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2-5 子渼の事情

「黙っていて、すみませんでした」


 明暁がまだ困惑げに眉を寄せているのを見て、苦笑しながら、詫びのつもりで子渼は軽く頭を下げた。


「他意もなければ、悪気もなかったのですが……そのせいで余計な心配をおかけしたようです。でも、誓って、私はなにか企んでいたりなんかしないですし、陛下に対して叛意はんいなど抱いてはおりません。信じてください」


 顔を上げて明暁の鳶色の眸を覗き込むと、相手はやがてひそめ眉をひらき、ゆっくりと目を伏せがちにした。


「俺のほうこそ……悪かった。お前の話も聞かず、一方的にお前を疑った。その……どうも、要らぬ邪推だったようだ」


 すまない、と、真っ直ぐに詫びてくれる。


「ふふ、わかればよろしい。――では、お互い様ということで、いまのことは水に流しましょう」


 子渼は目を細め、口許に穏やかな笑みを浮かべた。


 だが、そこまで言ってから、すぐに思い至ったことがある。


「っていうか、さっきのあれは、私の怪我を確かめるためですか?」


 途端に業腹がぶり返して、む、と、くちびるを尖らせた。


「傷が見たいなら、言ってくれれば普通に見せますよ。わざわざあんなふうにしなくたって」


 子渼の頭、ちょうど耳の後ろのあたりには、たしかにいまも傷痕が残っている。三年前、偶然巻き込まれることになった皇帝襲撃事件の際に負った傷だった。


 先程、明暁が子渼を抱き締め、首筋やら耳のあたりやらに愛撫めいたことをしたのは、どうやら、子渼の身体に残る傷痕を探してのことだったようだ。変に意識して損した、と、子渼は明暁の手指についうっかり熱を上げかけてしまった自分を恥じた。


 耳が熱い。顔も赤くなっているかもしれない。


 ほう、と、すこしだけ熱を帯びた息をちいさく吐いた。


「あなたと違って、慣れてないんです、ああいうの……こっちは耐性がないんですから。――いいですか、余計な接触はしないでくださいよ。こっちの心臓が持ちませんし」


 相手をなじると、明暁はすこしばかり怪訝けげんそうにした。


「耐性がないと言うが、男はなくとも、触れあうだけなら、女とたいして変わらんだろう」


「なッ! わ、悪かったですね! こちとら女性とも経験がないんです!」


 つい要らぬことまで白状してしまって、はっと口を押さえた。


 まりが悪い。が、言ってしまった言葉は今更呑み込みようもない。頬を染めつつ、明暁から、つい、と、逃がすように目を反らすと、驚いたように目を丸くしていた相手もまた、気まずそうに口許を押さえた。


「そ、れは……わるかった。その、一昨日の晩のことも」


 改めて言及さて、子渼はなんとも居た堪れない気分になる。混乱する。その気分は容易に腹立ちにつながって、悔し紛れの奇妙な文句へと姿を変え、子渼のくちびるから飛び出した。


「ッ、変に謝るくらいなら、責任とれ!」


 自分でも何を言っているかわからなかったが、明暁もまた混乱しているものと見える。


「責任……責任か」


 子渼から視線を外したままで、と、ぶつぶつと呟いた。


「責任といっても……どうしたらいいんだ? お前に結婚でも申し込めばいいのか」


「は、はあ?! な、なに、莫迦ばか言ってんですか? 死ね! ――いや、言いすぎました、すみません。あなたに死なれたら困ります。言葉のあやですから本気にしないでください。その、つい、口が滑って」


 気恥ずかしくて堪らないだけで、本当に死んでほしいだなんてもちろん思っていない、と、子渼は慌てて言い募った。あわあわと表情を変化させる子渼を前に、やがて明暁が、ふ、と、わらいだす。


 ははは、と、朗らかに声を立てて笑うその表情を見て、子渼はまた、ふと、胸を突かれていた。


 こちらがひとり百面相をしているのを可笑おかしがられているのだとわかるから、もちろん、しゃくにはさわるのだ。それなのに、そんな感情とはうらはらに、明暁の気配がいでいるのに安堵している自分もいた。この不思議な気分は、いったいなんなのだろうか。


