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3-4 吐露

 三年前、まさに科挙が行われんとしていた貢院。


 その門前で、皇帝に向かって投げつけられた爆発物。


 咄嗟とっさにそれを抱えたこく成駕せいがは、皇帝から危険なものを遠ざけるため、群衆のほうへと駆けた。


 そこで、竹筒は爆裂した。


 その衝撃と、中に詰められていた石や金属片などが当たって、集っていた周囲の人間に、少なくない被害が出た。


 それは、確かだ。


 当の子渼だとて、その際に怪我を負い、その後しばらくは床にせることを余儀なくされた。


 だが、子渼は今日まで、成駕を責める声があったことなどまるで知らなかった。起き上がれるようになった子渼は、そののち、ほとんど間を置かずに皇都を離れた。ために、耳にする機会がなかったのだろう。


 成駕があの時にとった行動は、皇帝の護衛官としては、当然のものといってもいいだろう。


 だが、人々は、そうは思わなかったのだ。


 重たい沈黙の中、成駕の弟である|唯基が、はっ、と、鼻で嗤うような声を出した。


錦衣衛きんいえいなら……そうした兄への誹謗を、知らないわけが、ない」


 嘲るような響きを帯びた言葉は、いま自分を押さえ込んでいる明暁に向けられたもののようだった。


 唯基は身を捻り、明暁を睨もうとする。明暁はまだ押し黙ったままだったが、かといって、あおり立てられて憤慨し、唯基を痛めつけるような行動にも出なかった。


 だからだろうか、唯基はなおも言葉を続ける。


「なぜだったんだ? 兄は陛下の侍衛として、務めを果たしただけのこと。陛下から危険を遠ざけるため、あの瞬間考え得た、最善の行動を行動を取った……一命を、してまで。それなのになぜ……あんなふうに、そしりを受けなければならなかった? 挙げ句……」


「挙げ句……?」


「三年経って、実際に見た貢院は……兄が死んだ場所は、まるでそんな事件などなかったかのように、何事もなくたたずんでいて……兄の献身を忘れ去ったかのごときその平穏が……僕には、たまらなかった」


 唯基の声の最後のほうはもう、嗚咽おえつを噛むようなものになっていった。


 子渼の胸は詰まった。


「それで……火をつけたのですか」


 子渼の問いに、今度黙したのは唯基だった。その沈黙もだもまた、間違いなく、肯定のそれだったろう。


 顔を伏せてしまった唯基の、どこにもぶつけようのない、だからこそ行き場を失って彼の中で蜷局とぐろを巻いた鬱屈うっくつ、恨み、つらみ。わからないではなかった。否、子渼にとっても、確実に覚えのある感情だった。


 子渼だとて、一時期、誰かにぶつけるには理不尽な、けれどもどうしようもない憤りや苛々いらいらを――たぶんそれは、運命さだめとか呼ばれたりするものへの想いだったのだろうが――抱えていた。


