「あぁ、もう、いったいどこで失くしたんですかね、私」
とぼとぼと歩くのは、
昨日、皇都へ上ってからずっと逗留していた
あの青年が敢えて持ち去ったというのでなければ、子渼がどこかで落としたか、あるいは置き忘れたかしたのだろう。もしかすると、昨夜飲んでいたときに誰かに
子渼は、ふう、と、溜め息を吐いて肩を落とす。財嚢はともかく、通行証がなければ、城門を抜けて珞安の
ふと思えば、昨日の酒代も、うやむやのうちに――悪気はなかったが――踏み倒してしまっているのではないのか。だったら、酒家で財嚢が見つかれば、詫びた上で、きちんと支払いをしたかった。もし見つからなければ、事情を話して、つけにでもしておいてもらわねばならない。
見つかれば良いのだが、と、そう思いつつ、酒家へ至る最後の角を曲がったときだ。子渼の目の端には、ふと、見覚えのある顔が映っていた。
「あいつ……!」
通行証も財嚢も、
いますぐにも文句のひとつも言ってやりたい。子渼は拳を握りしめる。
とはいえ、相手は見るからに無法者といった風体で、書生の子渼が腕力等々で適うわけもなかった。いま闇雲に突っかかっていくのは危険だ、と、さすがにそのくらいは、子渼にもわかる。
ここは
そんなことを考えつつ、物陰から男を慎重に窺い見たそのときだ。子渼はふと、男の傍らにひとりの少女がいることに気がついた。
だからこそ、違和感がある。子渼はくちびるを引き締めた。
彼女は本来、
子渼は眉根を寄せ、慎重にふたりの様子を窺った。どうすべきか、と、思案して、しかしこのまま見過ごせば、少女もまた子渼が飲まされたような薬を盛られ、無法者たちの慰み者にされてしまうのかもしれない、と、そうも考える。となれば、まさか放っておくわけにもいかなかった。
子渼は、き、と、視線を尖らせた。
「――ちょっと、あなた!」
物陰から出て、声を上げながら、男のほうへと真っ直ぐに歩み寄る。少女と男との間に割って入ると、彼女を背に庇うようにして、子渼は精一杯の虚勢で相手を睨みつけた。
「この
そう言いつつも、相手を睨む視線には言外に、正当な用などないのだろう、悪事を働くつもりなら諦めて去れ、と、そんな意を込めていた。その一方で、ちら、と、後ろの少女へと視線を送る。
「ここは私に任せて、いいから早く逃げてください」
子渼が小声でそう促すと、少女は一瞬、戸惑うふうを見せる。躊躇い交じりに破落戸の男を一瞥したが、ややあって、意を決したように
「昨日はよくも、とんでもない物を盛ってくれましたね」
そう言ってやると、男はいかにも不愉快そうに顔を歪める。
「度胸のあるにいちゃんだな。あ? そんなに痛い目見たいかよ? ああ、それとも、見たいのはイイ目のほうか」
伸びてきた太い腕に手首を掴まれ、身体を引き寄せられる。ごつごつした指で顎をきつく押さえられ、上向かされて、子渼は顔を
「なあ、昨日の薬の効きはどうだった? なんならまた飲ましてやろうか? んで、今度こそ俺らと遊ぶかよ。あんたのこのお綺麗な顔が、苦痛と屈辱と快楽に歪むとこ想像するだけで、こっちはいくらでもおっ
下卑た笑いと共に顔を近づけられ、生温かい息を頬に吐きかけられて、気色悪さに
が、相手はびくともしない。遅まきながらも、どうやら自分は無謀を仕出かし、下手を打ってしまったらしい、と、子渼は悟った。
声もなく身を竦ませ、ぎゅっと目を瞑った。その刹那のことだった。
「そこまでにしておけ。――これ以上は、お前が痛い目を見ることになるぞ」
凄むような低い声は、子渼の背中側から聞こえた。
「あ……」
振り向き、そこに立つ相手を認識すると、子渼は、ほう、と、息を吐く。こわばっていた全身から力が抜けるのを感じた。
「
男は言うと、慌てて子渼を解放する。ち、と、鋭い舌打ちをひとつ残すと、そのまま脱兎のごとくこちらに背を向けて去って行った。
どうやら危機は去ったようだ。
「あ、ありがとうございます」
昨日に引き続き、いままた、子渼は青年に救われたのだ。そうと悟って、子渼は礼の言葉を口にした。その途端、青年は、子渼の手首を掴み上げた。
「お前は何をしているんだ!」
