明暁が出掛けた後――他に特別に命じられたことも、頼まれたこともなかったので――子渼は昼頃まで、昨日の続きで資料の読み込みをしていた。一段落ついたところで軽く昼食を取り、それから、気分転換も兼ねて
外は青く澄んだいい天気だった。
降り注ぐ真昼の太陽を浴びていると、そういえば洗い物をしておかなければ着るものがなくなってしまう、と、不意にそんなことに思い至った。
明暁の調べがどう進んでいるのか、もちろん、気にはなる。しかしここで子渼が気を揉んでいたところで何ら彼の助けになることもないので、それならいっそいまのうちに洗濯でも済ませておくか、と、子渼はいったん
「黄さん、桶をひとつ貸していただけませんでしょうか」
「はあ、桶でございますな。すぐに用意いたしましょうが、何にお使いで?」
「洗濯をしようかと」
手にある洗い物を示して見せると、ああ、と、老爺は頷いた。
「それでしたら、この爺がいたしましょうほどに。そのままお貸しくださいまし」
雑用ならば自分がやる、と、相手ははそう申し出てくれたが、子渼はゆるゆると首を振った。
「自分のものくらい自分で洗います。それでなくとも、お世話になっている身なのですし」
にこやかに微笑むと、さようでございますか、と、老爺も表情をゆるめた。
「しかし、柳どのは珍しい御方にございますな。先日は
「そういわれれば、たしかにそうかもしれませんね」
子渼は笑った。
「私は特に苦になりませんが。むしろ、君子こそ庖丁を持つべきと思うこともありますし」
「ほう。なぜにございますかな」
黄老は用意した桶を子渼に手渡してくれながら、そんなふうに訊ねてきた。
受け取った子渼は、そうですね、と、うまい言葉を探して、虚空に視線をさまよわせる。
「調理をしていると、私たちはひとりで存在しているのではないと、感じるからかもしれません。
そう答えて子渼はひとつ息を吐いた。
「人の上に立ち、
「しかし……そのかわりに国は、民がひとりでは出来ぬ大きなことを、民に施すものでございましょう」
「そのとおりです。ただ、それでも……犠牲を強いたという事実は決して変わらないし、忘れていいものではないと、私は思っています。
言ってから、つい偉そうな口をきいてしまって、と、子渼ははにかんだ。いえいえ、と、黄老は笑みを深める。
「
目を細めてしみじみとこちらを見る老爺の姿に、子渼は首を傾げた。
「どういうことですか?」
「いえ、なに……」
黄翁はやや口籠ってから、どこか遠くを見るような眼差しをしてみせた。
「
そう言う老爺は、どこか痛ましげだった。
「それは……」
子渼は黄老の意図するものを更に問おうとして、しかし結局、口を
今朝の明暁とのやりとりを思い起こす。明暁は三年前の事件の折、友を亡くしたのだと言っていた。そしていま、そのときと同じく科挙の期間に貢院で起きた
だから問うかわりに、子渼は老爺に誓ってみせることにする。
「お世話になっておりますし、私の出来る精一杯で、明暁の力になろうと思います」
事件解決に力を尽くす、と、そう言ったとき、不意に表の門の開く音が聞こえてきた。
黄老とそろって御座房から出ると、ちょうど明暁が花垂門をくぐって
「
子渼の姿を見留めるなり、明暁は端的にそう言った。
「俺は行くが、お前、どうする」
訊ねられ、もちろん行きます、と、子渼は即座に答えた。
が、手には洗おうと思っていた
「爺がやっておきましょうほどに」
黄老が穏やかな声で請け負ってくれ、すみません、と、子渼は頭を下げる。
「お言葉に甘えて、お願いいたします。ありがとうございます」
「お任せあれ」
にこやかに言って、それから今度、老爺は明暁のほうへ視線を巡らせた。
「
「
「さようですか。――おふたりとも、どうぞお気をおつけになって」
「ありがとうございます。行って参りますね」
老爺にはそう言いおいて、子渼は明暁と共に