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3-2 皇帝への感情

 淡い曙光に照らされながらこちらを見た明暁の口許は、どこか自嘲をにじませつつ、切なげに笑んでいた。


「もしや……三年前の、あの事件ですか?」


 ふと思い当たった可能性を、子渼は躊躇いつつも口にした。明暁は子渼のほうへ顔を向け、しばらくじっと子渼の眸を覗き込むようにしていた。


 が、やがてまた、すっと視線を逸らしてしまうと、今度は痛みを堪えるかのような表情を見せる。


「お前は皇帝を恨んでいないというが……俺は、ゆるせないんだ。皇帝のために傷ついたもの、失われたものを……忘れられない」


 きつく眉をひそめて言うと、彼は拳を握りしめる。ぎり、と、歯を喰いしばる音が聴こえた気がした。


「誰が何と言おうと、赦すことはない」


 言葉は絞り出すような調子で繰り返された。


 明暁は苦しそうに眉根を寄せたままだったが、その深い苦悩をたたえた表情に、ああ、だから明暁は皇帝に対して辛辣しんらつな物言いをすることがあるのだな、と、子渼は得心していた。


 たしかに彼は錦衣衛、すなわち皇帝直属の禁衛軍のひとりである。それでも、仕え、守るべき対象である皇帝に対してどこか複雑な感情を抱かざるを得ないでいるのは、明暁がかつての事件で親しい人間を失っていたがためだったのだろう。


「……すみません」


 子渼は思わず、また詫びの言葉を口にしていた。


「はは、なにをあやまるんだ?」


 明暁はこちらを見て――敢えてなのだろう――軽い笑み声と共に言った。


 その声があんまりやさしくて、その視線があんまり凪いでいて、子渼はかえって胸を締め付けられる。相手の眼差しを受けとめることができなくて目を伏せてしまうと、ただ、ふるふる、と、ちいさく首を横に振った。


 何を言っていいかわからない。しばらく、言葉を発することが出来なかった。


「あの……」


「お前は……」


 それでもなんとか言葉を絞りだそうとした子渼の声は、けれども、何かを言いかけた明暁の声と重なってしまう。互いにはっとして口を噤んだ。


 視線を交わし合う。また数瞬の沈黙が場に落ちた。


 ここで相手に発言を譲ろうとするのは逃げのようにも感じて、それでも、やっぱり言うべき言葉をまだきちんとは探せていなくて、子渼は言を継ぎあぐむ。そのまま機会を逸し、黙ってまた俯いた子渼を前に、助け船のように口を開いてくれたのは明暁のほうだった。


「お前は……強いな」


 ほう、と、吐き出す息と共に言われて、子渼は顔を上げた。


 相手の真意をつかみかね、はたはた、と、瞬く。明暁は眩しいものでも見るときのようにとび色の眸を細めていた。


「あの事件で怪我をして、少なからず人生を狂わされていながら、それでも皇帝を恨まないと言えるお前は……強い」


 繰り返された言葉に、子渼は目をみはる。切なげに笑む相手の、どこかかげのある、そして淋しそうにも見える表情に、胸が詰まった。


「そんなこと……ないです」


 子渼は明暁の袖をそっと引くようにすると、ちいさくかぶりを振って、買い被りだと否定する。明暁が、まるで自らをあざけるような、あるいは卑下するような様子を見せているのがつらくて、今度は、何か言わずにはいられなくなっていた。


「私だって……事件直後は、どこにもぶつけようのないいきどおりくらい、持っていました。自分の運命を呪い、そのくらよどんだ感情に、呑み込まれそうにもなった。はらの底で蜷局とぐろをまく重たい気持ちをなんとかしたくて、浴びるぐらい、お酒ばかり飲んでいたりもしたんです。そのときは……どうにも気持ちのもって行き場がなくて、とにかく飲まずには、やっていられませんでしたから。それこそ、酔っ払うたびに、皇帝死ねって口にしたりもして。――あなたに先日見られてしまったのは、はんぶんは、その名残というか……」


 子渼が恥じ入るように言うと、はは、と、明暁はわずかに明るい声を立てて笑った。


「だが、そのまま恨み続けることはなかった。お前は、立ち直っただろう?」


 たしかに運命を呪い、身に降りかかった不運を誰かのせいにして責めてしまいたいと思っていた時期があったのだとしも、それでもいまはそうではない、と、明暁は子渼を見てまた目を細める。


 子渼は一拍黙って、はたりと瞬いた。


 当時の己の心の中を、ゆっくりと息をしながら思い起こした。


「――……恨みに、呑まれそうになって……くるしくて、たまらなくて……その黒い感情のままに、わたし……死ねって、呟いたんですよね」


 ぼそ、と、口にする。自分の暗部をさらす行為に、ちら、と、思わず自嘲が漏れていた。


 あの頃、子渼の胸の中にあったのは、いったい何に向けた感情だったのだろう。判然としないけれども、あるいは、ままならない、理不尽な運命そのものを、子渼は恨んでいたのかもしれない。