相手は急に子渼に向かって声を荒らげた。
「書生のくせに、危ないだろうが。俺が来なければどうなっていたと思う」
「す、すみません……若い娘さんがあいつに絡まれいるのを見て、その、つい」
「ついって……まあ、いい」
青年はまだ何か言いたそうにしたが、はあ、と、溜め息をひとつ、その言葉は呑み込んだようだ。言ったところで無駄だと思われたのかもしれない。
「若い娘とは、さっき向こうへ走っていったあの娘だな。林家の令嬢のようだったが」
「ああ、そうなんですか」
「なんだ、知らずに助けたのか。それで自分が危険な目に遭うなど、呆れたお人好しだな」
「は? なんですかそれ? 人助けをするのに助ける相手の素性なんて関係ないでしょうが。そういうあなただって、私が何者かなんて知らずに、昨日は助けてくれましたよね? あなたのほうがよほどお人好しなのではないですか? だって、あ、あんなこと、まで……」
言いながら、破落戸から助けられた後の展開を思い出してしまって、子渼は言葉を濁した。頬が熱い。言わずとも良い余計なことを口走った、と、自らの発言を瞬時に後悔したところで、けれどもふと、子渼は思い当たっていた。
そういえば、恩人とも言える青年は、子渼の名すら知らないのではないのか。
そして、それは子渼だって同じだ。相手が錦衣衛だと言う以外、その姓名も知らなかった。
「あの……たいへん今更で恐縮ですが、あなたはどちらさまでしょう?」
おずおずと問うと、相手は一瞬、きょとんとした。
それから、ははは、と、急に朗らかに笑い声を立てる。
「たしかに、仮にも寝た
「ね、たっ……!」
相手の言い様に子渼はかっと頬を染めたが、それを気にするふうもなく、青年はすっと目を眇める。
「俺は
お前は、と、相手の視線が子渼のほうを向く。
「柳子渼と、申します」
「どんな字を書く?」
「君子の子に、
「なるほど、きれいな名だ」
さらりとそんな感想を述べられて、え、と、面食らう。なんのつもりだ、と、警戒するように相手を窺ったが、どうも相手には――明暁には――子渼をからかうといったような、特段の意図はなかったようだった。
あるいは、気障なことも、言い慣れているのかもしれない。年若くして皇帝直属の特務部隊である錦衣衛に抜擢され、しかも、すらりと背の高い体躯に、端正に整った顔立ちときている。地位もあり、容姿端麗な若者を、女たちは放っておかないはずだ。ならばきっと明暁は遊び慣れているのだろうし、歯の浮くような言葉も、常々飽くほど吐いているのに違いなかった――……子渼を抱いた
またしてもそのことを思い起こして、子渼はかっとなった。ふるふると
「なにをしている?」
「べ、べつに、なんでもありません!」
「ならいいが。というか、お前、俺に一言もなく、よくも
明暁は怒りを思い出したらしく、やや眉を吊り上げて子渼を睨む。
しかし、子渼は子渼で、なんの言いがかりだ、と、眉を顰めて相手を見返した。
「は? 黙ってって言いますけど、私はちゃんと
「留信……?」
「ええ、居間の
子渼が言うと、明暁は思案げに眉を寄せた。
「たしかに手つかずの料理はあった。その傍に、暗号みたいなものが記された紙を見つけて、さては食事をとる直前に何かあったかと
「暗号……?」
「これだ。
明暁が懐を探り、ちいさな紙片を取り出して示して見せる。子渼はそれを覗き込んだ。
「これ……私の
「なに?」
「『たいへんお世話になり、ありがとうござました。お帰りを待たず一足先にお
「うん…………なるほどな」
明暁が、紙片と子渼の顔とを見比べ、それからやや憐憫めいたものを滲ませた視線をこちらに向けた。
「なんですか、その目は」
子渼はきゅっと柳眉を寄せ、くちびるを尖らせ、相手を問い詰める、あるいは咎め立てるように口にした。
「いや……うん。お前、科挙に落ちたらしいが」
「そ、それがなにか?」
「なんというか、皇帝死ねとのたまうような、考え無しの口さがなさのせいかと思ったが。まあ、十中八九、この汚い字のせいかと思い直した。というか、これでよく郷試に受かって、
