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4-2 諍い

 戸が開く気配に、はっと身体を起こした子渼は、慌てて身形みなりを整えた。明暁が帰ったのだったら、いったいどんな顔をして彼と会えばいいのだろう。戸惑いつつも意を決して間仕切りの屏風を越えてそちらへ顔を出すと、入ってきたのは食事の用意を整えに来てくれた黄老だった。


「黄さん」


 ちょっとほっとしながら子渼が呟くと、手早く料理の皿を卓子に並べにかかりながら、老爺が子渼に眼差しを向けた。先程の言葉通り、酒瓶さかがめも用意されているようだ。


公子わかぎみはまだお戻りでないようですし、どうぞお先にお召し上がりになっていてくだされ。あるじを差し置いてとお怒りになるような方ではございませんし」


「ええ、そうですね。ありがとうございます、いただきます」


 子渼は努めて穏やかに微笑んで礼を言い、湯気とともに良い香りを立ち上らせている料理の皿が並んだ卓子についた。


「ごゆっくり」


 黄老は給仕を終えると、正堂おもやを出ていってしまう。ひとりになった居間で、子渼は箸よりも先に、酒杯を取った。


 なんだか自分でもよくわからないが、腹が立っている気がする。こうなったら明暁が帰ってくるまで飲んでいてやろう、と、子渼はそうおもった。


 酒瓶を傾け、杯に中味を注ぎ入れると、くちびるをつけて、ぐい、と、あおる。


「はあっ」


 ひとつ、荒く息を吐いた。


 そうしたら、なぜかせつなくなって、それを誤魔化ごまかすためにまた杯を呷った。


「くそっ、なんでこんなに苛々してるんだ、私」


 自分自身にちいさく悪態をついてみる。それと共に、早く帰って来い莫迦ばか、と、ここにいない相手を、いまここにいないことを理由に、心の中だけでなじっていた。


 でも、明暁の顔を見たら、自分は最初に何を言うのだろう。


 あの女性は誰、だろうか。あのくちづけは何、だろうか。それとも、私はもうここには置いてもらえなくなりますか、なのかもしれない。


 そんなせんいことをつらつらと考えながら、子渼は黄老が用意してくれた点心や炒め物をつまみつつ、ひとり杯を重ねた。やがてすこし眠くもなって、卓子に突っ伏してまぶたを閉じた。


 明暁はまだかな、と、思いながら、どれくらいそうしていただろう。


 ふと、きざはしを上る足音が聞こえた。


 かと思ううちに、扉が開く。


 黄老が皿を引きに来てくれたのだろうか、と、そう思って、子渼はうっそりと瞼を持ち上げる。そのままのろのろと顔を上げて正面を見ると、けれども、そこにいたのは予想した老爺ではなく、今度こそ、明暁だった。


「……おかえりなさい……思ったよりも、お早いですね」


 子渼は酒精のためにややとろりとした口調で明暁を出迎えた。


 けれども相手からの返答はない。その顔つきはまた、ずいぶんと険しいものだった。


 なにかあったのだろうか、と、酔いのまわった頭でぼんやりと思う。


「どうか、なさいましたか?」


 子渼は呂律もあやしく問うた。


 だが明暁は、別に何も、と、素っ気なかった。


「何もって顔じゃないですよ……嘘つき」


 酔いに任せて相手をののってみたが、それでも、明暁の反応は薄い。


 いっそのこと、酔っ払いめ、と、いやな表情をされたほうがまだましだった。いまの明暁には、子渼が食い下がり、問いを重ねられるような雰囲気がまるでない。こちらは酔って思考が鈍ってはいながらも、相手のかもすそんな空気に、なんとなくたじろいでしまうほどである。


「手伝いの給金だ」


 ふいに明暁はきものふところに手を入れて、小さな袋を取り出して卓に置いた。


「路銀として使え」


 子渼の目の前に、その袋を押し出すようにしてくる。


 え、と、子渼は目を瞬いた。一気に酔いが醒めるような気分だった。


「急に、なんですか?」


「事案は解決した。通行証も新しく用意してやる。準備が出来次第、珞安らくあんを出ろ」


「ちょ、ちょっと、待ってください!」


 いきなりどういうことだ、と、子渼は困惑して目を白黒させる。展開に頭がついていっていなかった。


「給金も、通行証も、とてもありがたいです。でも……急に言われても、わけがわかりませんよ。――なにか、あったのですか?」


 子渼を珞安から去らせなければならない事由が、明暁の側に発生したのだろうか。子渼はそう思ったのだが、明暁は答えないままできびすを返し、子渼に背を向けた。


「お前には関係ない」


 ぴしり、と、はねのけるような言葉を投げられる。


 なんだそれ、と、子渼は思った。


 思った途端、例によって、それは言葉になって口から出てしまっている。


「なんなんですか、また、あなたは! 誰かとふたりこそこそ出掛けて、帰ってきたと思ったら、いったい何を怒っているんです? 私に関係ないことなんだったら、八つ当たりしないでくださいよ!」


「誰が八つ当たりだ」


 明暁は不快そうに低い声を出す。


「八つ当たりでないんだったら、説明してください。どうして苛ついているんですか。どうして急に、私に出て行けなどというのですか」


「誰も出て行けとは言っていない」


「言ってるでしょう! そう聞こえましたよ! 案件が片付いたらもう用なしだから出ていけみたいに……!」


 そこまで言って子渼は、ふと、おもう。


「用なし以前に、私……そもそもたいしてあなたの役に立っていなかったかもしれませんけどね。だって、まだ三日だし。思ったより早く下手人も見つかって、何をする間もなかったので……そもそも用なしの厄介者でしかなかったのかも。――ああ、もう、自分で言ってて悲しくなってきました。なんか莫迦みたいです」


