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4-1 おかしな熱*

 明暁の府宅やしきに戻った子渼が表門を叩くと、すぐに黄老が出てきてくれた。


「お帰りなさいませ。――おや、公子わかぎみはご一緒ではありませんな?」


 にこやかに出迎えてくれつつも、戻った子渼がひとりであることに、相手は怪訝けげんそうな表情をする。


「明暁なら……帰りに若い女性と何処かへ行ってしまいました」


 子渼は自分の中に生じた奇妙にもやもやした気持ちをまだ引きっていて、それでつい、説明はちょっと尖った言い方になった。


 だが老爺はそれには気付かなかったのか、さようでございますか、と、ごく平静に返事をくれる。


「では、お帰りは遅くなられるやもしれませんな」


 そう付け足す相手は、どうも明暁が帰途で落ち合った相手に心当たりがあるふうである。子渼の中ではまたすこし、重たいおりのような感情がふくらんだ。


 子渼がただ若い女性と言っただけで、黄老の頭の中には特定の相手が浮かんだようなのだ。ならばきっと、それは明暁にとってそれなりに親しい、特別な存在なのに違いなかった。


 情人こいびとだろうか。


 許婚いいなずけだって、いたとても、おかしくはない。


「あの……」


 好奇心というのとはすこしちがう、はっきりさせたいような、あるいは知るのが怖いような、なんとも複雑な気分にさいなまれて、子渼は思わず口を開いた。だが、それにかぶせるように黄老もまた、柳どの、と、子渼のことを呼ぶ声を上げる。


「肩に血が……お怪我をなさいましたか?」


 そう言われ、子渼としては、発言の出鼻をくじかれてしまった恰好になった。


「え? ああ……掠り傷です」


「いやいや、んだりしては大事おおごとですからな。きちんと手当いたしませんと」


 そう言った黄老は、子渼に対し、先に正堂おもやへ入って待つよう告げる。子渼が言われた通りに房間へやで椅子に腰かけて待っていると、すぐに薬箱を取ってきて、手早く傷に処置をしてくれた。


 治療を受けつつも、先程問い損ねたことについて気にかかっていた子渼は、それを切り出していいものかどうか、ずっとそわそわとしていた。


「柳どのは、ほんに、お顔に出ますな」


 黄老がかすかに笑いながら言ったのは、治療も終わり、子渼が深衣のあわせを整えたときだった。え、と、思って老爺の顔をまじまじと見ると、相手は困ったような、苦笑するような表情を浮かべている。


公子わかぎみがお会いになられているお相手……もちろん、お気にはなろうかと存じます。が、あいすみませぬ、その御方について、爺から勝手にお教え申し上げることはできませんのです」


 言えない、と、先制されてしまい、子渼はやや恥じ入った。


「いえ、こちらこそ、すみません……詮索するつもりはないのですが」


 言いながらも、先程明暁と親しげに言葉を交わしていたあの妙齢の女性のことが気になってしまっているのは、誤魔化ごまかしようのない事実だった。


 明暁は、性戯だって、それなりに慣れているようだった。情人こいびとのひとりやふたりくらい、いたところで何もおかしくはないのだ。


 それに、と、子渼は思う。明暁に情人が――あるいは許婚であってもだが――いたとして、それは子渼とはなんの関わりもないことである。


 その、はずだ。


 子渼が気にすることではない。


 それなのに、このきもちはなんだろう、と、初めて抱く、どこかすっきりしないような感情に、子渼は戸惑っていた。


 きっと先程、明暁が不意にくちづけなどしてくるからいけないのだ、と、そう思う。子渼は柳眉を、きゅ、と、ひそめた。


 人に接吻しておいてそのすぐ後に女性とどこかへ行くなんて、と、相手の不実をとがめ立当てるような気分になる。きっと明暁がくちづけなんかしたからこそ、子渼の中にはいま、彼を理不尽に責め立てるような想いが込み上げてきているのに違いなかった。


 子渼は、む、と、くちびるを引き結び、それから、そのくちびるに、人さし指でそっと触れてみた。明暁はあのとき何を思って、子渼に接吻などしたのだろうか、と、そう思い、そろりとそこをなぞった。


「――さて」


 そのとき、ふと黄老が声を上げて、子渼ははっと我に返る。


「じきにお食事をお持ちいたしましょうほどに」


 薬箱を片付けた老爺は立ち上がり、子渼ににこやかな笑顔を見せる。


「いえ、あの、お気遣いなく……くりやを使わせてさえいただければ、自分の分は、自分でなんとでも用意しますので」


 子渼はそう言ったがが、相手は、ご遠慮めされるな、と、穏やかに言った。


「爺とても物をまねば生きていかれませんよ。一人分つくるも、二人分、三人分つくるも、手間は同じでございますゆえ」


「ですが」


「お気になさらず、柳どのは資料の調べの続きをお願いいたします。それが適材適所というもの」


 明暁の調査の手伝いを続けてくれ、と、そう言われる。そこで子渼は、そういえば老爺に対して事件の成り行きの報告をまだしていなかったことを思い出した。


「えっと、小火ぼやの件については、無事に下手人が見つかって……明暁の部下の方に連行されていきました」


「ああ、さようでございましたか。それは良うございました。では尚更、今宵はごゆっくり食事をなさって、羽をやすめてくださいませ。御酒もご用意いたしましょうか。――もしも公子わかぎみがお戻りのようなら、お二人で祝杯でもあげられるがよろしいかと」


