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1-3 無謀

「あぁ、もう、いったいどこで失くしたんですかね、私」


 子渼しびは誰にともなく苦々しく呟いた。


 とぼとぼと歩くのは、昨夜ゆうべ呑んでいた酒家のみやへ向かう路である。青年が仕事に出ている隙にと彼の府宅やしきをこっそり抜け出してきたところまでは良かったが、その後、はたと、財嚢さいふと通行証が手元にないことに気がついたのだ。


 昨日、皇都へ上ってからずっと逗留していた客桟やどを出るときには、たしかに持っていた記憶がある。そして、成り行きで一宿の世話になった青年の府宅やしきに忘れたわけではないことも、とりあえずは確かだった。


 あの青年が敢えて持ち去ったというのでなければ、子渼がどこかで落としたか、あるいは置き忘れたかしたのだろう。もしかすると、昨夜飲んでいたときに誰かにられたのかもしれなかった。


 子渼は、ふう、と、溜め息を吐いて肩を落とす。財嚢はともかく、通行証がなければ、城門を抜けて珞安のまちの外へ出ることがかなわなかった。故郷へ戻ることも出来ない。困り果て、けれども座して待っていてもそれらが自ら出てくるわけもなく、とりあえずは昨夜の酒家を再び訪ねてみることにしたわけだった。


 ふと思えば、昨日の酒代も、うやむやのうちに――悪気はなかったが――踏み倒してしまっているのではないのか。だったら、酒家で財嚢が見つかれば、詫びた上で、きちんと支払いをしたかった。もし見つからなければ、事情を話して、つけにでもしておいてもらわねばならない。


 見つかれば良いのだが、と、そう思いつつ、酒家へ至る最後の角を曲がったときだ。子渼の目の端には、ふと、見覚えのある顔が映っていた。


 広途とおりの向こう、細い路地へと入っていきかけているのは、昨夜、子渼に絡んできた三人組の破落戸ならずもののうちのひとりではないだろうか。


「あいつ……!」


 通行証も財嚢も、くだんの破落戸どもに盗まれた可能性だってある。そうでなくとも、他人ひとの傷心の自棄酒につけ込んで、不埒な薬を飲ませた男たちだ。黙って許しておける所業ではなかった。


 いますぐにも文句のひとつも言ってやりたい。子渼は拳を握りしめる。


 とはいえ、相手は見るからに無法者といった風体で、書生の子渼が腕力等々で適うわけもなかった。いま闇雲に突っかかっていくのは危険だ、と、さすがにそのくらいは、子渼にもわかる。


 ここは捕吏ほりにでも通報して、ひっ捕らえてもらうべきだろうか。それとも――いまはひとりでいる件の男は、あとふたりの仲間の元へ戻るかもしれないし――とりあえず後をつけてみるべきだろうか。


 そんなことを考えつつ、物陰から男を慎重に窺い見たそのときだ。子渼はふと、男の傍らにひとりの少女がいることに気がついた。


 年齢としは子渼よりも幾分下の、当歳十七、八といったところだろうか。仕立ての良さそうな襦裙きものを着ているから、それなりの家柄の令嬢のように見受けられた。


 だからこそ、違和感がある。子渼はくちびるを引き締めた。


 彼女は本来、がらの悪い破落戸ごろつきなどと一緒にいるような者ではないはずだ。だとしたらもしや、彼女はいま、昨日の子渼のように、男に絡まれているのではないのだろうか。


 子渼は眉根を寄せ、慎重にふたりの様子を窺った。どうすべきか、と、思案して、しかしこのまま見過ごせば、少女もまた子渼が飲まされたような薬を盛られ、無法者たちの慰み者にされてしまうのかもしれない、と、そうも考える。となれば、まさか放っておくわけにもいかなかった。


 子渼は、き、と、視線を尖らせた。


「――ちょっと、あなた!」


 物陰から出て、声を上げながら、男のほうへと真っ直ぐに歩み寄る。少女と男との間に割って入ると、彼女を背に庇うようにして、子渼は精一杯の虚勢で相手を睨みつけた。


「このに何の用ですか」


 そう言いつつも、相手を睨む視線には言外に、正当な用などないのだろう、悪事を働くつもりなら諦めて去れ、と、そんな意を込めていた。その一方で、ちら、と、後ろの少女へと視線を送る。


