郊外にある廃工場。日中でも人影はなく、それが、月も真上に上っている深夜ともなれば、猶更に人外の世界感を増している。青白い光に照らされている、錆びたトタンの壁は、コケでも生えているかのような微小な凹凸を見せていた。
「そんな小物、こっちの世界で叩く必要があるの?」
赤色の帯に薄緑色の着物を身にまとった少女‥‥リシャンは、鎌を手に持ったまま、そんな工場の敷地内を奥に進んでいく。
一匹の黒い鳥が後をついていく。そのカラスは普通のカラスではない。
=もちろん、リアル世界でもマークしてるので、こっちだけでテロリストの身柄を確保する事も出来
ます。実際、その方が早いでしょう=
「‥‥これも私のリハビリの一環て事? 随分と丁寧なのね」
=エージェントは取り締まりの要ですから。これからも活躍してもらう為には、管理局はどんな労も惜しまないでしょう=
「つまり、これからもっと働けと」
=そうとも取れますね=
「‥‥ふん」
軽口を叩きつつもリシャンは周囲の警戒を怠らない。ターゲットはシャオティンとは比べようもない三下のテロリストだが、油断して足元をすくわれるという事もありえる。
=とは言え、ヴァイアスのメンバーのようなので、その辺は用心するに越した事はないで す=
「分かってる」
トラックの発着場の一段高くなっている場所から、建物の内部に入る。幾つもある搬入口のうち、入口のシャッターはほとんどが錆びれて穴だらけになっており、その中で、上から完全に落ちてしたまった箇所から奥へと進んでいく。中は埃っぽくて薄暗い。換気扇の隙間から漏れる月の光が、中の埃を受けて真っ直ぐな光を指し示している。
時々足元でパキ‥‥ガラスの破片の砕ける、小さな音が鳴る。
「‥‥‥‥」
クロウの言う事を全て真にうけたわけではない。
リハビリという側面は確かにあるかもしれないが、それにしても案件で山積みの状態で、エージェントを遊ばせておく事を、管理局がするとは考えにくい。それに簡単な任務につかせた意味も別にあるのかもしれない。
今回の任務は特に指定されたものだった。ただ簡単という事なら、他に手直にたくさんあった。にも関わらず、これを指定してきたという事は、何かの意味が隠されているに違いないのだ。
「!」
窓のガラスが外れ、リシャンに向かて飛んできた。
「‥‥‥‥ふん」
鎌を何度か振ると、ガラス板は途中で砕け散った。
「‥‥フレームの無許可変更‥‥現行犯になったわね」
何度か鎌を回転させてから、柄の先を床に打ちつける。落ちていたガラスが割れて飛び散った。
「‥‥‥‥」
ドラム缶が飛んでくる。鎌を正面に持ち、顔の前で真っ二つにする。
「‥‥‥こんな子供だましでどうか出来ると思ってるなら心外なんだけど」
どうにも様子がおかしい。環境が変更された後はあるが、そこは侵入してきた者に対して自動的に反応するように組んであったに過ぎない。
「‥‥‥‥」
リシャンは鎌を下ろした。そんな罠もなくなり、辺りはクリーンな状態になっている。テロリストの反応もない。
「いくら何でも変じゃない?」
=おかしいですね。確かにこの座標なはずなんですが=
「‥‥‥‥で、私にこの任務が当てられたのはどういう事?」
=それは説明した通りです=
「ま、いいけど‥‥」
リシャンはくるっと歩いてきた方向に向きを変えた。
「どうやら、もうここには何もなさそうね」
=そのようです。そのうち、また動きがあるでしょう=
「随分、呑気なのね」
発着場から飛び降りる。
さっきまで出ていた月は、雲が重なって僅かに光が陰っている。
敷地の外に出る道すがら、リシャンの体が光り、着物姿から学校の制服姿に変わる。
青のセーラー服で、胸元の赤いリボンが目につく。
制服のまま夜道をひたすら歩いていく。10分も行けば、人通りのある所に出る。
