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2-1 再び邸宅へ

「ありませんでしたね……」


 本当にいったいどこで失くしてしまったものだろう、と、子渼しびはがっくりと肩を落とした。


 明暁めいきょう府宅やしきに――調査の手伝いを条件に――居候いそうろうさせてもらえることになったその後、子渼は明暁に伴われて、いちおう、例の酒家のみやを訪ねてみていた。通行証と財嚢さいふがそこにあればという一縷を望みをかけてのことだったわけだが、やはりというべきか、残念ながら、それらが発見されることはなかった。


昨夜ゆうべ破落戸ごろつきどもにられたのではないのか。さっきも逃がさず捕まえておくべきだったな」


 店主に問い合わせて望む答えは得られず溜め息を吐く子渼に、明暁は肩を竦めつつそう言った。


「まあ、とりあえず、酒代は立て替えておいてやる」


 子渼が払い損ねていた支払いをかわりにしくれた明暁に対し、子渼は申し訳なさでいっぱいだった。まったく以て世話になりっぱなしで、もはや頭が上がらない。このひとほんとうにいいひとだな、と、こっそりそんなことを思っていた。


「なんというか……ほんとうにすみません」


「ん? ああ、まあ、なんだ……俺も昨日は良い目を見せてもらったから、その分だと思えば釣りがくる。気にするな」


 そんなことを言われ、一瞬、なんのことだ、と、子渼は目を瞬いた。


 そして、一拍のちに相手の言葉の意味を悟り、かぁあ、と、赤面する。


「なっ、なんてこというんですか、あなた!」


 暗い表情をするこちらを慰める意図があったにせよ、それならそれでもうすこし違うやり方はないのか、と、相手を睨む。前言撤回、やっぱりいいひとだと思ったのは間違いだったかもしれない。子渼は、むう、と、くちびるを引き結んだ。


「ああ、そういえば……済んだら忘れる約束だったな。悪い」


 そんな子渼の様子を見た明暁は、くすん、と、再び肩を竦めた。


 子渼は柳眉を寄せ、そのまま黙り込む。そもそもは自分が迂闊うかつにも媚薬を呑まされたわけで、明暁はそれに――おそらくは善意で――手を差し伸べてくれただけなのだ。そうと思えばそうそう目くじら立てるわけにもいかないが、とはいえ、まりが悪いのも事実だった。


「声に出さないと思ったら、今度は顔に出るやつだな」


 明暁がしかめ面で黙り込むこちらを見て、くつくつ、と、喉を鳴らして笑った。


 なんだと、と、子渼は相手をまたひと睨みした。


「さて、帰るか。そろそろじいも戻っている頃だろう」


 気を取り直すようにそう言った明暁に伴われて、子渼は結局――昼前に逃げ出すように出てきたばかりの――彼の府宅やしきへと出戻ることになった。


 そういえば気まずくて相手の顔など二度と見られないと思って逃げたことを、諸々あって、この時点までにすっかり失念していた気がする。門前も近くなってようやく思い出し、ちら、と、上目に明暁の端正な横顔を覗き見たが、相手は澄ました表情だった。


 忘れると言っていたし、子渼さえ過剰に気にすることがなければもう話題にも上らないのかもしれない、と、そうこっそり溜め息を吐いた。それでもすこしだけ耳が熱かった。


「爺、戻ったか」


 府宅やしきの門前のところまでやってくると、門の前では、ひとりの老爺が人好きのするにこやかな笑みを浮かべていた。明暁の姿を見留めると、相手は拱手の礼をもって出迎える。


「お帰りなさいませ、公子わかぎみ


「いま帰った。――頼んであったことは?」


「本年の科挙受験者の名簿類その他、仰せのあったものはすべて正堂おもやの居間へ運び入れておきましたほどに」


「助かる」


「いえいえ、それが爺の勤めでございますからの。――それよりも公子わかぎみ、こちらの御方は?」


 老爺は、ちら、と、明暁の傍らの子渼に視線を向けた。


「ああ、柳子渼という、科挙に落第した書生だ。しばらくここに置く」


 明暁は老爺の問いに端的に答えた。


「ら、落第は余計でしょう!」


 子渼は明暁の紹介の中の要らぬひと言に牙を剥く。が、事実だろう、と、冷ややかに言われて、そうですが、と、押し黙るしかなかった。


 老爺は、そんなこちらの遣り取りを、最初は面喰った様子で、後には笑みを深めて見ていた。


「はいはい、柳どのにございますな。わたくしはこうと申す爺にて、公子が幼い頃よりお世話役をさせていただいております。お見知りおきを」


 黄と名乗った老爺は、ゆっくりと腰を折り、子渼に挨拶した。


「これはご丁寧に……柳子渼と申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 子渼も拱手して挨拶を返す。