 ただ、形なきものへ感情を向けることは、それそのものがつらいことだった。だからだろうか、そのときの子渼は、行き場のない気持ちを違うものへの感情として吐き出していた。


「皇帝死ねって……気付いたら、うなるように、呟いていました」


「昨日も言ったが……お前が皇帝を恨むのは、当然のことだと思うぞ」


「私も昨日から言っておりますが、陛下をお恨みするのは筋違いですってば。――頭では、わかっていたつもりでしたけれど……それでも、くそったれ、皇帝死ねって、私は口にしていて」


 お恥ずかしい、と、子渼はすこしだけうつむいた。


「けれどね」


 続けて口許にちいさく笑みをく。


「言ってみたら、なんというか……すごく、楽になったんです。胸の中で行き場を失くして渦巻いていた黒い感情が、言葉といっしょに、すぅっと外に出ていったようで。死ね、死ね、くそったれって、気が済むまでわめき散らして……そうしたら、あとにはやっぱり、私は国のために働きたいんだ、官吏になりたいんだっていう、最初の気持ちがちゃんと残ってた。――結局、単純なんですよね、私は」


 子渼が肩を竦めて苦笑すると、明暁は真摯な眼差して首を横に振った。


「だから、それを強いというんだ」


「だから、そんなことないですってば。買い被りですよ」


「それこそ、そんなことはない。恨みに呑まれず立ち直れたお前は、ほんとうに、強いと思う」


 繰り返し言われて、子渼は照れくささに目を伏せた。


 それから、だって、と、ちいさく呟く。


「だって、ね……どれだけ嘆いてみたって、時間は巻き戻せませんから」


 そう、微笑しながら言う。


「それは、この天下をお治めになる陛下にだって、かなわぬことです。だったらね、起きてしまったことにいつまでも囚われて、恨み辛みを募らせていても仕方がないと……そう、思います。――それに」


 言いかけて、けれどもそこで、子渼は言葉を継ぐことを躊躇う。先程考えなしの発言で明暁を傷つけてしまった気がするのに、これ以上、彼を不快にさせたくはなかった。


「なんだ?」


 こちらの躊躇を読み取ったらしい明暁が、黙った子渼に先を促してくる。それでも子渼は、もうしばらくだけ発言を迷ったが、いつまでも黙ってはいられなくて、溜め息めいた吐息と共に、意を決して、先程呑み込んだ言葉を続ける。


「それに……恨みを乗り越えてみれば、私はあらためて、どうしても陛下のお側にお仕えしたいという気持ちにもなっていました。陛下は素晴らしい方だって、あのお方の傍でこそ働きたいって。――だから、くよくよばかりもしていられないな、かんばらなければなって、奮起もできたんです。いつか皇帝に仕えたいという希望が、私を立ち直らせてくれたのかもしれません。つまり……私がいまこうしていられるのも、陛下の、おかげでもあるというか……」


 そう言うと――先に危惧きぐした通りというべきか――明暁は苦虫でも噛んだように顔をしかめた。


「はっ……陛下、ね」


 その反応は、やはりどこか小莫迦にしたようなそれだ。凪いでいた眸に暗く重たいほむらのようなものがまたちらついた。


 明暁が皇帝に対して抱くらしい鬱屈が、皇帝を慕う想いがあるだけに、子渼にはすこしだけ悲しい。


「陛下は……お優しい方です」


「ははっ、会ったこともないくせに、よくも断言できたものだな」


「あなたこそなぜ、私が陛下にお会いしたことがないと言い切れるのですか?」


 子渼がちょっとだけむっとして問うと、相手は、くすん、と、肩を竦めた。


「今上帝は、即位から今年で四年目。だが行幸ぎょうこうがあったのは、三年前の科挙の折の、ただ一度きりだ。以後はずっと皇宮の中に身を潜めて、朝議のときくらいしかおおやけに姿を見せない臆病者……そんな相手に、国官でもないお前が、どうやって会えるというんだ?」


「それは……」


 子渼は言い負かされたような気分で、言い澱んだ。


「でも、陛下が皇宮外への行幸をなさらないのは、我が身に危険があるためではないと思いますよ。自分が外へ出て、また三年前のようなことがあったら、と……それでまた無辜むこの民を巻き込むことになったら、と、それをお案じになってのことだと、私は拝察いたします」


