目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

2-4 唐突な詰問

 昼前にはすでに林家から明暁の府宅やしきに戻った子渼は、その後は居間に籠って、ずっと資料と睨めっこをしていた。もちろん取り組むのは、明暁に頼まれた、怪しい人物の洗い出しである。


 そのうちにいつしか日も傾き、黄老が房間へやに灯りを入れにきてくれたりもした。その後、太陽は地平へとすっかり沈み、残照ざんしょうが失せた頃になってもまだ、子渼は書卓での書き物を続けていた。


 そしてこの日、明暁が戻ったのは、とっぷりと暮れきって随分が経ってからのことである。


 扉が開いたのに気がついて、子渼は書面から顔を上げた。


「あ、明暁どの、お帰りなさい」


 書卓の前から立ち上がって、明暁のほうへと歩み寄る。その間も相手は、とび色の眸を子渼のほうへじっと据えたまま、扉のところで黙りこくっていた。


 なんだろう、と、子渼はことりと小首を傾げる。


「あの、玉佩、ありがとうございました。お返ししますね。黄さんがそこにお食事を用意してくださっていますよ。よければあたため直してきましょうか。林家でお嬢さまから話を聴けましたから、お召しになりながらでも聴いてください。報告書も書きましたけど、どうせ字が汚くて読めないって言うんでしょうし」


 そんなことをつらつらと言い連ねながら、子渼が房間へやの中央の卓子つくえから料理の皿を持ち上げようとしたときだ。ふいにこちらにつかつかと近付いた明暁が、子渼の真後ろに立った。


「明暁どの……?」


 どうしたのだ、と、問うよりも先に、相手は子渼を背中から抱き締めた。否、あるいは、身動きとれないように羽交はがめにしたといったほうが正しいだろうか。


「……え?」


 驚いた子渼は、反射的に身をよじろうとする。が、武官である明暁の力は強く、細身で貧弱な書生でしかない子渼が多少もがいてみたところで、子渼を抱く腕はびくともしなかった。こちらを掻き抱く腕の中から、逃れ出ることなど出来はしない。


「よ、酔ってるんですか?」


 子渼は困惑しつつ、明暁の突然の行動のわけを、そんなふうに推測した。

 だが、相手の身体から酒臭さを感じるわけでもない。いったい、明暁は急にどうしてしまったというのだろうか。


「あの……はなして、ください」


 子渼は懇願の調子で口にした。


 後ろから抱き締められていると、一昨日おとといの晩の臥牀しんだいで、明暁の熱を受けとめていた時のことを思い起こしてしまう。手がふれているところが熱い。背中からぬくもりがじんわりと沁みて、身体の奥が、なんだか切なくなってしまう気さえした。


「柳子渼」


 ふと、明暁が耳許にささやいた。


 相手の声が耳を侵した刹那、ぞくぞく、と、子渼の背筋を奇妙な感覚がはしり抜ける。あ、と、子渼は思わずあえぐような声を上げていた。


 明暁が背に流したこちらの髪を掻き分けて、子渼のうなじを顕わにする。そこを、くちびるがたしかめるようになぞる。


 子渼は首を竦めた。その間にも、明暁の手指は耳の後ろあたりに辿りついて、そこを、するする、と、撫でさすった。


「あ……ッ」


 ぞわり、と――気色悪さやくすぐったさからではなく――はだあわ立つような感覚があって、その官能に押し出されるようにしてこぼれた吐息は、どうしたって甘くかすれた。熱を帯びた身体の慾求に押し流されるように、きもちもまた、うっとりととろけはめる。


 けれども、その刹那だ。


「お前……いったい何の目的で俺に近付いた」


 低く凍てついた声に、恍惚こうこつとなりかけていた子渼は、はっと我に返った。


 明暁は子渼の身体を突き放すように乱暴に解放する。勢いで体勢が反転したこちらの、喉頸のどくびに素早く手がかかった。


 絞めるように力を籠められているわけではなかったが、明らかに尖った敵意を向けられている。子渼は息を呑んだ。


 恐る恐る確かめれば、明暁はまるで仇敵かたきでも睨み据えるかのように鋭く剣のある視線を子渼に向けていた。


 冷えた眸にめつけられ、ぞ、と、身体が冷たくなる。あたかも見えない刃を首筋につき付けられているかのようだった。


「なん、の、目的……?」


 言われた言葉の意図を取りかねて、子渼は鸚鵡おうむ返しにそう呟く。今度の声は、熱のためでなく、困惑のためにうわっていた。


「い、いったい、なんのことです?」


 目を瞬いて問うた。


 目的もなにも、通行証と財嚢さいふを失くしてしまった子渼は、珞安らくあんの城門を出ることも出来ず、かといって皇都での行き所もなくて、それでしばらく明暁の世話になることになったのではないか。ほんの昨日の出来事なのに、どうしていまこんなふうに、相手から改めて問い詰められねばならないのだろう。