「とりあえず門内なかへ。調査について話をしなければ始まらん」


 そこへ明暁がそんなふうに促して、三人は揃って表門をくぐり、狭い前院まえにわを抜けて、花垂門の向こうの院子なかにわへと歩を進めた。


「公子、もう夕餉の時刻も近うございますし、お話はお食事でもなさりながらにしてはいかがでございましょうや」


「ああ、そうだな」


「すぐにご用意をいたしましょう」


「うん、頼む。――ああ、そうだ、爺」


 くりやのほうへ向かいかけた黄老の背を、明暁は呼び止める。


「こいつが昼に作り置いてくれたものが、手つかずで居間にある。せっかくだ、それを食べるから、あたためなおしてくれるか」


 明暁がさらりと言った言葉に、子渼はぱちぱちと目を瞬いた。


 覚えていてくれたのか、しかも食べてくれるのか、と、そう思うと、相手の気遣いに頬がゆるむ。無言でにこにこと明暁を見ると、相手は、なんだ、と、不審そうに眉を寄せた。


 一方の黄老は、はいはいうけたまわりまして、と、軽い調子で明暁の指示を請ける。


「ああ、そう申せば、柳どのの寝床はどうなさいますか。公子もこちらへお移りになられたばかりで、正堂おもや以外の東西の廂堂びょうどうは、まだ手つかずで開けてございませんし」


「ああ、まあ……今日のところは俺の臥牀しんだいで寝かすか」


「えっ?」


「なんだ」


「い、いえ、まさか、その」


 子渼は口籠った。


 明暁の臥牀で寝るということは、昨日に引き続き、今宵も同衾するということだろうか。傍に置いてくれるかわりに夜伽でも求められるのか、と、警戒と羞恥とから慌てた表情を顕わにしてしまったのだが、そんな子渼に、明暁は呆れ交じりの視線をくれた。


「何を考えているんだ、お前は。俺はながいすで寝る。というか、昨夜もお前が気を失ったあとにはながいすに移ったんだ」


 思わぬ事実を教えられ、子渼はぱちくりと目を丸くした。


「え? ――そ、それは、申し訳ありませんでした」


 府宅やしきの主をまさか臥牀しんだいから追い出していたとは、恥じ入るばかりである。その上、今日まで続けて自分のほうが臥牀しんだいでやすませてもらうなど、世話になる身の子渼としては以ての外だった。


「あの、今宵は私がながいすを使いますから。明暁どのはどうぞ臥牀しんだいでおやすみになってください。さすがに二晩も連続して、家主を差し置いて臥牀しんだいを使わせていただいたのでは、気がとがめます」


 お気遣い痛み入ります、と、頭を下げると、そうか、と、相手もこの件に関してそれ以上なにか言ってくることはなかった。


「なるほど、なるほど。とてもい御方のようでございますなあ」


 かわりに黄老が朗らかに笑んで言う。明暁はちらりと老爺のほうを見ると、ちいさく肩を竦めてみせた。


「まあ、善人の部類ではあるのだろうな。思ったことが口か顔かにすぐ出るから、腹の内を探らずに済むし、楽だ。――官吏の適性としては、それもどうかと思わなくもないが」


 苦笑する明暁を子渼は睨みつけた。


「ちょっと、あなたね。ひと言もふた言も余計ですよ」


おおむね褒めたんだ」


 相手は開き直ったが、嘘をつけ、と、子渼は明暁をちいさくなじる。そんなこちらを、黄老はやはりどこか感慨深げににこにこと見詰めていた。


「さて、爺は夕餉の支度をいたしますので、おふたりは中でごゆっくりご相談を」


 ふたりを居間まで促し、房間へやにに灯りを入れ終えると、卓の上の料理の皿を一端引いていった。

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