「ねえ、明暁。彼は……
連行されていく唯基の背を見送って、子渼は声に憂いを滲ませた。
やったことは罪なのかもしれない。が、幸い、人的・物的被害は少ないはずだった。
そのうえ、唯基の抱えた事情には同情する余地があったようにも思うから、もしも可能ならば、寛大な処分を下してほしい。子渼はそう願わずにはいられなかった。なんとかしてやれるなら力になってやってくれないか、と、眸に懇願の色を浮かべる。
「……お前を刺した相手なのに、わざわざ心配してやる必要があるか?」
明暁はそんな子渼を見ると、すこしだけ呆れたように嘆息した。が、そも、
「そりゃあ、ふつうに心配しますよ。とても気の毒じゃないですか、彼」
さらりと答えると、明暁は、ふ、と、まるで眩しいものでも見るかのように目を細めた。それからもう一度、今度はすこしだけ長い息を吐く。
「衝動的な犯行のようだしな。さすがにそのまま無罪放免とはいかないが、共犯の有無などを取り調べた上で疑いが晴れれば……皇都からの永久追放くらいが妥当だろう」
それを聴いて、子渼は、ほ、と、安堵した。
けれども気がゆるんだ途端、忘れていた左肩の痛みを思い出す。眉を寄せて、肩を押さえると、それを見た明暁が顔を曇らせた。
「傷は? 見せてみろ」
そう言って、こちらの袷を
「平気です。読書人ですからね。ちょっと痛み慣れしていないだけで、ぜんぜん、たいしたことはないと思います。ええ、舐めておけば治る程度で」
明暁があまりに心配そうな顔をしているので、敢えて冗談めかして言ったのだが、けれどもその途端、相手はこちらの肩を剥き出しにすると、傷をたしかめるようにまじまじと見た。
それから眉を顰めると――何を思ったのか――そこに顔を寄せて、あまつさえぺろりと舌を這わせてくるではないか。
子渼は、ひゅ、と、息を呑む。
「なっ、ちょっ、あなた! ……本気で舐めるやつがいますか?!」
言葉のあやなのにあんなものは、と、子渼はすっかり慌てふためいてしまった。反射的に明暁の頭を押して引き剥がそうとすると、子渼の傷口の
「な、なにするんですか、いきなり」
さっと
が、相手は子渼をからかうためにやったわけでもないらしく、どこか腹立たしげに、あるいは苦しげに、
「なぜ……俺など
「え?」
「お前は毎度毎度……無謀をするな、文人のくせに」
明暁は子渼を責める。その言い方がちょっと
「だって身体が勝手に動いてしまったんだから、仕方がないでしょう。どうせあなたは、私に庇われずとも無事だったでしょうよ。ええ、ええ、無駄なことで怪我をした私を、たいそう
そんな憎まれ口を叩いたが、対する明暁は、ずっと険しい表情のままだ。眉間に皺を寄せたままで子渼を見詰め、二度とするな、と、強く言った。
「俺のために危険を冒すな。傷つくな。――頼むから」
切実な声だった。
それが胸に詰まるようで、子渼は明暁に向き直り、
「そんなこと言われたって……また同じような場面に出会ったら、身体が勝手に動いてしまうかもしれません」
困ったように言ってみたが、それでも明暁は――まるで
「お前がそんなことをする必要はない」
「あのね。必要とか、そういう問題じゃないですよ。っていうか、必要どうこう言うんだったら、あなただって、そんな義理はないのに、私を助けてくれたじゃないですか」
子渼は明暁が
「ねえ、明暁。あのときね、私たちの間には、縁が出来たと思うんです」
ひとたび縁の糸が結ばれた以上、もう他人ではないのだ。だから、子渼は明暁の身が危なかったり、彼が困っていたりしたら、放ってはおけない。自分に出来る限りのことをしたいと思ってしまう。
それは、いったい、いけないことなのだろうか。
「赤の他人じゃないんですから、水くさいことを言わないでくださいよ」
すこしだけ
その
次の瞬間、相手のてのひらが伸びてきて、子渼の後頭部をやさしく捕らえていた。
「どうしたんですか……?」
いきなりなに、と、そんなことを思った時には、相手の顔がすぐ間近だった。
はた、はたり、と、ぼんやりとしたままで子渼が二度ほど瞬く間に、明暁のくちびるは子渼のそれにそっと触れ、そのまましっとりと重なっていた。
「……ん……」
「あ……」
くちびるが離れたときには、惜しいとすら思う。
吐息が混ざりあう距離の
間近に目を見交わして、はぁ、と、濡れた
「っ、事案もとりあえず片づいたし、
明暁が早口に言う。
「え、ええ」
頷きつつも、子渼はどこか、ぼう、と、
いまのはなんだったのだろう、と、思う。くちづけだった、と、おもう。
けれどもなぜ、と、そんなことを考えつつ、先に歩み出した明暁の背を盗み見て、子渼は頬を染めた。
どうしてくちづけなんか、と、明暁に問うてみる勇気は、ない。ちら、ちら、と、相手の様子を窺い見ながら、子渼は黙ったままで、ただ明暁の背を追って歩を進めた。
明暁は振り返らない。おかしな間と、微妙な距離とが、ふたりの間に横たわっていた。
鼓動がうるさい。血が沸騰しているように、顔が熱くてたまらなかった。
だからいっそ、明暁がこちらを見ないのも、すこし離れて歩くことが出来ているのも、ちょうどいいのかもしれない。
子渼は、ほう、と、濡れた吐息を漏らした。
そのまま路地を抜け、角を曲がり、
「――
すっと明暁に近づいたのは、誰か、貴人の侍女かと思わしき
明暁はふと足を止める。子渼も、その斜め後ろに控えるような位置で立ち止まった。
「どうした?」
「我が主が、あちらに」
侍女は、ちらり、と、路の向こうに停まった馬車へと控えめな眼差しを送る。明暁はその視線を追うようにし、子渼もまつられてた馬車のほうを見た。
小窓が開き、中にいた人物がわずかに顔を覗かせる。薄い
こちらを見ると、彼女は意味深に目を細める。
「
侍女が女主人に成り代わるかのように告げた。
「……わかった、行く。――子渼」
明暁が不意にこちらを振り向く。
「先に
「わかりました。――あなたは?」
「所用だ。遅くなるかもしれんから、気にせず先にやすめ。爺にも、そう」
「……はい」
子渼は曖昧なきもちで頷いた。
ちらりと馬車の中の
明暁が馬車のほうへと歩いていく。小窓のところで女性と、二言三言、会話を交わしてから、馬車の中へ乗り込んで行った。
そして馬車は走り出す。
その場に立ち尽くした子渼は、なんだか胸の辺りに言葉にしがたい
それを追い払うように、ふるふる、と、
気を取り直して再び帰途に着いたものの、先程親しげに言葉を交わしていたふたりの姿は、すぐにまた子渼の脳裏に蘇った。釈然としない、