ヒュゥイ、ピュル、ル、と、早朝には小鳥の囀りが賑やかだ。曙光の差し始める頃、まだ人々が寝静まっている間に、朝鳴き鳥の声で目覚めるのが子渼のいつもの習慣だった。
が、今日は違う。がやがや、と、路行くらしい人の立てる喧噪が遠く聴こえて、ん、と、子渼は寝返りを打ちつつちいさく唸った。
次の瞬間、はっと目を醒ます。
跳ね起きるように身体を起こして、しかし、うぅ、と、意図せず低く呻いていた。
全身、気怠い。
しかもあらぬところに違和感が残っている。
おかしな薬に精神も肉体も侵された状態だったとはいえ、名前も知らない相手と行き摺りの関係を持ってしまった事実をありありと思い起こし、子渼は、あわあわ、と、ひとり赤くなったり青くなったりの百面相を繰り広げた。
だが、すぐに、はたと気づく。
昨夜の青年が、いま、子渼の傍らにはいなかった。
架子床の帳は上げられていて、射し込む光はもう随分と明るかった。おそらくだいぶんと陽は長けているのだろう。もしかしたら朝よりも午に近い刻限になっているのかもしれない、と、そんなことを思いながら、子渼は臥牀からそろりと下りた。
昨夜はこの上で青年と絡み合って、さんざん痴態を曝したのだ、と、そう思い返すだけで、いっそ融けてなくなってしまいたいような羞恥と居た堪れなさとに襲われる。自分はやがて士大夫にもなるはずの者だというのになんということ、と、赤くなった顔を両手で覆い――隠さずとも誰が見ているわけでもないのだが――顰め眉で溜め息を吐いた。
再び臥牀を見れば、枕元には子渼の纏っていた深衣がきちんと畳んで置かれている。そういえば、汗や体液でどろどろになっていたはずの身体は、いま、どうもさっぱりとしているし、着ているだって清潔そうな単衫だ。子渼が眠っている――あるいは、過ぎた交情に気を失っていたというべきか――うちに、青年が後始末をしてくれたことは明らかだった。
それを思っても、どうにも居心地が悪く、たまらなく頬が熱くなる。
「あぁあぁあ、もうっ!」
子渼は誰にともなく文句を言うように、独り言というには大きな声をあげた。頭を抱えたくなる。いま相手の姿が見えないのは、いっそ幸いだった。
あんなことがあったとはいえ、それでも彼は子渼を助けてくれた恩人でもあるわけで、であれば、改めて礼を述べて然るべきだろうことはわかっている。が、頭ではそう理解しても、たとえば目覚めた時に青年が隣で寝ていたりしたら、気まずくて、どうしていいのかわからなくて、子渼は相手を叩き起こした挙句に、あらんかぎりの罵詈雑言を浴びせていたかもしれなかった。それでは、なんら得をするわけでもないのに子渼に救いの手を伸べてくれた相手にとっては、あまりにも理不尽というものだろう。
「ちゃんと御礼を言わないと……人として、駄目ってものですよ」
子渼は己の頬を、ぱん、と、軽く叩き、自らに言い聞かせるように呟いた。けれどもすぐに、はあ、と、また長嘆息が漏れていた。
「とはいえ……いったいどんな顔をしたらいいんだか」
不慮のことで交合ってしまった相手と、正気を取り戻した後で再び顔を合わせるのは、あまりにも気まずかった。いっそ拷問だ。いったいどうしたものか、と、迷った挙句、子渼はとりあえず身支度を整えてしまおうと、畳んで置かれている己の衣に手を伸ばした。
そのとき、ふと、そこに紙片があるのに気づく。
取り上げて視線を走らせれば、いかにも走り書きというふうに、文字が綴られていた。
――仕事に行く。腹が減ったら、厨のものを適当に喰え。昼過ぎには一度戻る。
勢いはあるが、乱暴・乱雑ではなく、あたたかくおおらかな手跡だ。
字はその人の為人をあらわすという。良い字だな、と、つい癖で感嘆の息を漏らし、もしかしたら彼も――少々ばかり強引ではあったが子渼をたすけてくれたわけだし――善人なのかもしれないな、と、思い、いやいやいまはそんなことを暢気に考えている場合ではなかった、と、子渼は頭を振った。
その留信によれば、青年はどうやら既に出仕した模様だ。すなわち、この房間どころか、もはや府宅の中にすら不在だったということらしい。
その事実を認識した子渼は手早く着替えを済ませると、そのまま臥室を出て、隣の間へと歩を進めた。間仕切りの屏風を抜けた向こうは――ふつう、邸宅の正堂がそういう構造である通りに――居間のようだったが、その房間の一面が院子へとつながる扉になっている。
子渼は扉に歩み寄って、そこに手をかけた。
「あのひとが帰って来る前に……出ていこうかな」
呟いてから、そうだそうしよう、と、決意し、軽く拳を握りしめる。黙って出ていくのもさすがに気が咎めるが、そこはそれ、留信でも認めておけばいいだろう、と、自分に言い訳するように思いつつ、子渼はゆっくりと扉を押し開けた。
「あ……そうだ」
短い階を下りて院子に立ち、けれどもそこで、ふと子渼は足を止める。青年の留信には、昼過ぎには一度戻るとあった。その文言を思い出して、浮かんだ考えを実行に移すため、いったん厨のほうへと足を向けた。