 そしてそれは、あの事件で友人を失った明暁も、きっと同じなのだ。彼もまた、いまなお、黒成駕の死に対して割り切れない思いを抱き続けている。


 自分たちは、同じではなくとも、似たような悲しみを、そこからくる怒りを、互いに抱いている者同士だ。


 それなのに、一方は咎め立てなければならない者となり、もう一方は罪せられる立場とに分かたれて、いまこの同じ場にいる。そのことが、なんとも切なくてならなかった。


「……忘れてなど、おりませんよ」


 気がつくと子渼は、誰にともなく、そんなふうに呟いていた。


 唯基が子渼のほうへ無言の視線を向けてくる。子渼はその眸をじっと見返すと、今度はもうすこしきっぱりと言葉を紡いだ。


「忘れてなど、おりません。なかったことになんか、していない」


 いまこの場にはいないけれども、もうひとり、黒成駕のことをなお心に留めているはずの人物がいる、と、子渼はそう思った。


「すくなくとも……陛下は、あなたの兄上の献身を、尊い犠牲を、お忘れになってなど、おられないと思います」


 その事実がすこしでも唯基の心を慰めればいい、と、そんな願いから、子渼は皇帝のことを口に出した。


 けれども唯基は、ははは、と、また乾いた嘲笑を漏らし、嘲るように口を歪めた。


「いったい何を根拠に?! 忘れているに決まっているさ。皇帝とは、そういうものじゃないか! 自分が犠牲にしたものを、いちいち、覚えてなどいるわけがないっ!」


 唯基は主張したが、いいえ、と、子渼は首を振った。


「陛下はきっと覚えていらっしゃいます。だって、そうでなければ……」


 言いながら、明暁のほうへ視線を巡らせた。


「今回の案件の調査に、わざわざ、あなたの兄上の友であった人をあてがったりは、なさらなかったはずです」


「兄の、友……?」


 唯基が顔を上げる。子渼はそれにしっかと頷いて見せた。


「明暁も……彼もまた、あなたの兄上の死を、いまも忘れずいたみ続けているひとりです。夢に見てうなされるほどに、です。陛下は、いくらもいるはずの錦衣衛の中でも、そんな彼に敢えて調査をさせることになさった。そんな彼だったからこそ、なのかもしれません……それこそ、陛下がいまもあなたの兄上を想い、悼んでおられる証左ではありませんか?」


「はは……莫迦ばか、じゃないの……皇帝が、強大な権を握る国主が、臣下ひとりの死に、心動かされたりするものか」


 唯基は眉を寄せて否定したが、子渼はやはり強い口調で、そんなことはない、と、言い切った。


「そんなことは、ぜったいに、ありません。陛下は民を大切に想う御方。万民の父たる国主だからこそ……ひとつの犠牲とて仕方なしとはせず、いつもそのお心に留め続けていらっしゃるはず。すべて背負おうとなさっているはずです。――そうですよね、明暁。陛下をご存知のはずのあなたからも、何か言って」


 子渼は促すように、あるいは請うように、明暁を見る。


 相手はしかめ眉の、何とも複雑な表情で沈黙していたが、子渼の眼差しを受け、何か心を決めるように、ひとつちいさく深呼吸した。


 不意に、唯基を押さえ込んでいる腕をゆるめる。


 唯基がはっと息を呑み、怪訝けげんそうな表情をした。けれどもそれには構わず、明暁は続けて完全に唯基の拘束を解いてしまった。


「なんの、つもりなんだ……」


 警戒を顕わにしつつも、唯基がすこしだけ身を起こす。


「暴れるか逃げようとすれば、もちろん、また捕える。――が、そんな気配は、もうお前からは感じないというだけだ」


 拘束の必要はない、と、明暁はそう言った。が、子渼には、ほんとうはただ明暁の誠意がその行動をとらせたように思えた。


 相手を地面じべたに抑え込んだままする話ではない、と、明暁はきっとそう思ったのではないのだろうか。その証拠に、唯基を真っ直ぐに見る明暁のとび色の眸は、真摯そのものだった。


「命をかけて守られていながら、その縁者に結果的にこんなことをさせてしまう……その非、責は皇帝こそにあり、皇帝の負うべきとがだと、俺は思う」


 我が主を批判するような明暁の言葉に、唯基は一瞬、驚いたようだ。ちいさく目を瞠って息を呑んだが、明暁はそのまま言葉を続けた。


「我が友、黒成駕は、身をていして皇帝を守った。確かに怪我人を出しはしたが、もしも投げ込まれたそのままの場所で爆裂が起きていれば、あるいは貢院の門が破壊されて倒れ、もっと多くの犠牲者を出していた可能性もあっただろう。あれは間違いなく、勇敢な、称賛されるべき行動だった。誰がなんと言おうと、だ。だからこそ……当時、そう声高に言って、成駕をたたえることができなかった皇帝は、どこまでも腑抜ふにけだ。いまさら悔いても遅い。成駕を忘れずに心に留めているくらいで赦されることでもないだろう。お前の怒りはもっともだ。だから……いまから俺が言うことは、お前を、もっと苛立たせるかもしれないが」


 そこまで言って、明暁は、ひとつ息を吸って、吐いた。


「それでも……あれの友として、いまこそ、言わせてほしい。――我が身を犠牲に国主を守り、臣民の被害を最小限に留めた黒成駕は、誇るべき英雄だった。心からの感謝と、尊崇を捧げる」


