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3-3 包丁と君子

 明暁が出掛けた後――他に特別に命じられたことも、頼まれたこともなかったので――子渼は昼頃まで、昨日の続きで資料の読み込みをしていた。一段落ついたところで軽く昼食を取り、それから、気分転換も兼ねて院子なかにわに出る。


 外は青く澄んだいい天気だった。


 降り注ぐ真昼の太陽を浴びていると、そういえば洗い物をしておかなければ着るものがなくなってしまう、と、不意にそんなことに思い至った。


 明暁の調べがどう進んでいるのか、もちろん、気にはなる。しかしここで子渼が気を揉んでいたところで何ら彼の助けになることもないので、それならいっそいまのうちに洗濯でも済ませておくか、と、子渼はいったん房間へやへと戻った。取ってきたのは小衫したぎである。


「黄さん、桶をひとつ貸していただけませんでしょうか」


 府宅やしきの南側、花垂門の並びにある御座房に声をかけた。特別なことがなければ、黄老はいつもその房間へやに控えていると言っていたからだ。


「はあ、桶でございますな。すぐに用意いたしましょうが、何にお使いで?」


「洗濯をしようかと」


 手にある洗い物を示して見せると、ああ、と、老爺は頷いた。


「それでしたら、この爺がいたしましょうほどに。そのままお貸しくださいまし」


 雑用ならば自分がやる、と、相手ははそう申し出てくれたが、子渼はゆるゆると首を振った。


「自分のものくらい自分で洗います。それでなくとも、お世話になっている身なのですし」


 にこやかに微笑むと、さようでございますか、と、老爺も表情をゆるめた。


「しかし、柳どのは珍しい御方にございますな。先日はくりやで調理もされた様子にございましたが、普通、読書人はそうした家事など進んではせぬものにございましょう? 俗に、君子は庖丁ほうちょうを遠ざくとも申しますが」


「そういわれれば、たしかにそうかもしれませんね」


 子渼は笑った。


「私は特に苦になりませんが。むしろ、君子こそ庖丁を持つべきと思うこともありますし」


「ほう。なぜにございますかな」


 黄老は用意した桶を子渼に手渡してくれながら、そんなふうに訊ねてきた。


 受け取った子渼は、そうですね、と、うまい言葉を探して、虚空に視線をさまよわせる。


「調理をしていると、私たちはひとりで存在しているのではないと、感じるからかもしれません。生命いのちをいただきながら、たくさんのものの犠牲の上に、はじめて生きていられるのだと、そう実感される……だから、ですかね。――忘れてはならないことだと思うので」


 そう答えて子渼はひとつ息を吐いた。


「人の上に立ち、まつりごとに携わる者は、すなわち民に否応なく犠牲を強いることになるものです。徴税ひとつとっても、そう。民が必死に働いて得た実りを、国は取り上げるわけですから。兵役ともなれば、時に、たったひとつしかない生命いのちをも差し出させます」


「しかし……そのかわりに国は、民がひとりでは出来ぬ大きなことを、民に施すものでございましょう」


「そのとおりです。ただ、それでも……犠牲を強いたという事実は決して変わらないし、忘れていいものではないと、私は思っています。くりやに立って、魚をさばき、肉を断ち、菜を刻むその瞬間には、何かを犠牲にしてしか成り立つことのないこの世界と、世界を成り立たせるために日々犠牲になっていくものを想うことが出来るような気がして……私は、そういう瞬間を、たいせつにしたいなと思うのです。だから、敢えて庖丁を遠ざけたいとは思わないのかもしれません」


 言ってから、つい偉そうな口をきいてしまって、と、子渼ははにかんだ。いえいえ、と、黄老は笑みを深める。 


公子わかぎみは、まったく、善い御方とお知り合いになられたようにございますな。かなうならば、柳どののような御方にこそ、ずっと公子わかぎみの傍にいていただきたいものですが」


 目を細めてしみじみとこちらを見る老爺の姿に、子渼は首を傾げた。


「どういうことですか?」


「いえ、なに……」


 黄翁はやや口籠ってから、どこか遠くを見るような眼差しをしてみせた。


公子わかぎみはいま、ずいぶんと重たいものを、ひとり気を張って背負っておられましてな。柳どののような御方がお側でお支えくだされば、張りつめきって、いまにも切れそうになっている公子のお心も、すこしは、やすまりますものをと、ふと思いましたので」


 そう言う老爺は、どこか痛ましげだった。


「それは……」


 子渼は黄老の意図するものを更に問おうとして、しかし結局、口をつぐんだ。


 今朝の明暁とのやりとりを思い起こす。明暁は三年前の事件の折、友を亡くしたのだと言っていた。そしていま、そのときと同じく科挙の期間に貢院で起きた小火ぼやの件を追っている。きっと様々に思うところがあるちがいない、と、苦しげだった彼の表情を思った。


 だから問うかわりに、子渼は老爺に誓ってみせることにする。 


「お世話になっておりますし、私の出来る精一杯で、明暁の力になろうと思います」


 事件解決に力を尽くす、と、そう言ったとき、不意に表の門の開く音が聞こえてきた。


 黄老とそろって御座房から出ると、ちょうど明暁が花垂門をくぐって前院まえにわのほうから姿を現したところだった。


こく唯基ゆいきの逗留先が判明した」


 子渼の姿を見留めるなり、明暁は端的にそう言った。


「俺は行くが、お前、どうする」


 訊ねられ、もちろん行きます、と、子渼は即座に答えた。


 が、手には洗おうと思っていた小衫したぎと、借り受けたばかりの桶とを持ったままである。どうしたものか、と、困ったように刹那それらに視線を落としたが、すぐに隣から皺深い手が伸びてきた。


「爺がやっておきましょうほどに」


 黄老が穏やかな声で請け負ってくれ、すみません、と、子渼は頭を下げる。


「お言葉に甘えて、お願いいたします。ありがとうございます」


「お任せあれ」


 にこやかに言って、それから今度、老爺は明暁のほうへ視線を巡らせた。


公子わかぎみ、配下の方々にご連絡はいかがいたしますか?」


荒事あらごとにするつもりはないから、いまついている草の者で足りる」


「さようですか。――おふたりとも、どうぞお気をおつけになって」


「ありがとうございます。行って参りますね」


 老爺にはそう言いおいて、子渼は明暁と共に府宅やしきを出た。

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