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3-6 不思議な衝動

「ねえ、明暁。彼は……唯基ゆいきどのは、どうなるのですか?」


 連行されていく唯基の背を見送って、子渼は声に憂いを滲ませた。


 やったことは罪なのかもしれない。が、幸い、人的・物的被害は少ないはずだった。


 そのうえ、唯基の抱えた事情には同情する余地があったようにも思うから、もしも可能ならば、寛大な処分を下してほしい。子渼はそう願わずにはいられなかった。なんとかしてやれるなら力になってやってくれないか、と、眸に懇願の色を浮かべる。


「……お前を刺した相手なのに、わざわざ心配してやる必要があるか?」


 明暁はそんな子渼を見ると、すこしだけ呆れたように嘆息した。が、そも、珞安らくあんの外へ出す、故郷へ帰ったら云々うんぬんと、先程そう言っていたのは明暁自身のほうだ。唯基を故郷へ返すつもりがあるくせに敢えてそんな言い方をするのはいったい何なんだ、と、だから子渼はわずかに頬を膨らませた。


「そりゃあ、ふつうに心配しますよ。とても気の毒じゃないですか、彼」


 さらりと答えると、明暁は、ふ、と、まるで眩しいものでも見るかのように目を細めた。それからもう一度、今度はすこしだけ長い息を吐く。


「衝動的な犯行のようだしな。さすがにそのまま無罪放免とはいかないが、共犯の有無などを取り調べた上で疑いが晴れれば……皇都からの永久追放くらいが妥当だろう」


 それを聴いて、子渼は、ほ、と、安堵した。


 けれども気がゆるんだ途端、忘れていた左肩の痛みを思い出す。眉を寄せて、肩を押さえると、それを見た明暁が顔を曇らせた。


「傷は? 見せてみろ」


 そう言って、こちらの袷を肌蹴はだけようとしてくる。子渼は慌てた。


「平気です。読書人ですからね。ちょっと痛み慣れしていないだけで、ぜんぜん、たいしたことはないと思います。ええ、舐めておけば治る程度で」


 明暁があまりに心配そうな顔をしているので、敢えて冗談めかして言ったのだが、けれどもその途端、相手はこちらの肩を剥き出しにすると、傷をたしかめるようにまじまじと見た。


 それから眉を顰めると――何を思ったのか――そこに顔を寄せて、あまつさえぺろりと舌を這わせてくるではないか。


 子渼は、ひゅ、と、息を呑む。


「なっ、ちょっ、あなた! ……本気で舐めるやつがいますか?!」


 言葉のあやなのにあんなものは、と、子渼はすっかり慌てふためいてしまった。反射的に明暁の頭を押して引き剥がそうとすると、子渼の傷口のはだにふれていたくちびるはすぐに離れたのだが、その頃には、子渼の耳はもう真っ赤に染まっていた。


「な、なにするんですか、いきなり」


 さっとあわせを整えながら、明暁を睨む。


 が、相手は子渼をからかうためにやったわけでもないらしく、どこか腹立たしげに、あるいは苦しげに、凛々りりしい眉を寄せていた。


「なぜ……俺などかばったんだ」


「え?」


「お前は毎度毎度……無謀をするな、文人のくせに」


 明暁は子渼を責める。その言い方がちょっとしゃくさわって、子渼は、ふん、と、そっぽを向いた。


「だって身体が勝手に動いてしまったんだから、仕方がないでしょう。どうせあなたは、私に庇われずとも無事だったでしょうよ。ええ、ええ、無駄なことで怪我をした私を、たいそう莫迦ばかだとお思いなんでしょうね!」


 そんな憎まれ口を叩いたが、対する明暁は、ずっと険しい表情のままだ。眉間に皺を寄せたままで子渼を見詰め、二度とするな、と、強く言った。


「俺のために危険を冒すな。傷つくな。――頼むから」


 切実な声だった。


 それが胸に詰まるようで、子渼は明暁に向き直り、苦悶くもんの表情で眉間に皺を寄せている相手を、じっと見上げる。


「そんなこと言われたって……また同じような場面に出会ったら、身体が勝手に動いてしまうかもしれません」


 困ったように言ってみたが、それでも明暁は――まるで頑是がんぜ無い幼童のように――だめだ、と、首を横に振った。


「お前がそんなことをする必要はない」


「あのね。必要とか、そういう問題じゃないですよ。っていうか、必要どうこう言うんだったら、あなただって、そんな義理はないのに、私を助けてくれたじゃないですか」


 子渼は明暁が酒家のみや破落戸ならずものから救い出してくれた時のことを思い出す。


「ねえ、明暁。あのときね、私たちの間には、縁が出来たと思うんです」


 ひとたび縁の糸が結ばれた以上、もう他人ではないのだ。だから、子渼は明暁の身が危なかったり、彼が困っていたりしたら、放ってはおけない。自分に出来る限りのことをしたいと思ってしまう。


