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科挙落ちた、皇帝死ね。
科挙落ちた、皇帝死ね。
熾月あおい
BL歴史創作BL
2025年02月10日
公開日
11.4万字
完結済
「科挙落ちた、皇帝死ねっ」
酒楼で飲んだくれ、そう叫んだところを、皇帝直属の特務部隊に属する青年の蘇明暁(そ・めいきょう)に聴かれてしまった柳子渼(りゅう・しび)。
逮捕されそうになって慌てるが、明暁が子渼を酒楼の外へ連れ出したのは、子渼が怪しげな薬を酒に混ぜられて飲まされたのを見かけたからだった。
明暁の機転によって、ならず者から救われた子渼だったが、飲まされたのは、どうやら媚薬。熱くなる身体を持て余し、心ならずも明暁と一夜を共にしてしまうのだが――……。

※性描写をふくみますので、苦手な方はご注意ください。

序 口は災いの門

 大きな音は、いっそ無音に似ている。


 破裂のあとの刹那の沈黙は、それなのに永遠のように長く、まるで時が凍りついたかのようだった。

 その後で、熱さが来た。それが痛みなのだと認識したときには、もはや立っていることが出来なくなっていた。


 為すすべもなく、倒れ込む。


 その瞬間、ふと、しばらく虚無に染め上げられていた世界に音が戻った。


「――陛下……陛下!」


「ご無事ですか!?」


「誰か……誰か、太医たいいを……早く!」


 混乱の中をそんなわめき声が飛び交っている。


「ッ、わたしいから……巻き込まれた民を、まず救え……!」


 血が流れ出すのとともに意識が薄れ、くらく沈み切る寸前、最後に耳に届いたのは、ふるえるような、けれどもうらはらに凛と力強くもある、そんな声だった気がする。





 ひとり及第ごうかくした者が出れば、その一族は三代にわたって名誉をなし、安泰であると言われる。それが科挙かきょだ。中華の歴代王朝が脈々と継承してきた官僚登用制度の中核を為す、最難関の試験だった。


 及第した際には還暦ろくじゅうどころか古稀しちじゅうをすらうに過ぎていたという逸話すらあるその試験は、郷試きょうし省試しょうし殿試でんしからなり、いずれも三年に一度行われる。地方試験である郷試のあった翌年に、皇都・珞安らくあんにある貢院こういんで本試験となる省試が実施され、それに及第すれば進士しんしと呼ばれた。その後、皇帝の御前での殿試による順位付けを経て、彼らはめでたく士大夫したいふ――国官――に名を連ねるようになるのだ。


 さて、泰化たいか四年の干支はたつ、これは省試が実施されるべき年である。というよりも、三月九日からの試験日程はすでに終わり、いまは初夏の足音も近づく晩春の下旬であった。省試の会場となる貢院のある珞安には、科挙のために都入りしている書生たちの姿が、そこここに多く見られる。それは三年に一度、この時期に特有の光景だった。


 放榜ごうかくはっぴょうがなされたその夜、りゅう子渼しびは場末の酒家のみやにいた。


 涼やかな翠緑の深衣きもの姿はいかにも書生のそれだったが、うらはらに、文人にはあるまじき行儀で酒をっ喰らっている。供された酒杯さかずきには目もくれず、酒瓶さかがめを取って直接そこから酒をあおっているのだ。それは尋常の――すくなくとも書生の見せるものとしては――呑み方ではなかった。


 子渼は酒瓶の中味を飲み干すと、とん、と、音を立てて、やや乱暴に卓に置いた。口の端を伝った滴を、ぐい、と、乱暴に手の甲で拭う。そんな子渼の頬は酒精のためにほんのりと染まっていた。端正に整った中性的な容貌の、涼しげな目許も、とろり、と、濁ってすっかり据わってしまっている。


「くそっ」


 毒づく言葉もまた、とても上品なものとは言えなかった。


 そんなふうにひとり無茶な飲み方を続ける子渼の近くに、三人ほど、いかにも無頼者と言った風体の男たちが近づいてくる。


「おう、にいちゃん。なかなかいい呑みっぷりじゃねぇか」


 文人らしからぬ豪快な酒の呷り方を面白がってか、男たちは子渼を取り囲むとからからと笑った。許可も得ず勝手に隣の席に陣取ると、にやつきながら、じろじろと子渼を覗き込む。