とぼけるな」


 子渼の答えに、明暁は不快げに吐き棄てた。


 房間へやに点されたほむらが揺らぐ。暗いほの灯りの中に映し出される明暁の表情は、ひどく険しく、厳しいものだった。


 子渼はたじろぐ。


 が、一瞬ののちには、ひどく腹が立ってきた。


「……っ、あのですね! なんなんですか急に!」


 くびに指をかけられたまま、それでもひるまず、き、と、鋭く明暁を睨み返した。子渼は声を荒らげる。


とぼけるなって言われてもね、こっちは何も惚けてなんていませんよ! だいたい何の目的で近づいたって言いますけどね、最初に私に近付いてきたのはあなたのほうでしょうが! それをまるで人に良からぬ企みでもあったかのように……なんなんですか、いったい。私は今日は、朝から林家まで出向いてあなたに言われた通りお嬢さまから話を聴き、その後はここでずっと頼まれた資料の洗い出しですよ。あなたに言われた通りに働いていたというのに、なんですか。帰った途端、人にいやらしい触り方をしたかと思ったら、今度は突然、怒り出して! わけがわからないんですよ! わかるように説明しろっ!」


 最後は荒い口調になりつつも言い切って、はあ、はあ、と、乱れた息を吐いた。


 ものすごい剣幕でまくし立てた子渼を前に、明暁は面食らったようだった。ぽかん、と、口を半開きにして、目を瞬いている。子渼の首にかかっていた手指が、まるでこちらの勢いに怯んだかのように引っ込められた。


 そんな相手からは、ようよう、ぴりぴりと張り詰めるような気配が消えている。


 子渼は、ほ、と、安堵めいた息を吐いた。


 だが、落ち着いてみればすぐに、自分が衝動のままに声を荒らげてしまったことが恥ずかしくなってくる。


「す、すみません……怒鳴ったりして」


 明暁から視線を逸らすように俯いて、小声で詫びた。


「でも、あなただって悪いんですよ」


 くちびるを尖らせて言い訳のように口にしてから、子渼は明暁の顔を改めて真っ直ぐに見詰めた。


 相手はなぜか、途方に暮れた迷子のように鳶色の眸をゆらめかせている。それにふと胸ふたがれて、すう、と、ひとつ息を吸い、ゆっくりと吐いてから、改めて、今度はしずかに明暁に語りかけた。


「何を、ぴりぴりなさっていたんですか? 私の何かが、あなたを警戒させましたか? それなら……きちんと話してください。誤解ならば、こちらだって説明したいのです」


 言いながら子渼は明暁に一歩近付くと、その腕に手指を触れさせつつ彼を見上げた。そっと口許をゆるめ、ね、と、間近に明暁の顔を覗き込むと、相手は困ったような表情もそのままに、逃げるように子渼から視線を逃してしまった。


 燭台の焔が揺らぐ。


 初夏も近い時分だが、それでも、日が暮れた後は、空気はまだひやりと冷たかった。


 しん、と、沈黙もだが落ちる。


 けれども子渼は、明暁の腕にかけた手を放さないままで、じっと相手を見詰めて、その口が開かれるのを忍耐強く待った。


「――お前も……三年前の、関係者だったくせに」


 しばらく黙った後でようやく、ぽそ、と、呟くような声が落ちた。ひどく子供じみた、どこかねたような言い方だった。


 子渼は、きょとん、と、目を瞠った。


「ああ……まあ、たしかにそうですが」


 てらいもこだわりもなく、さらりと肯定する。


「でも、それがどうかしましたか?」


 何か問題があったろうか、と、続けてことりと小首を傾げると、明暁は一拍黙り、それから拍子抜けでもしたかのように、はあ、と、大きな溜め息を吐いた。


「いったいなんなんだ、お前は……まるで何でもないことのように」


「え?」


「三年前の皇帝襲撃事件……お前も巻き込まれて、怪我をしたのだろう? 今日見てきた資料に名があった」


 後ろ暗いことがないならなぜ最初に言わないんだ、と、明暁は子渼をちらりと睨んだが、今度の一瞥いちべつは――なじるような色合いはまだあれど――先程までとは違い、冷たい拒絶の色を帯びてはいなかった。ちいさな不満をぶつける、と、そんな感じだ。


 眉を寄せ、くちびるを尖らせるようにしている相手を前に、だって、と、子渼のほうは言い訳をするような口調になった。


「事件に巻き込まれたなんて、わざわざひけらかすように言うことでもないでしょう? 私なんか、言っても軽傷の部類でしたし」


 いっそ記録に残っていることのほうが、かえって驚きというものだった。だが子渼がそう説明してみても、明暁はすぐには納得しないようだ。


「お前の名を見つけて、こっちはすごく驚いたんだ。事件に巻き込まれたお前は、あるいは皇帝を恨んでいるのではないかと思って」


「は? 私が陛下をお恨みだなんて、そんなことあるわけがないじゃないですか。というか、だいたい、あの事件のことで陛下をお恨みする筋などないでしょう? 悪いのは事件を起こした犯人なのですし」


「だがお前は、先日……皇帝死ね、と」


 一昨日の酒家のみやで明暁に聴き咎められた言葉を不意に持ち出されて、子渼は驚きに目を瞬いた。


「だからあれはついうっかり言ってしまっただけで……本気なわけがないでしょう。いやむしろ、愛情の裏返しというかですね」


 子渼はそんなふうに言い連ね、それから、ふう、と、嘆息した。


「取り越し苦労ですよ」


 相手を安心させるように微笑みながら、真っ直ぐな視線を明暁に向けた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?