明暁の
「お帰りなさいませ。――おや、
にこやかに出迎えてくれつつも、戻った子渼がひとりであることに、相手は
「明暁なら……帰りに若い女性と何処かへ行ってしまいました」
子渼は自分の中に生じた奇妙にもやもやした気持ちをまだ引き
だが老爺はそれには気付かなかったのか、さようでございますか、と、ごく平静に返事をくれる。
「では、お帰りは遅くなられるやもしれませんな」
そう付け足す相手は、どうも明暁が帰途で落ち合った相手に心当たりがあるふうである。子渼の中ではまたすこし、重たい
子渼がただ若い女性と言っただけで、黄老の頭の中には特定の相手が浮かんだようなのだ。ならばきっと、それは明暁にとってそれなりに親しい、特別な存在なのに違いなかった。
「あの……」
好奇心というのとはすこしちがう、はっきりさせたいような、あるいは知るのが怖いような、なんとも複雑な気分に
「肩に血が……お怪我をなさいましたか?」
そう言われ、子渼としては、発言の出鼻を
「え? ああ……掠り傷です」
「いやいや、
そう言った黄老は、子渼に対し、先に
治療を受けつつも、先程問い損ねたことについて気にかかっていた子渼は、それを切り出していいものかどうか、ずっとそわそわとしていた。
「柳どのは、ほんに、お顔に出ますな」
黄老がかすかに笑いながら言ったのは、治療も終わり、子渼が深衣の
「
言えない、と、先制されてしまい、子渼はやや恥じ入った。
「いえ、こちらこそ、すみません……詮索するつもりはないのですが」
言いながらも、先程明暁と親しげに言葉を交わしていたあの妙齢の女性のことが気になってしまっているのは、
明暁は、性戯だって、それなりに慣れているようだった。
それに、と、子渼は思う。明暁に情人が――あるいは許婚であってもだが――いたとして、それは子渼とはなんの関わりもないことである。
その、はずだ。
子渼が気にすることではない。
それなのに、このきもちはなんだろう、と、初めて抱く、どこかすっきりしないような感情に、子渼は戸惑っていた。
きっと先程、明暁が不意にくちづけなどしてくるからいけないのだ、と、そう思う。子渼は柳眉を、きゅ、と、
人に接吻しておいてそのすぐ後に女性とどこかへ行くなんて、と、相手の不実を
子渼は、む、と、くちびるを引き結び、それから、そのくちびるに、人さし指でそっと触れてみた。明暁はあのとき何を思って、子渼に接吻などしたのだろうか、と、そう思い、そろりとそこをなぞった。
「――さて」
そのとき、ふと黄老が声を上げて、子渼ははっと我に返る。
「じきにお食事をお持ちいたしましょうほどに」
薬箱を片付けた老爺は立ち上がり、子渼ににこやかな笑顔を見せる。
「いえ、あの、お気遣いなく……
子渼はそう言ったがが、相手は、ご遠慮めされるな、と、穏やかに言った。
「爺とても物を
「ですが」
「お気になさらず、柳どのは資料の調べの続きをお願いいたします。それが適材適所というもの」
明暁の調査の手伝いを続けてくれ、と、そう言われる。そこで子渼は、そういえば老爺に対して事件の成り行きの報告をまだしていなかったことを思い出した。
「えっと、
「ああ、さようでございましたか。それは良うございました。では尚更、今宵はごゆっくり食事をなさって、羽をやすめてくださいませ。御酒もご用意いたしましょうか。――もしも
そんなことを言いおいて、黄老は正堂の居間を後にしていった。
*
そのあと、手持無沙汰になった子渼は、何となく隣の
明暁に頼まれた件は、ひと段落がついた。それで気が抜けたというのもある。
けれども、ぼう、と、してしまうのは、単にそんな安堵の気持ちからだけではなかった。
事件に片がついたということは、子渼が明暁の傍でやるべきことは、いったんなくなってしまったということだ。もしかしたら錦衣衛である明暁のところには次の事案がすぐにやってくるのかもしれないが、新たな事件が舞い込んだとして、それについても、明暁は子渼に手伝いを求めてくるだろうか。
明暁はいま、調査の手伝いを条件に、子渼をこの
そう思った瞬間、胸にすぅっと冷たい隙間風が吹き込んだような、たのみない、すかすかした気持ちになった。
通行証も
けれどもその思考がどこか言い訳じみていることに、子渼は自分でも勘づいていた。
たぶん、いま自分は、もうすこし明暁の傍にいてみたいと思っているのだ。それは不思議な
明暁は子渼にとって、まだ出会って間もない相手だった。それなのにどうしてこんなふうに思うのだろう、と、自問してみる。あるいは、知り合ってからわずかだからこそ、もうすこし相手を知りたい、と、そんな欲求がくすぶっているのだろうか。
明暁に親切にしてもらったのは確かだった。彼には子渼に手を差し伸べるべき積極的理由も、必要も、ありはしなかった。それでも、
彼が子渼の書く字を笑ったことを気にして、無理をしてまで読もうと努めてくれたことにも、胸が温かくなった。もしかしたら、この感情の
もしくは、彼が心に抱えるらしい重たい何かを、わずかにでも覗き込ませてもらった気がしているるからだろうか。それで、彼のことが、特別に気にかかってしまっているのだろうか。
「……接吻も、されたし……」
子渼は溜め息をつくように呟いた。
そうだ。そもそも、子渼は明暁と――薬の影響があったとはいえ――膚を重ねてしまっているのだ。その身体のふれあいが、いま子渼に、明暁を変に意識させるのかもしれない。
子渼はもう一度、己のくちびるに触れてみる。
明暁からはくちづけの意味を聴き損なったままだが、あれはなんだったのだろう、と、思う。
くちびるを
そんなことを考えた瞬間、ぞくん、と、背筋が奇妙に粟立った気がした。
左の肩が、熱い。明暁の手が
なんだこれ、と、子渼はおもった。
思った時には、己の手指は
「……ぁ……」
あの日、明暁は子渼を組み敷いて、膚のあちこちに触れた。くちづけをして、舐めて、咬んで、子渼をどろどろにした。飲まされた媚薬のために身体はもとより熱を溜めていて、それに浮かされるように子渼は
不可抗力で為してしまった交情――……けれどもそれは、そういったことにまるで耐性のなかった子渼にとって、癖になってしまいそうなほどにあまやかだった。
いまのこのおかしな感情は、きっと、そのせいもあるのだ。
「……ん……んぅ」
いつの間にか、もう片方の手は深衣の
子渼だって成年男子だから――ごく
「……明、暁……」
口にしてみた途端、愉楽と、背徳感と、それから物足りないきもちとが、ぜんぶ
あ、あ、と、嬌声みたいな声を漏らしながら、子渼は涙目になって、己の熱を握り込んで
なんだこれ、と、おもう。
思うのに止まらなくて、だがら、ぬち、にゅちゅ、と、濡れた音を立てつつ
「は……ぁ……」
瞼を持ち上げてもなんだか視界がぼんやりとかすんでいるのは、熱に眸が濡れてしまっているからだろう。どうしてくれるんだこの気持ちを、この身体を、と、いまここにいない相手に対して思い切り毒づきたい気分が、子渼の中には渦巻いていた。
汚れた指をむなしい気持ちを持て余しつつ手巾で拭い、子渼は涙目のまま
そのとき、きぃ、と、音を立てて、居間のほうの扉が開く気配がした。