 そんなことを言いおいて、黄老は正堂の居間を後にしていった。



 そのあと、手持無沙汰になった子渼は、何となく隣の臥室しんしつへと移動した。


 臥牀ねどことして使わせてもらっているながいすに腰掛け、しばらく中空を見詰め、ぼんやりとする。改めて思うのは、そうか、案件は落着したのだな、と、そんなことだった。


 明暁に頼まれた件は、ひと段落がついた。それで気が抜けたというのもある。


 けれども、ぼう、と、してしまうのは、単にそんな安堵の気持ちからだけではなかった。


 事件に片がついたということは、子渼が明暁の傍でやるべきことは、いったんなくなってしまったということだ。もしかしたら錦衣衛である明暁のところには次の事案がすぐにやってくるのかもしれないが、新たな事件が舞い込んだとして、それについても、明暁は子渼に手伝いを求めてくるだろうか。


 明暁はいま、調査の手伝いを条件に、子渼をこの府宅やしきに居候させてくれている。では、その役目が終わり、子渼にすることがなくなったら、ここを追い出されてしまうのだろうか。


 そう思った瞬間、胸にすぅっと冷たい隙間風が吹き込んだような、たのみない、すかすかした気持ちになった。


 通行証も財嚢さいふもまだ見つかってはいない。だから、いま居場所を失うのは困るな、と、そんなことを考える。


 けれどもその思考がどこか言い訳じみていることに、子渼は自分でも勘づいていた。


 たぶん、いま自分は、もうすこし明暁の傍にいてみたいと思っているのだ。それは不思議な感情きもちだった。


 明暁は子渼にとって、まだ出会って間もない相手だった。それなのにどうしてこんなふうに思うのだろう、と、自問してみる。あるいは、知り合ってからわずかだからこそ、もうすこし相手を知りたい、と、そんな欲求がくすぶっているのだろうか。


 明暁に親切にしてもらったのは確かだった。彼には子渼に手を差し伸べるべき積極的理由も、必要も、ありはしなかった。それでも、こだわりなくそうしてくれたことへの感謝は、もちろん、ある。


 彼が子渼の書く字を笑ったことを気にして、無理をしてまで読もうと努めてくれたことにも、胸が温かくなった。もしかしたら、この感情のもといは、そのことにもあるのかもしれない。


 もしくは、彼が心に抱えるらしい重たい何かを、わずかにでも覗き込ませてもらった気がしているるからだろうか。それで、彼のことが、特別に気にかかってしまっているのだろうか。


「……接吻も、されたし……」


 子渼は溜め息をつくように呟いた。


 そうだ。そもそも、子渼は明暁と――薬の影響があったとはいえ――膚を重ねてしまっているのだ。その身体のふれあいが、いま子渼に、明暁を変に意識させるのかもしれない。


 子渼はもう一度、己のくちびるに触れてみる。


 明暁からはくちづけの意味を聴き損なったままだが、あれはなんだったのだろう、と、思う。


 くちびるをついばまれたそのとき、もっともっと深く重ね合わせてほしいと慾張ってしまった自分のあの衝動は、いったい、どういうものだったのだろうか、とも、おもう。


 そんなことを考えた瞬間、ぞくん、と、背筋が奇妙に粟立った気がした。


 左の肩が、熱い。明暁の手があわせを割って、き出しにした膚を舌でなぞった、その感触が生生なまなましく思い出されて、ぞくぞく、と、頭の中が甘く痺れる。


 なんだこれ、と、子渼はおもった。


 思った時には、己の手指はえりの中へ忍び込んでいる。先程明暁の舌が触れた肩の傷をなぞり、それから、こく、と、喉を鳴らし、おそるおそる――初めて会った日の夜に明暁がしたように――子渼は己の胸の飾りにふれていた。明暁の手指の感触を思い起しながら、くにくに、と、ねてみていた。


「……ぁ……」


 あの日、明暁は子渼を組み敷いて、膚のあちこちに触れた。くちづけをして、舐めて、咬んで、子渼をどろどろにした。飲まされた媚薬のために身体はもとより熱を溜めていて、それに浮かされるように子渼はあえぎ、甘く鳴いて、明暁にすがりついだのだ。


 不可抗力で為してしまった交情――……けれどもそれは、そういったことにまるで耐性のなかった子渼にとって、癖になってしまいそうなほどにあまやかだった。


 いまのこのおかしな感情は、きっと、そのせいもあるのだ。


「……ん……んぅ」


 いつの間にか、もう片方の手は深衣のすそを割って、小衫したぎの中にまで這入はいり込み、下肢のあわいのものに伸びていた。熱くなりかけているそれに、子渼はそっと指を絡める。


 子渼だって成年男子だから――ごくたまのことだとはいえ――自分ですることがないわけではなかった。けれども、そうするときに特定の誰かが頭の中にいるなんてことは、いままでにはないことだった。


「……明、暁……」


 口にしてみた途端、愉楽と、背徳感と、それから物足りないきもちとが、ぜんぶい交ぜになって子渼を襲う。


 あ、あ、と、嬌声みたいな声を漏らしながら、子渼は涙目になって、己の熱を握り込んでいじった。


 なんだこれ、と、おもう。


 思うのに止まらなくて、だがら、ぬち、にゅちゅ、と、濡れた音を立てつつふけって、最後にぎゅっと目を瞑って、とぷり、と、極めていた。


「は……ぁ……」


 瞼を持ち上げてもなんだか視界がぼんやりとかすんでいるのは、熱に眸が濡れてしまっているからだろう。どうしてくれるんだこの気持ちを、この身体を、と、いまここにいない相手に対して思い切り毒づきたい気分が、子渼の中には渦巻いていた。


 汚れた指をむなしい気持ちを持て余しつつ手巾で拭い、子渼は涙目のままながいすに突っ伏す。やるせない気分で、はあ、と、大きな溜め息を吐いた。


 そのとき、きぃ、と、音を立てて、居間のほうの扉が開く気配がした。

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