「ここは私に任せて、いいから早く逃げてください」


 子渼が小声でそう促すと、少女は一瞬、戸惑うふうを見せる。躊躇い交じりに破落戸の男を一瞥したが、ややあって、意を決したようにきびすを返した。


 広途とおりのほうへと駆けていった彼女の背を見送り、子渼は、ほ、と、安堵の息を漏らした。その上で、この際だからいっそ言ってやろう、と、男に向き直って目を怒らせた。


「昨日はよくも、とんでもない物を盛ってくれましたね」


 そう言ってやると、男はいかにも不愉快そうに顔を歪める。


「度胸のあるにいちゃんだな。あ? そんなに痛い目見たいかよ? ああ、それとも、見たいのはイイ目のほうか」


 伸びてきた太い腕に手首を掴まれ、身体を引き寄せられる。ごつごつした指で顎をきつく押さえられ、上向かされて、子渼は顔をしかめた。


「なあ、昨日の薬の効きはどうだった? なんならまた飲ましてやろうか? んで、今度こそ俺らと遊ぶかよ。あんたのこのお綺麗な顔が、苦痛と屈辱と快楽に歪むとこ想像するだけで、こっちはいくらでもおっちそうだぜ」


 下卑た笑いと共に顔を近づけられ、生温かい息を頬に吐きかけられて、気色悪さに怖気おぞけが走る。必死に顔を背け、男から逃れようと手足をばたつかせた。


 が、相手はびくともしない。遅まきながらも、どうやら自分は無謀を仕出かし、下手を打ってしまったらしい、と、子渼は悟った。


 声もなく身を竦ませ、ぎゅっと目を瞑った。その刹那のことだった。


「そこまでにしておけ。――これ以上は、お前が痛い目を見ることになるぞ」


 凄むような低い声は、子渼の背中側から聞こえた。


「あ……」


 振り向き、そこに立つ相手を認識すると、子渼は、ほう、と、息を吐く。こわばっていた全身から力が抜けるのを感じた。 


昨夜ゆうべの錦衣衛か……!」


 男は言うと、慌てて子渼を解放する。ち、と、鋭い舌打ちをひとつ残すと、そのまま脱兎のごとくこちらに背を向けて去って行った。


 どうやら危機は去ったようだ。


「あ、ありがとうございます」


 昨日に引き続き、いままた、子渼は青年に救われたのだ。そうと悟って、子渼は礼の言葉を口にした。その途端、青年は、子渼の手首を掴み上げた。


「お前は何をしているんだ!」


 相手は急に子渼に向かって声を荒らげた。


「書生のくせに、危ないだろうが。俺が来なければどうなっていたと思う」


「す、すみません……若い娘さんがあいつに絡まれいるのを見て、その、つい」


「ついって……まあ、いい」


 青年はまだ何か言いたそうにしたが、はあ、と、溜め息をひとつ、その言葉は呑み込んだようだ。言ったところで無駄だと思われたのかもしれない。


「若い娘とは、さっき向こうへ走っていったあの娘だな。林家の令嬢のようだったが」


「ああ、そうなんですか」


「なんだ、知らずに助けたのか。それで自分が危険な目に遭うなど、呆れたお人好しだな」


「は? なんですかそれ? 人助けをするのに助ける相手の素性なんて関係ないでしょうが。そういうあなただって、私が何者かなんて知らずに、昨日は助けてくれましたよね? あなたのほうがよほどお人好しなのではないですか? だって、あ、あんなこと、まで……」


 言いながら、破落戸から助けられた後の展開を思い出してしまって、子渼は言葉を濁した。頬が熱い。言わずとも良い余計なことを口走った、と、自らの発言を瞬時に後悔したところで、けれどもふと、子渼は思い当たっていた。


