国境付近、ブリテイン帝国側の森の中で。無数の屍が無残に転がる地面から鎧に身を包んだ女性が起き上がった。ケトラだ。フラウダートルによる殺戮の宴において、彼女は勝ち目がないことを悟ると既に命を失った部下達の死体に潜り込み、悪魔が去っていくのを待った。周りが静かになり、何とか命を繋いだと安心した途端にそれまで気を張り詰めていたために感じていなかったひどい悪臭が鼻を突き、たまらず胃の中のものを全て地面にぶちまけてしまった。
大軍を預かりながら何もできず、仲間の死体に隠れて生き延びることしかできなかった自分の不甲斐なさに涙があふれる。他に生き残りはいないかと、血と骨と肉片に覆い尽くされた森の中を歩き回ったが自分以外に動くものは見つからなかった。しばらくして頭上から烏達の耳障りな鳴き声が聞こえてくる。危険な怪物が去ったことを知り、死肉を漁ろうと集まってきたのだ。
「はぁ……はぁ……くそっ、陛下に賜った兵をむざむざと死なせてしまうなんて。この罪は万死に値するが……悪魔の恐ろしさを帝国に伝えねば。決してティアルトの轍を踏むことが無いように戒めねば、散っていった一万の命が本当の無駄死にになってしまう」
ケトラは部下達の遺体に祈りを捧げると、ブリテイン帝国首都へ急いだ。しばらくは汚れた身体のまま、痛む足を引きずりながら進んだが宿場町に着くと湯で身体を清め、馬を借りて一路首都へと駆けていった。最初の日は悪魔の追撃やベリアーレ王国の報復がないかと恐れて道を急いだが、国境から十分に離れたことを確認したら馬を休ませながら普通の速度で戻った。攻め入った兵は全滅したのだから、無理してまで急ぐ必要はないと判断したのだ。強い使命感を持ちながらも冷静に状況を分析できるところが彼女の強さだった。
しばらくして、ブリテイン帝国の首都に帰りついたケトラは、見知った人々から驚きと共に迎えられた。皇宮には既に侵略失敗の情報が届いていて、皇帝がケトラの報告を待っていると知らされた。ベリアーレ王国ではクオ・ヴァディスなる謎の剣士が悪魔を仕留めたと大々的に発表していて、その報せは周辺各国にも届いていたのだ。同時にベリアーレ王国国王セリア二世によるブリテイン帝国皇帝ルーベルト四世への糾弾声明も広まっていた。不死者や悪魔の力を借りて他国を侵略する恥ずべき君主であると責める言葉は、周辺各国に大きな反響を生んでいた。
「ケトラよ、起こったことを全て話すのだ」
謁見の間にて、ルーベルト四世が跪くケトラに発言を促す。その声音には彼女を責めるような響きはなかった。
「ティアルト将軍が契約した悪魔に裏切られたのです。国境付近に屯していた一万の兵は悪魔フラウダートルによって全滅させられました。奴には剣も魔法も通用せず、ただ一方的に虐殺されるのみでした」
「人間が悪魔を滅することは不可能に近いという話だが、なるほど。本当に攻撃が効かないのだな。ベリアーレは伝説の名剣ディアボルサイドに悪魔殺しの力があると吹聴しているが、真実は分からぬ」
ルーベルト四世は、顎髭をさすりながらなにやら思案している。そこにケトラが覚悟を決めて声を上げた。
「恐れながら、陛下!」
「みなまで言うな」
ケトラの言葉を皇帝は遮った。しかしその顔に怒りの色はない。彼女の言いたいことは分かっていると、そう告げているのだ。
「悪魔との契約は当面禁止としよう。制御できない力は危険ばかりが大きい」
「当面……ですか?」
自分の訴えが認められたことは喜ばしいことだが、皇帝の口ぶりからは将来的に悪魔との契約を許可する意図が読み取れた。フラウダートルに蹂躙された記憶が蘇り、眩暈を感じる。
「悪魔を倒したクオ・ヴァディスとやらは、追放されたはずのパルミーノで間違いないだろう。剣士の正体はともかくとして、大切なことは、悪魔を倒せる人間が存在するという事実だ。倒せるのなら、制御することは可能であろう?」
ルーベルト四世が歯を見せて嫌らしく笑う。一万の兵を無惨に殺されたというのに、そのことを何とも思っていない。何とも思っていないから、ケトラを責めることもない。皇帝にとって、兵の命など戦で消耗する道具程度の価値しかないのだ。いよいよ失望によって気を失いそうになるケトラだったが、意識を強く持って何とか耐えた。
「ケトラよ、そなたは敗死したティアルトの代わりに第五将軍の座につくのだ」
責任を問われるどころか、将軍への昇任を告げられたケトラは失意のまま自宅へと戻るのだった。
「陛下……あの女は陛下に不満を抱いているようですが、よろしいのですか?」
ルーベルト四世の傍に控えていた側近が主の意思を確認するが、皇帝は手を振って側近の言葉を制する。
「あやつは悪魔の猛威を体験して恐れを抱いておるのだ。罰を受ける覚悟で帝国の未来のため儂に物申したのだ。素晴らしい愛国心ではないか」
ルーベルト四世は部下に忠誠を求めていない。国の役に立つなら、思想も手段も問わない。そんな皇帝が一番の関心を寄せていることは、ベリアーレ王国を変わらず守り続けるパルミーノ・アル・カドーレという人物の動向であった。