「買い被りだろう。どんでもなく臆病なだけさ」


「慎重でいらっしゃるのです。いえ、それよりも……陛下はやはり、お優しいのです」


「だから、なぜ……そうもきっぱりと断言できるんだ」


 明暁はどこか苛立たしげでさえあった。子渼は明暁を見て、ちいさく、笑った。


「だって……三年前の事件の時、私は、陛下のお声を聴きましたから」


 それこそが、子渼が現皇帝を慕うきっかけであり、理由だった。


「怪我のために意識を失う刹那のことですけれども、いまでも、はっきりと覚えています。自分よりも民を先に救え、と、そう命じられる陛下の凛としたお声が聴こえてきて……あんな極限の状態にあっても、真っ先に民を気遣うことが出来る御方がいまの陛下なのだ、と、この陛下にこそお仕え申し上げたい、僭越ながらお側近くでお助けしたい、と、強くそう思うようになったのです。怪我のために鬱々うつうつとしているときに、そのときの陛下のお声を思い出して……そうしたら、あの御方のお側へいくためにまた頑張ろう、と、自然と思うことが出来たのです。立ち直ることが出来た。だから、いまの私があるのは、やっぱり陛下のおかげといっても過言ではないのです」


「過言だろう……たったそれだけのことで」


「人生を変える出会いなんて、時に、そういうものではないですか? もちろん、時をかけ、月日を重ねながら、きずなを結びあう関係だってあるけれど……ほら、俗に、一目惚れというではないですか。私は陛下を拝見していないので、一声惚れですけど」


 はにかむように子渼は言った。


「莫迦莫迦しい」


 それでも明暁は短く吐き捨てる。


「でも、あなただって……いま、陛下の御ために動いているではありませんか。錦衣衛としての勤めを果たしている。それはあなたが……私なんかよりずっと陛下をご存知のはずのあなたが、陛下の為人ひととなりを、わかっていらっしゃるからではないのですか、明暁。今上帝は、民を想う、立派な君主でいらっしゃる、と」


「想っていようがなんだろうが、皇帝は無辜の民に傷を負わせた。それが事実だ。赦されるべきではない」


「ですが」


こく成駕せいがは……俺の友は、皇帝を守るために、死んだ。なぜだったんだ? 皇帝が、要らぬ行幸などしたからだ……そうでなければ、あいつが命を失うことなどなかったはずなのに」


 きつく眉根を寄せた明暁が絞り出すように言った瞬間、どうしようもない衝動に駆られて、子渼は腕を伸ばした。


 気がつけば、相手の頭を抱き込んでいる。明暁は驚いたように息を呑んでいたが、したほうの子渼とて、自分の行動には戸惑っていた。


 それでも、その戸惑いとはうらはらに、相手を抱く手には力が籠る。


「誰かのためにそんなふうに心を痛められるあなたは……とても……おやさしい」


 子渼は言う。言ってから、ああそうだ、明暁はとてもやさしい、と、改めてそう思った。


 破落戸ごろつきに絡まれて危なかったところを助けてくれたし、府宅やしきからいなくなれば慌てて探しに来てくれたし、行く当てがないと知れば傍に置くことにうべなってもくれた。つくった食事だって食べてくれたし、汚い字までも読もうとしてくれた。いっそ、繊細にすぎるくらい、彼は優しいのだ。


「あなたは……やさしい」


 そう繰り返して子渼が明暁の頭を撫でると、こちらの腕の中で、相手はふと息を呑む。


 けれどもやめろと抵抗することもなく、穏和おとなしく子渼にいだかれたまま、そうかな、と、自嘲めいた響きを帯びた声だけを返してきた。


「ぐずぐずと未練たらしいだけだ。それか、とんでもない臆病者さ」


「もう! そんなふうに言っては駄目ですよ」


「事実だ。――俺はお前のようには吹っ切れない」


「明暁。あのね、私だって、もしも傷ついたのが自分ではなく大切な誰かだったら、いまもまだ陛下をお恨みしていたかもしれません。自分自身のことだったからこそ、飲んだくれて、吹っ切ることも出来ただけで……」


 そう口にしたとき、不意に、子渼は頭の隅に引っかかるものを感じた。


「黒成駕……黒……」


 呟いてはっとし、子渼は弾かれるように明暁から離れる。すぐに資料の収められている行李はこに飛びつき、目当てのものを探した。


「どうした?」


 突然のことに、明暁が戸惑うように声をあげる。


「黒という姓は珍しい。滅多とあるものではありません。でも、昨日調べた科挙の名簿の中に見た気がするのです。あるいは、亡くなったあなたのご友人の、縁者なのかもしれません……三年前の事件の、唯一の犠牲者の。だとしたら……」


「皇帝を恨んで、なにか事を為そうといてもおかしくない。――報仇あだうちか」


 明暁は真摯な表情になって、しん、と、呟いた。


「わかりません」


 子渼は判断を保留して首を振る。


「ただ……調べてみてもいいのではないかと。――ああ、これです、ありました」


 山積みの資料の中から目的の名簿を見つけだすと、それを明暁に差し出した。


こく唯基ゆいき……なるほど、出身地、年齢からして、成駕の実弟かもしれん」


 明暁はそこに綴られている内容にさっと視線を落とす。子渼を見てひとつ頷くと、そのまま――何かを調べに行くのだろう――足早に房間へやを出て行った。

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