとりに使って犯人を罠にかけてはどうかと言った途端、あやつめ……話にならんと、怒って帰った。そんな危険なことをさせられるか、と」


 彩蘭にそう言われ、え、と、子渼は目をぱちくりさせた。


 自分を囮にという話も意想外ではあったが、先程帰宅した際の明暁の不機嫌の原因を不意に知らされ、それについても驚いていた。


 急かすように子渼を珞安らくあんから去らせようとしたのは、では、子渼を危険に巻き込みたくないという思いからだったのだろうか。このまま己の傍にいては、子渼もまた令嬢失踪の件に関わることになり、かつ、危険な囮役をすることになるかもしれない、と、そのことを、彼は心配してくれたのかもしれない。


 なんだ、と、子渼はおもう。やっぱりあなたやさしいんじゃないですか、と、そう思ったら、自然と口許がゆるんでいた。


「囮……私で務まるなら、やりますが」


 ひとつ心のもやが晴れ、むしろすっきりした気分になった子渼は、彩蘭を見てそう言った。明暁が自分の身を案じてくれたのがうれしく、また、うれしいからこそ、子渼のほうも、我が身を彼の役に立てたいという気持ちになっていた。


 けれどもそこで、はた、と、問題点に思い至る。


「ですが、そもそも私は男でございます。それを、どうやって囮に?」


 さらわれたのは、いずれも名家の令嬢ばかりである。男性で、一介の書生でしかない子渼が、次の標的になり得るはずもなかった。


「ん? それはの、そなたをわらわの遠縁の娘ということにして、陛下の皇后候補に仕立てあげようという算段でおったのだが」


「……は?」


「もしも黒幕が陛下に妃を持たせまいとして動いているなら、降って湧いた婚約話に、慌てて何らかの行動に出るじゃろう。さすれば、ぼろも出ようほどに。――なに、そなたは中性的でうつくしい顔立ちをしておるし、その辺は化粧などでどうとでもなろうしな」


 頼む、と、じっと見詰められ、囮になるのはやぶさかではないけれども、告げられた思わぬ作戦に、子渼は困惑して無言で瞬きをした。


 そのとき、ふと、彩蘭が扉のほうに視線をやった。


「おや、誰か来たようじゃの」


 彼女がそう口にするのとほとんど同時に、乱暴に扉が開けられた。

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