 そういえば、恩人とも言える青年は、子渼の名すら知らないのではないのか。


 そして、それは子渼だって同じだ。相手が錦衣衛だと言う以外、その姓名も知らなかった。


「あの……たいへん今更で恐縮ですが、あなたはどちらさまでしょう?」


 おずおずと問うと、相手は一瞬、きょとんとした。


 それから、ははは、と、急に朗らかに笑い声を立てる。


「たしかに、仮にも寝た関係なかだというのに、互いの名すら知らんな」


「ね、たっ……!」


 相手の言い様に子渼はかっと頬を染めたが、それを気にするふうもなく、青年はすっと目を眇める。


「俺は明暁めいきょうという。明るいあかつきと書いて明暁。姓は……だ」


 お前は、と、相手の視線が子渼のほうを向く。


「柳子渼と、申します」


「どんな字を書く?」


「君子の子に、ざななみの意の渼、です」


「なるほど、きれいな名だ」


 さらりとそんな感想を述べられて、え、と、面食らう。なんのつもりだ、と、警戒するように相手を窺ったが、どうも相手には――明暁には――子渼をからかうといったような、特段の意図はなかったようだった。


 あるいは、気障なことも、言い慣れているのかもしれない。年若くして皇帝直属の特務部隊である錦衣衛に抜擢され、しかも、すらりと背の高い体躯に、端正に整った顔立ちときている。地位もあり、容姿端麗な若者を、女たちは放っておかないはずだ。ならばきっと明暁は遊び慣れているのだろうし、歯の浮くような言葉も、常々飽くほど吐いているのに違いなかった――……子渼を抱いた昨夜ゆうべだって、いかにも手慣れた様子だったではないか。


 またしてもそのことを思い起こして、子渼はかっとなった。ふるふるとかぶりを振って、ふいによみがえってきそうになった不埒な感覚を追い払った。


「なにをしている?」


「べ、べつに、なんでもありません!」


「ならいいが。というか、お前、俺に一言もなく、よくも府宅やしきから消えたな。誰ぞにさらわれたかと、こっちは慌てたぞ」


 明暁は怒りを思い出したらしく、やや眉を吊り上げて子渼を睨む。


 しかし、子渼は子渼で、なんの言いがかりだ、と、眉を顰めて相手を見返した。


「は? 黙ってって言いますけど、私はちゃんと留信てがみを残しましたよ」


「留信……?」


「ええ、居間のつくえに。せめてもの御礼になればと、くりやを借りて食事を作ったので、それと一緒に置いてきました」


 子渼が言うと、明暁は思案げに眉を寄せた。


「たしかに手つかずの料理はあった。その傍に、暗号みたいなものが記された紙を見つけて、さては食事をとる直前に何かあったかと勘繰かんぐったんだが」


「暗号……?」


「これだ。蚯蚓みみずののたくったような、文字らしきものが書かれているが、さっぱり読めん」


 明暁が懐を探り、ちいさな紙片を取り出して示して見せる。子渼はそれを覗き込んだ。


「これ……私の留信おきてがみですけど?」


「なに?」


「『たいへんお世話になり、ありがとうござました。お帰りを待たず一足先においとまいたしますが、食事を用意しておきましたので、よければお召し上がりください』と、そう書いてありますけど?」


「うん…………なるほどな」


 明暁が、紙片と子渼の顔とを見比べ、それからやや憐憫めいたものを滲ませた視線をこちらに向けた。


「なんですか、その目は」


 子渼はきゅっと柳眉を寄せ、くちびるを尖らせ、相手を問い詰める、あるいは咎め立てるように口にした。


「いや……うん。お前、科挙に落ちたらしいが」


「そ、それがなにか?」


「なんというか、皇帝死ねとのたまうような、考え無しの口さがなさのせいかと思ったが。まあ、十中八九、この汚い字のせいかと思い直した。というか、これでよく郷試に受かって、挙人きょじんの資格を得たものだな」


「郷試を受けたのは四年前ですから……って、ちょっと、失礼じゃないですか、その言い方」


 汚いとは何だ、と、子渼は怒りを顕わにしたが、事実だろう、と、明暁は皮肉っぽく言うと、くすん、と、肩を竦めた。それから、くつくつ、と、わずかに笑う。笑われたほうの子渼は鼻頭に皺を寄せ、ふん、と、思い切り顔を背けた。


 そのまましばし沈黙が続く。


「まあ、とりあえず……お前に何もなくて良かったが」


 やがて相手が改めてそう言い、ふう、と、安堵めいた息を吐いたとき、それでようやく、子渼は、あ、と、思い至った。


 子渼からすれば失礼極まりない勘違いとはいえ、相手はいま、子渼の身を案じて、ここまで慌てて探しに来てくれたらしいのだ。そう思えば邪険な態度のままでもいがたくて、ちら、と、明暁の顔を窺い見た。