「なんですか」


 無遠慮な視線に、子渼は顔をしかめて男を見返した。


「にいちゃん、もしかして自棄やけ酒かい?」


 いやなことでもあったのか、と、笑いながらそう言われる。べつに、と、言いかけた子渼は、けれどもそこで口をつぐんでうつむいた。


「ははん、さては図星だな。何があったかは知らねえが、ま、景気付けにもう一杯やんな」


 男のうちのひとりが、自分が手にしている酒瓶を振った。とぷとぷ、と、中で液体が揺れる音がする。彼はにやにやしながら、子渼の前の使われていない杯に酒を注ぐと、ほれ、と、酒を満たした酒杯を子渼のほうへと差し出した。


 それまでうなれていた子渼は、がばり、と、顔を上げる。相手が差し出した杯を奪うようにして手に取ると、ええい、と、ばかり、ごくごくと、一片の躊躇いもなく一気に中味を呑み干した。酒精がかっと喉を焼き、やがて臓腑をも熱くした。


「……っ、落ちた……」


 とん、と、杯を卓に置くと、子渼は誰にともなくぼそりと呟く。


「あん? なんだって?」


 聴き損ねたらしい男が、不思議そうに訊ね返してくる。そんなことにすらいらっとして、子渼は唐突に相手の襟首を掴み、酔いに据わった目つきで男を睨んだ。


「科挙に落ちたんですっ! くそっ、皇帝死ね!」


 口穢くそう悪態ついたときだった。


 ふと、後ろから強く肩を掴まれていた。


「――聞き捨てならんな」


 静かな、けれども張りのある、耳心地のよい声が響いた。


 はっとした子渼が振り向くと、先程来こちらに絡んできている三人の男とは別に、年若い青年がひとり、子渼の真後ろには立っている。


 年齢としのころは子渼と同じくらい、二十代にかかったばかりといったところだろうか。凛々しくも整った容貌の青年だった。じっとこちらを見据える、意思の強そうな、けれどもあたたかみのあるとび色の眸が印象的だ。


 ただ、それらのいずれよりも子渼の目を引いたのは、彼のまところも飛魚ひぎょもんだった。


きん……えい


 一気に酔いも醒める気分で子渼は呟いた。


 皇帝直属の禁衛きんえい軍のうち、皇帝の護衛や、役人・軍内部の監察および取り締まりを行う特務部隊を錦衣衛という。皇都・珞安の治安維持を担う部隊のひとつではあったが、彼らが扱うのは、特に国家に対する反逆の罪だった。


 兵・刑の両権を有する――すなわち、調査、逮捕、裁判までのすべてを錦衣衛のみで行うことができる――非常に強力な組織だ。錦衣衛に目を付けられるということは、国家から危険人物と見なされることを意味した。しかも、逮捕はすなわち有罪である。それは、この大濤だいとう国に暮らす者であれば、誰もが心得ていることだった。


 だからだろう、子渼を取り囲んでいた男たちも、青年を見るなりそそくさと――まるで自分たちは何も関係ないとでもいうように――こちらから離れていこうとする。ちょっと、と、そんな男たちに文句をつける間もあればこそ、いま子渼の肩をつかんでいる青年のほうが先に動いていた。


 子渼のそれよりもやや高い位置にある眸で、冷たくこちらを見据える。立て、と、彼は低い声でこちらを促した。


「来い。陛下を呪詛ずそたてまつったかどで連行する」


 そう宣して、今度は子渼の腕を掴む。


「わ、私は、そんなつもりは……」


 子渼は言い募ろうとしたが、先程、皇帝死ねと口走ってしまったのはまったき事実だった。冷ややかな声で、問答無用、と、ぴしりと言われてしまえば、返す言葉を失ってしまう。


 青年は錦衣衛、すなわち武官だ。一見して細身ではあるものの、鍛え上げているに決まっている。そんな相手に、ぐい、と、強く手を引かれれば、貧弱な書生の子渼などひとたまりもなかった。結局のところ抗う術もなく、酒家の外へと連れ出されてしまっていた。


「あ、あの……ちょ、ちょっと、待ってはくださいませんか。私は一介の書生で、皇都へは科挙を受けに来ただけです。陛下にお仕えしたいという希望を持ちこそすれ、陛下への害意など、あろうはずもありません。だからその、先程のは、単なる言葉のあやというか、大袈裟な表現でして、科挙落第が口惜しくてつい口が滑っただけというかですね……」


 しどろもどろになりつつも必死に言葉を連ねて言い訳をする。原因は己の失言にあるとはいえ、あんな言葉ひとつで錦衣衛に逮捕されては、たまったものではなかった。


 ついでに尋問でも受けようものなら、耐えられる自信もない。あることないこと――もともと叛意などないので、その場合、主に口から出るのはないことになるわけだが――喋ってしまうかもしれなかった。