「笑うな……!」


 ぼそ、と、くちびるを尖らせてちいさく言う。けれどもそれは多分に、己の中に生じた奇妙な感情を誤魔化すためにした発言だった。


「悪い……つい」


 相手は目を眇め、反省しているとも思われない詫びの言葉とともに、わずかに苦笑する。それから椅子を引き、卓子つくえの前に座ると、ひとつ息を漏らした。


「まあい、いい。とりあえず俺は腹が減った。食事をする」


「それなら、あたためなおしてきましょうか」


 子渼が問うと、いい、と、首を横に振った。


 それから子渼にも席につくよう促す。


「調べがついたことについて、話を聴きたい」


 真摯な表情でそう請われ、子渼は頷いた。


 書卓から自らの書き付けを持ってくると、かいつまんで、説明をする。明暁はひとつひとつ、真剣な面持ちで耳を傾けてくれていた。


 聴き終ると、ふう、と、息を吐く。


「お前、なかなかに優秀だな」


「当然です。だてに科挙に挑んでいません」


 子渼が敢えて胸を逸らせ、自讃するように言うと、そのようだ、と、明暁は意外にも眉尻を下げて素直にうべなった。


「三年前も……受験できてさえいれば、及第ごうかくしていておかしくなかったろうに」


 そんなことを言って、ふいに、子渼のほうへと手を伸べてきた。


「事件の後……怪我のせいで、お前は科挙が受けられなかったらしいな」


 大きなてのひらが、するり、と、耳の後ろのあたりを探るようにする。子渼は思わず首を竦めた。


 子渼のその仕草をどうとったのか、明暁が驚いたような表情かおを見せ、慌てて手を引く。


「まだ痛むのか」


「っ、まさか……ちょっとくすぐったかっただけです」


 ついでに背筋にへんに甘いぞわぞわが走ったのだが、それは黙っておくことにした。


「そうか」


 明暁はすこし安堵したように言う。


 しばらく黙った後、窺うように、子渼の黒眸を覗き込んできた。


「ほんとうに……皇帝を恨めしく思わないのか。あの行幸さえなければ、お前は事件に巻き込まれることもなく、今頃は官吏だったかもしれないのに」


 それでも恨まないのか、と、そう問う明暁の目の中に、刹那、まるで子渼のいらえを怖がるような臆病な光がちらついた気がした。だからこそ子渼は、即座に、きっぱりと、首を横に振ってみせる。


「恨んでなんかいません。さっきも言いましたけれども、陛下のせいではないですから」


「だが」


「だがもなにもありません。――まあ、郷試は受かっておりますし、挙人の資格は終生のものですしね。これから何度でも、及第するまで挑めばいいだけの話ですから」


「他に不自由は? 後遺症などはないのか?」


「頭に傷を負ったからなのか、しばらくは身体をうまく動かせませんでしたけれども、それもほどなく回復しました。いまは、ほら、御覧の通り元気です。ただ、字だけはいまもうまく書けませんけどもね。でも、まあ、それもなんとかなるでしょう」


 子渼はからりと笑って言った。


「字……?」


 明暁が怪訝そうにする。子渼は苦笑した。


「ええ。自分ではちゃんと書いているつもりなんですけれど、どうしても形が歪んでしまって。なかなか他人ひとには読んでもらえません。困ったものです」


 主に文書を扱う国官を目指す身として致命的ではあるのだが、それでも子渼は、なるたけ深刻に聴こえないよう――実際、いま子渼はそのことをそう深刻にとらえていないつもりなので――努めて明るい声を出した。