 彼は、特別何かをしてやったというような、恩着せがましい表情などはしていない。だからこそ子渼の胸には、素直な感謝と謝罪のきもちが湧き上がった。


「あの、明暁どの」


「ん?」


「その……ご心配をおかけしたようで、すみませんでした。助けていただいて、ありがとうございます」


 小声にはなったが――やっぱりすこし癪なところもあったからだ――改めて頭を下げつつ、そう言った。


 明暁は一拍、きょとん、と、目を瞠ったが、すぐに苦笑するようにして肩を竦めた。


「別にたいしたことはしてない」


 昨日、破落戸の魔手から救ってくれたときと同じようなことを、何のてらいもなく口にする。


「とりあえず無事だったようだから……俺はもう行くぞ。お前、今後はあまり無茶をするなよ。出来れば早く珞安みやこを出ることだな。無いとは思うが、やつらにまた狙われでもしたら事だ」


 ではな、と、最後にこちらの身をおもんぱかる忠告を言い置いて、彼はきびすを返した。


 ややぶっきらぼうでははありつつも親切な言葉をかけられて――汚い字とわらわれた恨みも刹那忘れ――このひといいひとだな、と、子渼は思った。そのまま微笑んで、相手の背を見送ろうとした。


 が、すぐに、はた、と、あることを思い出す。


 そしてその刹那、子渼は反射的に、去りかけていた明暁の袖を掴んで、彼を引き留めてしまっていた。


「……どうかしたか?」


 まだ何かあるのか、と、明暁が怪訝けげんそうにする。


「あ、あの」


 子渼は言いよどんだ。


 そういえば、いまの自分は、通行証がなくて珞安城外へ出られない。そのことを思い出して、ついつい目の前の相手を引き留めてしまったのだったが、さて、何をどう言ったものだろうか。


 子渼が手を掴んだので立ち止ってくれた相手は、黙り込むこちらを不審そうに見ている。そんな相手を前に、子渼は、ええい、と、意を決して、言葉を紡いだ。


「たいっへん言いにくいのですが、その……しばらく、私を傍に置いてはいただけませんでしょうか?」


 明暁の顔を真っ直ぐに見上げて言う。相手はこちらの唐突な発言に、刹那、軽く目を瞠った。


 それからすぐに眉を寄せ、鳶色の眸に不審をありありと滲ませる。それはそうだろうな、と、思いつつ、だからこそ子渼は努めて明るい笑顔をつくっていた。


「えっと、あの、私、家事全般はだいたい出来ますから、身の回りのお世話なら任せてくださって大丈夫です。おひとり暮らしでしたら、いろいろ、手が足りないところもおありでしょうし。――いかがですか?」


「いや、いかがといわれても、その点で困ってはいないしな。昨日は遣いにやっていていなかったが、今夕には、側仕えのじいも戻る」


 本来は下男がいるから生活において他の誰かの手は必要ではない、と、明暁はまだ警戒を滲ませたままで子渼を見ていた。真意を探るように黒眸を覗き込まれて、子渼は、ぐ、と、言葉に詰まる。


 そしてついに、降参するように、大きな息を吐いた。


「実は、通行証がなくて、ですね……財嚢も」


 どこかで失くしたようで、このままでは城門を出られないのだ、と、結局は諦めて、恥入りながらもありのままを告白した。


「ああ……なるほどな」


 そういうことか、と、明暁は呆れた息を吐いて天を仰ぐ。それから腕を組み、しばらくうつむいて黙り込んだ。


 子渼はその姿を、息を呑んで見詰める。その場に落ちた長い沈黙もだに、やっぱり駄目だろうか、でもたしかに行き摺りで助けただけの、いま名前を知ったばかりの相手を傍に置くなんてふつうはしないよな、と、諦めの気持ちを抱きかけたときだった。


 ふと、明暁は顔を上げた。


「俺の調査の手伝いをしてくれるというなら……考えてもいい。主に記録類を調べたりになるだろうが」


 相手のその言葉に、子渼はぱっと眸を輝かせる。


「もちろんです! これでも科挙に挑んだ身、そういうのは得意ですから!」


 子渼が勇んでそう答えると、相手は、ちら、と、はにかむような、苦笑するような、ちいさな笑いを口の端に浮かべた。

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