 それは、いったい、いけないことなのだろうか。


「赤の他人じゃないんですから、水くさいことを言わないでくださいよ」


 すこしだけねたようにくちびるを尖らせ、けれど刹那ののちには破顔して、子渼は目を細めて明暁を見詰める。明暁はまだ何かを言いかけたようだったが、結局は口をつぐんだ。


 そのとび色の眸に、刹那、なんともたまらなさそうな色がちらつく。


 次の瞬間、相手のてのひらが伸びてきて、子渼の後頭部をやさしく捕らえていた。


「どうしたんですか……?」


 いきなりなに、と、そんなことを思った時には、相手の顔がすぐ間近だった。


 はた、はたり、と、ぼんやりとしたままで子渼が二度ほど瞬く間に、明暁のくちびるは子渼のそれにそっと触れ、そのまましっとりと重なっていた。


「……ん……」


 吃驚びっくりして目を瞠り、けれども子渼はすぐにまぶたを伏せていた。どうしてそうしたのか、自分でもわからない。ただ、ついばむようにふれた相手のくちびるはあたたかくて、心地よくて、もっと深く重ね合わせたい衝動にさえ駆られていた。


「あ……」


 くちびるが離れたときには、惜しいとすら思う。


 吐息が混ざりあう距離の彼我ひがの間で、空気が甘くふるえた。


 間近に目を見交わして、はぁ、と、濡れた呼吸いきをももらし、その刹那、急に互いに我に返って、ふたりは弾かれるように離れた。


「っ、事案もとりあえず片づいたし、府宅やしきに帰るか」


 明暁が早口に言う。


「え、ええ」


 頷きつつも、子渼はどこか、ぼう、と、ほうけていた。


 いまのはなんだったのだろう、と、思う。くちづけだった、と、おもう。


 けれどもなぜ、と、そんなことを考えつつ、先に歩み出した明暁の背を盗み見て、子渼は頬を染めた。


 どうしてくちづけなんか、と、明暁に問うてみる勇気は、ない。ちら、ちら、と、相手の様子を窺い見ながら、子渼は黙ったままで、ただ明暁の背を追って歩を進めた。


 明暁は振り返らない。おかしな間と、微妙な距離とが、ふたりの間に横たわっていた。


 鼓動がうるさい。血が沸騰しているように、顔が熱くてたまらなかった。


 だからいっそ、明暁がこちらを見ないのも、すこし離れて歩くことが出来ているのも、ちょうどいいのかもしれない。


 子渼は、ほう、と、濡れた吐息を漏らした。


 そのまま路地を抜け、角を曲がり、広途おおどおりに出たときだ。


「――公子わかぎみ


 すっと明暁に近づいたのは、誰か、貴人の侍女かと思わしき身形みなりの女性だった。


 明暁はふと足を止める。子渼も、その斜め後ろに控えるような位置で立ち止まった。


「どうした?」


「我が主が、あちらに」


 侍女は、ちらり、と、路の向こうに停まった馬車へと控えめな眼差しを送る。明暁はその視線を追うようにし、子渼もまつられてた馬車のほうを見た。


 小窓が開き、中にいた人物がわずかに顔を覗かせる。薄いしゃで口許を覆っているが、どうも、妙齢の女性のように思われた。


 こちらを見ると、彼女は意味深に目を細める。


公子わかぎみにお話し申し上げたいことがあられるとの仰せにございます」


 侍女が女主人に成り代わるかのように告げた。


「……わかった、行く。――子渼」


 明暁が不意にこちらを振り向く。


「先に府宅やしきへ戻っていろ。爺に言って、傷の手当をしてもらえ」


「わかりました。――あなたは?」


「所用だ。遅くなるかもしれんから、気にせず先にやすめ。爺にも、そう」


「……はい」


 子渼は曖昧なきもちで頷いた。


 ちらりと馬車の中の女性ひとを見ると、彼女は子渼のほうを見て、わずかに微笑したようだ。


 明暁が馬車のほうへと歩いていく。小窓のところで女性と、二言三言、会話を交わしてから、馬車の中へ乗り込んで行った。


 そして馬車は走り出す。


 その場に立ち尽くした子渼は、なんだか胸の辺りに言葉にしがたいもやのようなきもちが渦巻くのを感じた。


 それを追い払うように、ふるふる、と、かぶりを振る。


 気を取り直して再び帰途に着いたものの、先程親しげに言葉を交わしていたふたりの姿は、すぐにまた子渼の脳裏に蘇った。釈然としない、いやな気分に、子渼は道端の小石をちいさく蹴った。

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