 最初こそ相手を責め立てる口調で言い始めた言葉は、けれどそのうち、そんなふうに自分を省みるそれになっていた。最後は声音も弱々しくしぼんでしまう。


「お前……酔っているか」


 明暁が、ちら、と、子渼の様子を振り向くと、どこか呆れたようにちいさく言った。


「ええ、ええ、酔っていますとも。酔っ払いです」


 子渼は自棄っぱちでそう答えた。


「酔っ払いだから、いまの私はおかしな戯言たわごともいいますけれど」


 この際だからと、言葉を続ける。


「あなたには二度も破落戸ごろつきから救ってもらったし、居候いそうろうもさせてもらっているし、陛下に対する意見は真っ向対立ですけれど、とはいえ私は、あなたをやさしいひとだとは思っていますし……だから、せっかくのえにしがもう途切れてしまうのはさびしいなとか、ふつうに、思うんです。まだ出会って間もないですけど、その、は、膚を重ねた、関係なかでも、あるんですし。科挙に及第できなかったら、あなたの助手も、次善の策としてありかなとか、そう思う程度には……あなたのこと、その、好ましく、おもっているというか」


 ぶつぶつと言葉を重ね、ああそうか、と、子渼は得心していた。


 自分は明暁を好ましく思い始めていたのだ。そう、改めて思う。


 それに気付いたこともあって、後半に近付くにつれ――決して酒精のせいではなく――頬を染めつつ、子渼の言は訥々とつとつとした調子になった。


 ちら、と、明暁を見た。


 こちらに半ば背を向けた恰好でいる相手は、いま横顔しか確かめられなかったが、その端正な顔の凛々しい眉が、ぎゅっと顰められているのはわかった。それは不快のゆえなのか、あるいは別の何かの感情のためなのか、子渼には判断がつかない。


「お前は……俺を知らない」


 やがて明暁は苦々しく呟いた。


 その瞬間、子渼は、いらっとした。


「はあ!? そりゃあ、そうでしょうよ。だってまだ、会って数日なんですからね。ってか、あなただって私をたいして知らないでしょうが。だからもうすこし知り合っていきたいって、こっちはそう言っているんです!」


「これ以上知れば……あるのは幻滅だけだろうさ」


 続いた明暁の言葉は、今度は自嘲に満ちていた。その響きに、子渼はますます苛ついた。


「なんでそうやってひとりで決めつけるんですかね、いい加減、腹が立つんですけど。ええ、ええ、幻滅しませんなんて言いませんよ、未来さきのことはわかりませんし。でもね、あなたが私の思うとおりの人でなかったとして、幻滅するかどうかは、いまこの場であなたが決めることですか? 私の感情をあなたが自分勝手に決めつけるって、ふつうに考えて、おかしいでしょう。何様のつもりだ。いっぺん死ね……!」


 つい言ってしまってから、子渼ははっと口をつぐむ。


 そろ、と、明暁を窺うと、わずかに子渼のほうに向きなおった相手は切なげに、あるいは眩しげに、ちいさく眉根を寄せつつ――意外にも――口許にほの笑みを刷いていた。


「そんなに俺が腹立たしいなら……それこそ、すぐにも去ればいい。それだけだ」


 それなのに、口からこぼれたのは、そんな言葉だ。


「っ、私が死ねって口にするのは、おまじないみたいなもので、ついでに愛情の裏返しみたいなものでもあるって、言ったでしょうが……!」


 子渼は思わず勢いよく立ち上がって、卓の上の袋――明暁が言うには、給金入りらしい――を持ち上げると、相手に向かって投げつけていた。


 明暁が反射的に顔をかばって、右腕をかざす。それでなくとも残念ながら、子渼が投擲とうてきしたものは見当違いの方向へ飛んで、相手にかすりもしなかった。が、その隙に子渼は明暁の脇をすり抜けて扉のほうへと歩を進めた。


 泣きそうになりながら、正堂おもやの前のきざはしを下り、院子なかにわを花垂門に向かって足早に横切る。


 振り返る気もなかったが、どうも明暁は追いかけてきてはいないようだった。それがまた――理不尽だとわかっていながらも――業腹で、お望みなら出て行ってやりますとも、と、子渼はそんな気分になった。


 並びの御座房から、すわ大事か、と、慌てたように黄老が出てくる。


「黄さん、たいへんお世話になりました! ありがとうございます!」


 老爺に深々と礼だけすると、訳が分からぬ様子でこちらと、それから正堂おもやのほうとを困ったように交互に見る相手を置いて、子渼は花垂門を抜けた。前院まえにわを通り、表門のかんぬきを上げて、躊躇ためらいもなく戸を押し開ける。


 地団太じだんだ踏むような足取りで路に出ると、しかし、子渼の行く手を塞ぐように、門の前には馬車が一台とまっていた。


 誰か、明暁に客だろうか。でも、こんな時間に、と、そう怪訝けげんに思った瞬間だ。背後から伸びた手に羽交はがめられ、子渼は馬車の中に引き摺り込まれていた。


「っ、柳どの!」


 子渼を追って門前まで出てきてくれたらしい黄老が、そう叫ぶ声が聴こえる。


 けれどもその時にはもう、馭者ぎょしゃは馬に鞭を当てており、馬車は動き出していた。


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