 それでも、明暁は目を瞠り、それから痛ましげな表情をする。


「……すまない」


「なにがです?」


「いや、その……お前の字を、笑ってしまったから」


 苦々しく、忸怩じくじたる表情を見せる明暁に、ああ、と、子渼は軽い口調で言った。


「読みにくい字なのは、事実ですからね。もう慣れっこですし、平気ですよ」


 こちらはそう言って笑ったものの、明暁はまだ、それでよしとはならないようだ。だからふたりの間には、しばらく、なんとも微妙な雰囲気が漂った。


 また明暁の手が伸びてくる。さっきは傷をなぞるようにしたそれは、今度は子渼の頬にふれた。


 揺らぐ焔のもと、明暁のあたたかな鳶色の眸がじっとこちらを見詰めている。そんなふうにされると、なぜか相手の目を見ていられなくなって、子渼は視線を落とした。


 それでも、明暁のおおきなてのひらは、まだ、子渼の頬をそっと撫でるようにしている。それがひどく、気恥ずかしい。彼我の間の空気が、かすかに、曖昧に、ふるえた。


 もどかしいような沈黙に堪えかねそうになったそのとき、ふたりの間の甘い静謐しじまを破ったのは、ふいに扉が開く音だった。


 お互いにはっとして、そちらを見遣る。そこに立っていたのは黄老だ。


「なにやら言い争う声が聴こえたように思いましたが……大事ございませんか」


 子渼の頬に添えられていた明暁の手が、ぱっと離れる。その刹那、子渼は一瞬だけ、なんだか頼みないような、さびしいような気持ちを覚えた。


「いや、その……ちょっとした誤解があっただけだ。それで子渼に叱られていた」


 明暁が妙に慌てた口調で言い訳するように言う。


「そうでございましたか、柳どのに。――しかしそれは、かえってようございましたな。公子わかぎみには、叱りつけてくれるようなご同輩、怒鳴り合いの喧嘩をするるようなお相手も、なかなかおりませなんだし」


「え、明暁どの、あなた……友達いないんですか?」


 世話役の老爺の言葉を受けて子渼が憐れむような視線を向けると、明暁は不快げに、凛々しい眉を顰めてみせる。


「お前はやはり官吏には向かん。その、余計なことを言う口がある限りな」


 そう言うなり立ち上がると、けれど子渼のほうへと何かを要求するように手を出してくる。


「なんです?」


「その書き付けを貸せ」


「え、でも……読めないでしょう?」


 子渼は驚いて目を瞬く。相手に頼まれて調べたことをまとめたものだ。渡すことには無論、何ら問題はなかった。が、明暁にとっては、暗号と称したような文字が連なるだけで、見ても意味はないのではないか。


「慣れれば読める気がする。いいから寄越せ」


 問答無用で子渼から紙束を手繰たくるように奪う。そのまま書卓について、灯りの下、まるで意地にでもなった様子で紙面との睨めっこをはじめた。


 その背中に、子渼はつい、ちいさく頬をゆるめている。


「ありがとうございます、明暁どの」


 彼が、子渼のした怪我の話を気にかけて、あるいは、考え無しに子渼を嘲弄ちょうろうしたことを悔いて、それでいまこんな態度を取ってくれているのがわかる。その心遣いが、子渼には素直にうれしかった。


「俺のことは明暁でいい……子渼」


 背中を見せたまま、相手は言う。


「お前のほうが二つほど年上だ……資料によれば」


 言い訳でも呟くようにぶっきらぼうに続く言葉は、もしかしたら、極まりが悪いせいだろうか。どこか素直でない相手の態度に、子渼はくすくすと笑った。


「では……明暁。ご友人がいらっしゃらないなら、私が最初の友人になってさしあげましょうか?」


 子渼は明暁の側へ歩み寄って、冗談かるくちめかして口にする。


「余計な世話だ」


 明暁は、ちら、と、子渼をひと睨みすると、不快げな口調で返した。その後すぐに書面に視線を落とし、そのまま書卓に向かったままでいる。


 やさしい人なんだな、と、子渼は思い、胸の奥がほんのりとあたたかくなって、自然と笑みを深めた。


 そのまま相手の背後に立って、しばらくにこにこしながら明暁の手許を覗き込んでいる。するとふいに、ち、と、ちいさな舌打ちがひとつ、伸びてきた手が子渼の腕を引いた。


「なんだ、じっと俺を見て……もしかして誘ってるのか? なりたいのは、さては友人ではなく情人か?」


 耳のあたりに顔を近づけ、明暁はそんなことを囁いてくる。子渼は相手のあたたかな吐息のかかった耳を押さえて、ぱっと明暁から距離を取った。


「ッ、そんなわけがないでしょう!」


 真っ赤になって、声を荒げる。


「もう! 私は先に寝ますっ」


 子渼が怒ってそう言うと、明暁は片方の口の端を持ち上げた。


 人を喰ったようなその笑みに、どうも相手にていよく追い払われたらしいと気付いて子渼はますます立腹したが、前言を撤回するのも癪だったから、そのまま真っ直ぐに臥室しんしつに向かった。

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