 それでもし万一、皇帝への叛意ありと認められるようなことがあれば、と、恐ろしい想像に子渼はぞっと背筋を凍らせた。最悪、死罪だ。どうしよう、とにかく誤解なのだ、と、慌てふためくこちらをよそに、青年は子渼の手を引いて、無言のままずんずんと歩を進めていく。


「お、お役人様……」


 酒家から随分と離れ、ひとつ角を折れたところで、子渼は再び相手に躊躇いがちに声をかけた。すると、それまでこちらを見向きもしなかった青年は、けれども今度は足を止めてくれた。


 こちらを振り向いて、掴んでいた子渼の手を解放すると、彼はちいさく息を吐く。


「そんな青い顔をするな。あの程度の発言でお前を逮捕する気など、もとからないさ」


 そう言うと、彼はちらりと人を喰ったような笑みを見せた。


「え……? で、ですが」


 子渼が面食らって目を瞬くと、相手は、くすん、と、肩をすくめる。


「さっきお前の傍にいた破落戸ごろつきどもに、お前、薬を盛られたぞ。酒瓶に混ぜてているのを見た」


「は? く、くすり……?」


「ああ。奴らの下卑た笑いから想像するに、眠り薬か、媚薬の類ではないか」


「え、で、でも、私、男ですけど」


 否、もちろん女性ならいいというわけでもないのだが、媚薬という言葉と自分とが結びつかなくてそう言うと、相手はまた肩を竦めた。


「知らん。だが、まあ、お前、男をそそる、なかなかきれいな容貌かおをしているしな」


「なっ、そそる……!?」


「中性的で整っているし、その取り澄ました清潔そうな顔を見れば、かえって掻き乱してやりたいと思う者もいるのではないか? まあ、薬が効いてきたところでどこぞへ連れ出して、三人で乱暴でもする気だったというところだろう」


 青年は、子渼にとってはまったく面白くないことを、溜め息とともにさらりと告げた。自分が曝されていたらしい危機を突然に突きつけられて、子渼は言葉を失ってしまう。はくはく、と、おかに打ち上げられた魚のように口を動かした。


 目の前の青年を見た。もしもいまの言が真実なら、この錦衣衛の青年は、皇帝への不敬を以ての逮捕にかこつけて、子渼を男たちの魔手から救ってくれたということだ。


「た、助けていただいたようで……ありがとうございました」


 男をそそる云々と、書生としての矜持に照らして聞き捨てならない言葉はあったが、とりあえずそれは横にいて、ここは礼を述べるべき場面だろう。青年の機転がなければ、今頃、あの三人の男たちに酷い目を見せられていたかもしれないのだ。そう思って、子渼は相手に深々と頭を下げた。


「たいしたことはしていないさ。気づいたのにみすみす放っておくというのも、寝覚めが悪いしな。礼には及ばない」


 青年はまた、くすん、と、肩を竦めてみせた。


 それでももう一度改めて礼を述べようと、子渼が口を開きかけたときだ。ふいに、くら、と、視界が妖しく揺らいだ。


「あ……っ」


「おい、お前……大丈夫か?」


 ふらついてかしいだ身体を、慌てたように青年が受け止めてくれる。へいきです、と、けれども子渼は、そう強がることも出来なかった。


 くらくらする。どうも酒のせいというのではなかった。これは酔いとは明らかに違うものだ、と、子渼は自分を支えてくれている青年の腕の中で、荒く呼吸いきをしながらそう思った。


「からだ、が……あつ、い」


 ふぅ、ふぅ、と、熱っぽい吐息を漏らしつつうめく。舌がもつれたように、うまく言葉を紡げなかった。その上、すぐに立っていられなくなって、気づけば青年の胸にぐったりと寄りかかっている恰好だ。


 おい、と、戸惑いながらもこちらを抱きとめてくれている相手のてのひらの触れるところから、ぞわぞわ、と、はだが粟立つ感覚があった。


「……あ、ッ……」


 こぼれた声は、我ながら聞き苦しいほどに、ひどく甘ったるく鼻にかかったそれだ。


「なるほど……呑まされたのは、媚薬のほうか」


 青年が息を吐きつつ言う。


「た、すけ、て……」


 体内に渦巻く熱は、子渼には経験のないものだった。ずくん、と、下腹に重く溜まるようなうずきを持て余して、自分でも何を口走っているのかわからないまま、子渼は青年の身体にすがりついた。


 青年はしばし思案するように黙ったが、やがて、ちいさく息を吐く。


「俺の府宅やしきが近い。そこまで堪えられるか」


 青年にはそう訊ねられ、とろけた思考で、子渼はただこくこくと頷いたような気がする。

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