 皇帝の名にいて、と、そう最後に付け加えた明暁は、ゆっくりと頭を下げた。


 唯基は何か言いかけたようだが、そのまま口をつぐみ、放心したかのように動かなくなる。そんな唯基の前に、明暁は懐から取り出した玉佩ぎょくはいを差し出した。


 子渼にも見覚えのある品だ。皇帝が普段身に着けているものだ、と、そう言って、昨日は子渼に貸してくれていたものだった。


「故郷へ戻ったら……成駕への手向たむけに」


 静かな声で言う。


 皇帝の私物を一介の錦衣衛が他者に勝手に与えて良いのか、と、子渼はふと思ったが、とはいえ、明暁の行為を咎め立てする気持ちには、いまはなれなかった。きっと今上帝も、経緯いきさつを知れば、殊更に責めたりはしないだろう。そう思っておくことにした。


 唯基は戸惑っているようだった。明暁が差し出す玉佩を、すぐには、受け取れないままに固まっている。その眸に揺れる複雑な感情を見て取って、子渼は痛ましい気持ちになった。


「どこにもぶつけどころのない感情が渦巻いて……苦しい、ですよね」


 ふと、呟いてしまっている。


「図らずもあの事件の場に居合わせてしまって、いろいろと人生計画が狂った私も……最初は、そうでした」


 子渼が言うと、唯基は驚いたように目を瞠った。


「とっておきのおまじないを、教えましょうか」


 子渼はちいさく、苦笑するようにわらう。


「そういうときはね、唯基どの、皇帝死ねって、あえて口に出して言ってみると良いです。ちょっとだけ、すっきりしますから。いろいろうまくいかなくて、腹が立ったり、気分が沈んだり、暗い気持ちになってしまったりするときには、私、そうしています。澱んだ気持ちなんて、胸に溜めておいても、良いことなんか、ないですから。ちょっとでも発散させてやれば、楽になります。だいじょうぶ、陛下はおやさしく、大きな御方ですから、下々の私たちのちっぽけな恨み辛みくらい、広いお心で受けとめてくれるはずです。――ね、明暁? あなたも見逃してくれますよね」


 子渼が問いかけると、明暁は困惑げに、沈黙した。それを黙認と取ることとして、子渼は再び、唯基に語りかける。


「ほら、いま、ちょっと言ってみましょう」


「……」


「私も言いましょうか? ――くそったれ。皇帝死ね」


「………………しね」


 つぶやいた唯基は、それから、くしゃりと顔を歪めた。


「皇帝、死ね……死んで、しまえ」


 子渼は、ほう、と、息をつく。


「そうそう。――内に溜めてしまわないで、そうやって解き放ってやると……ちょっと落ち着いて、冷静にもなれる。恨みに心を支配されていない、本当の自分の気持ちが、見えてくるような気がしませんか?」


 ゆっくりと問うと、唯基はきゅっと唇を引き結ぶ。俯く彼の肩が、小刻みにふるえた。


「……兄さん」


 唯基が、ぽつ、と、こぼす。


「兄さんが命懸けて守った人に、死んでしまえなんて……やっぱり、おもえない、や。だって、そんなの……黄泉で、兄さんが、怒っていそうで……兄さん」


 声に、嗚咽が交じる。


「――……成駕の墓前に、これを」


 明暁が再び玉佩を差し出すと、今度は唯基は、躊躇いながらもそれを受け取った。


「兄さんが一命を賭して守った人は、いまも、兄さんを悼んでくれている」


 たしかめるように口にしながら玉佩を胸に押し戴く唯基の姿をしばらく黙って見詰めていた明暁は、やがて、口許に手指を当て、ひゅう、と、指笛を鳴らした。


 すると、どこからともなく、黒衣の青年がふたり現れる。草の者がついている、と、明暁が先程そう言っていた者たちだろう。


「お呼びですか」


「この者を連行せよ。――いったんは俺の預かりに。調べが済み、問題がなければ、珞安らくあん城外へ出す」


御意ぎょい


 短く応じ、青年等は唯基の身体を抱き起こすと、力なくうなれる彼を連れていった。

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