笑みの消えたフラウダートルが何やら口の中でモゴモゴと聞き取れない言葉を呟くと、両手に黒い霧が集まり剣の形を取った。
「遊びは終わりにしようか、この国は吾輩がもらい受ける。ああ、隣国から一万の兵がやってくるんだっけ? 安心したまえ、そんなものは塵芥に等しい」
その場にいた全員がフラウダートルの身体から強いプレッシャーを感じた。風はないのに、まるで嵐の暴風に身を晒しているかのようだ。これが伝説に語られる悪魔かと、絶望にも似た感情に支配される。
「君達には感謝しているよ。悪魔を顎で使っているつもりになっていた愚か者を黙らせる口実を作ってくれた。さすがに契約がある以上、勝手に召喚主を変化させることは難しいのでね」
両手に持った闇の剣をクルクルと回しながら、クオ・ヴァディス達の顔を一人ずつ目で追いかけていく。絶対的な強者の余裕が、視線からも感じ取れた。その気配からも先ほどまでは本当に遊んでいたのだと伝わってくるのに、その時だってまるで刃が立たなかったのだ。
「ふふふ……クオ・ヴァディス君だったかな。君はこの国が大好きなんだろう? 知っているよ。だから本当に安心してもらうために、まずはあちらにいる雑魚どもを全滅させてやろう。そうしたら吾輩の部下になるといい。君を理不尽に追放した王はここで死に、吾輩がこの国の新たな王となるのだ。忠誠を誓う者には不自由させない。自分の国民なのだからな。不満はなかろう」
とんでもないことを言う。本気で悪魔が人間の国の王になると言っているのだ。なぜ自分のことを知っているのか、なんて些細なことは気にもならない。このモンスターはなんとしてでも倒さなくてはならないと思った。
だが、悪魔はさすがに口が上手い。フラウダートルの提案は、真実であれば彼にも国民にも実質的な不利益はないのだ。むしろ圧倒的な力を持つ王の庇護により国民の生活は良くなるかもしれない。今の王はあまりにも統治能力に欠けているのが事実でもある。
「吾輩の言葉を疑っているのか? 悪魔は嘘を吐かない。君達はよく知っているだろう」
そう言うや否や、フラウダートルの立っている横に鏡のようなものが現れる。鏡にはどこかの景色が映し出されていて、クオ・ヴァディスには見覚えのある木々が立ち並んでいる。
「ブリテイン帝国との国境付近だ。今から侵略者どもを皆殺しにする」
◇◆◇
副将ケトラは出陣の準備を終え、まさにベリアーレ王国への侵略を開始しようとしていた。一万もの兵が使う武具、彼等の胃袋を満たす食料、その他数多くの必要物資を揃え、運搬する部隊と移動間のサービスを提供する部隊を用意するのにわずか数日しか経っていない事実は彼女の実務能力の高さを物語っている。実働部隊は既に六個の大隊を編成し、いつでも動ける状態だ。
「なんだあれは!」
そのケトラと大部隊の前に大きな黒い身体を持つモンスターが現れた。人型に蝙蝠の翼を生やし、両手に黒い剣を持ったその姿は、そこらのモンスターとは明らかに格が違うとわかる。
「『サルヴェー』、ティアルト将軍応答願います!」
ケトラには心当たりがあった。ティアルトが悪魔を召喚して契約を結んだと得意げに話していたのだ。なんと危険なことをと思ったが、皇帝陛下が容認しているので反対することもできなかった。
「ベリアーレ王国は吾輩の国になる。先ほどそう決めた。よって諸君は吾輩の敵となったわけだが……まあ面倒な問答も必要なかろう。全員この場で死になさい。その血と肉を大地に捧げるのだ、光栄だろう」
「馬鹿なことを!」
ケトラは後悔した。やはり表立ってティアルトの行いを非難するべきだったのだ。帝国には彼を疎ましく思う有力者が大勢いる。彼等の協力を得れば、皇帝陛下の考えを変えることだってできたはずだ。だがそれももう遅い。今はこの悪魔をどうにかしなくてはならない。伝説によれば悪魔は神であっても滅ぼすことができなかった最悪の化け物達だ。一万の兵で倒せるかも分からない。だがこんな場所に突然現れることの出来る悪魔から逃げることも不可能だ。
「やるしかないな……皆のもの、敵襲だ! 武器を取れ!」
ケトラの号令を受けて兵士達が武器を構えると、フラウダートルは口角を上げて獰猛な笑みを浮かべた。
◇◆◇
そこからは一方的な虐殺の様子を見せられ続けた。フラウダートルは数え切れないほどの分身を生み出し、一万の兵を草刈りでもするような気安さで殺害していく。わずかながらいた武技の使い手も、悪魔に傷を負わせる前に斬り刻まれた。
「どうした? 君達の仲間や家族を死に追いやった憎き侵略者の仲間達が死んでいくのだぞ。なぜ目をそらす? 喝采をあげて楽しみたまえよ。ついでに罵詈雑言の一つも投げかけてやったらどうだね?」
「……王都の人々を殺したのはお前だろうが」
吐き捨てるようにロイが言う。だがフラウダートルは肩をすくめて反論する。
「悪魔と契約し、王国の民へけしかけたのは帝国の人間だ。吾輩とて不本意だったのだよ。王都を襲っていた眷属は弱かっただろう? 精一杯の反抗というものだ」
いちいちもっともな言い分である。感情を排して合理的に考えれば、確かにフラウダートルを恨むのはお門違いと言える。だが、どんなに言い繕っても数多くの住民を殺害したのはフラウダートルであるし、これから王国を乗っ取るとも宣言している。悪魔であることだけでも存在を許していいものではないが、その行いを認めるのは彼等の倫理感が拒絶する。
「理屈で何もかもを判断できないさ。どんな仕打ちを受けようとも、私は国王陛下のことを我が子のように思い、見守ってきた。だからこの国を奪おうとする者は何者であっても受け入れられない」
クオ・ヴァディスが剣を構え、フラウダートルに拒絶の言葉を投げかけた。
「ふう、残念だ。君は武技が使えないことを除けばこの場にいる誰よりも強い。そんな男を部下に出来ないなんて、大いなる損失と言わざるを得ない」
「『三段突き』!」
会話の間隙を縫って、誰よりも早く攻撃を仕掛けたのはアントニオだった。精鋭達の武技が通じなかったのは、この悪魔が何かの術で防いだのだろうと判断していた。だから不意をつけばダメージを与えられるだろうと考え、ずっと息を潜めて機を伺っていたのだ。
「素晴らしい判断力だ。だが言っただろう、人間は女神の力を使うために技名をいちいち宣言しないといけない。それでは絶対に吾輩の不意をつくことはできない」
アントニオの武技は、フラウダートルの身体に大した傷もつけられなかった。フラウダートルが剣を振り上げるのを見たクオ・ヴァディスはすぐに割って入り悪魔の剣を受け止める。
「……ふふふ、本当に素晴らしい使い手だ。剣の腕は完全に吾輩を上回っている。だからこそ残念で仕方がない。種族の差で絶対に吾輩には勝てないという現実が」
フラウダートルの言葉が、クオ・ヴァディスの心に強く突き刺さる。本当になせ自分には女神の力が使えないのだろうか。
「エフージョ!」
インソニアの呪文が耳に届く。今度は何の魔法を使ったのかと疑問に思う間もなく、クオ・ヴァディスの目に映る光景が変化した。