「郷試を受けたのは四年前ですから……って、ちょっと、失礼じゃないですか、その言い方」
汚いとは何だ、と、子渼は怒りを顕わにしたが、事実だろう、と、明暁は皮肉っぽく言うと、くすん、と、肩を竦めた。それから、くつくつ、と、わずかに笑う。笑われたほうの子渼は鼻頭に皺を寄せ、ふん、と、思い切り顔を背けた。
そのまましばし沈黙が続く。
「まあ、とりあえず……お前に何もなくて良かったが」
やがて相手が改めてそう言い、ふう、と、安堵めいた息を吐いたとき、それでようやく、子渼は、あ、と、思い至った。
子渼からすれば失礼極まりない勘違いとはいえ、相手はいま、子渼の身を案じて、ここまで慌てて探しに来てくれたらしいのだ。そう思えば邪険な態度のままでもいがたくて、ちら、と、明暁の顔を窺い見た。
彼は、特別何かをしてやったというような、恩着せがましい表情などはしていない。だからこそ子渼の胸には、素直な感謝と謝罪のきもちが湧き上がった。
「あの、明暁どの」
「ん?」
「その……ご心配をおかけしたようで、すみませんでした。助けていただいて、ありがとうございます」
小声にはなったが――やっぱりすこし癪なところもあったからだ――改めて頭を下げつつ、そう言った。
明暁は一拍、きょとん、と、目を瞠ったが、すぐに苦笑するようにして肩を竦めた。
「別にたいしたことはしてない」
昨日、破落戸の魔手から救ってくれたときと同じようなことを、何の
「とりあえず無事だったようだから……俺はもう行くぞ。お前、今後はあまり無茶をするなよ。出来れば早く
ではな、と、最後にこちらの身を
ややぶっきらぼうでははありつつも親切な言葉をかけられて――汚い字と
が、すぐに、はた、と、あることを思い出す。
そしてその刹那、子渼は反射的に、去りかけていた明暁の袖を掴んで、彼を引き留めてしまっていた。
「……どうかしたか?」
まだ何かあるのか、と、明暁が
「あ、あの」
子渼は言い
そういえば、いまの自分は、通行証がなくて珞安城外へ出られない。そのことを思い出して、ついつい目の前の相手を引き留めてしまったのだったが、さて、何をどう言ったものだろうか。
子渼が手を掴んだので立ち止ってくれた相手は、黙り込むこちらを不審そうに見ている。そんな相手を前に、子渼は、ええい、と、意を決して、言葉を紡いだ。
「たいっへん言いにくいのですが、その……しばらく、私を傍に置いてはいただけませんでしょうか?」
明暁の顔を真っ直ぐに見上げて言う。相手はこちらの唐突な発言に、刹那、軽く目を瞠った。
それからすぐに眉を寄せ、鳶色の眸に不審をありありと滲ませる。それはそうだろうな、と、思いつつ、だからこそ子渼は努めて明るい笑顔をつくっていた。
「えっと、あの、私、家事全般はだいたい出来ますから、身の回りのお世話なら任せてくださって大丈夫です。おひとり暮らしでしたら、いろいろ、手が足りないところもおありでしょうし。――いかがですか?」
「いや、いかがといわれても、その点で困ってはいないしな。昨日は遣いにやっていていなかったが、今夕には、側仕えの
本来は下男がいるから生活において他の誰かの手は必要ではない、と、明暁はまだ警戒を滲ませたままで子渼を見ていた。真意を探るように黒眸を覗き込まれて、子渼は、ぐ、と、言葉に詰まる。
そしてついに、降参するように、大きな息を吐いた。
「実は、通行証がなくて、ですね……財嚢も」
どこかで失くしたようで、このままでは城門を出られないのだ、と、結局は諦めて、恥入りながらもありのままを告白した。
「ああ……なるほどな」
そういうことか、と、明暁は呆れた息を吐いて天を仰ぐ。それから腕を組み、しばらく
子渼はその姿を、息を呑んで見詰める。その場に落ちた長い
ふと、明暁は顔を上げた。
「俺の調査の手伝いをしてくれるというなら……考えてもいい。主に記録類を調べたりになるだろうが」
相手のその言葉に、子渼はぱっと眸を輝かせる。
「もちろんです! これでも科挙に挑んだ身、そういうのは得意ですから!」
子渼が勇んでそう答えると、相手は、ちら、と、はにかむような、苦笑するような、ちいさな笑いを口の端に浮かべた。