=その姿で商店街に出るつもりですか?=
「何か問題でも?」
=この世界の倫理として、夜間に制服姿の女子が徘徊すると色々と問題があります=
「ああ‥‥そんな事」
リシャンはフフ‥‥と鼻で笑う。
「侮った者は、後悔させてあげる」
=いや、そういう事ではなくて‥‥=
「‥‥‥‥?」
拳を突き出したリシャンに、クロウはがくっと首をうなだれる。
=まあ、それはそれとして‥‥=
話しかけたクロウは言葉を途中で止めた。
公園内を斜めに渡っていた途中。二つの光にリシャンは照らされた。
「あー、君、今、何時だか分かってる?」
光源は懐中電灯を持った黒い制服を着た二人の男性だった。この世界では警察と呼ばれている犯罪者を取り締まる組織の一員のようだ。
「制服は、そこの高校生だよね。こんなとこで何してるの?」
「‥‥‥‥」
「名前は?」
「‥‥‥‥」
続けざまに質問されたが、リシャンは黙ったままだった。
「ちょっとそこの交番まで来なさい」
促されたが、その場から動かずにいた。
「君、聞いてるの?」
腕を掴まれそうになったが、先まわりしてその腕を逆に掴む。
「あ、あ、あ、あ‥‥」
「‥‥‥‥」
背中から逆に腕を持ち上げられ、警官は膝をついた。
「この!」
もう一人の警官が取り押さえようと、腕を伸ばしてきたが、リシャンは姿勢を低くしてそれをかわし、足を蹴ってその警官を転ばせた。ひっくり返った警官は倒れて動かなくなる。
「は‥‥離しなさい!」
力つくで引き離そうと試みるが、岩のようにびくともしない。警官はわけがわからず、肩の痛みに呻いていた。
「別に何かしてたわけじゃないのに、ここの司法機関は乱暴なのね」
「‥‥‥‥何を」
「‥‥全く」
リシャンが手を離すと、警官は腰から小さな棒を抜いて構えた。
「公務執行妨害で拘束する。大人しくしなさい」
「‥‥‥‥」
言いがかりもいい所‥‥そう思ったリシャンは、鎌を出して警官の顔の至近を一閃させる。
「‥‥ひ‥‥」
警官の持っていた棒は、綺麗に先端がなくなった。
=‥‥‥‥そこまで=
クロウがそう言うと、警官二人は透明な箱で覆われた。
=ここでの司法がどういうものか知っているはずなのに、どうしてあなたは、いつもいつも無駄に騒ぎを起こすんですか?=
箱は警官を入れたまま光り始める。恐らくは記憶処理をして、今のをなかった事にしている。
「説明するより手っ取り早いでしょ」
=後の処理が不自然になるのは、プログラムの不具合の元です。もう、目立つような事はやめてください=
「‥‥了解」
クロウの小言にうんざりしたリシャンは話を終わらせる為に、素直にそう言った。
=所で、明日は学校が休みで、例の男子生徒と街に出かける予定でしたたね=
「そうね」
告白?‥‥という事のあったその後、男子生徒‥‥日高俊夫は
『今度の休み、二人で遊びに行きませんか?』
と言ってきた。
リシャンは、具体的に何をどう行動するのか聞いてみたが、日高俊夫の説明は要領を得るものではなかった。
=まさか、その格好で行くつもりですか?=
「街を散策するのに何か問題でも?‥‥その辺でよく見る格好だと思うけど?」
=‥‥あー‥‥うん‥‥=
どこから説明して良いか分からず、クロウはしばらく動きが止まる。
=それは学校生活を送る為に、集団として認識させる為の服です。恐らくは明日着ていくには不向きではないかと=
「‥‥面倒」
リシャンの顔が曇る。
=実社会ではなくなった風習です。リアルでは衣類、その他の必需品は政府から無償で提供されますが、この世界では自分で選択していきます=
「‥‥‥‥」
その行動に意味があるのかと考えたが、そもそも自由恋愛そのものが非合理的なものから生まれたものだ。
「‥‥‥‥仕方ない」
自由恋愛の心理を探るという目的の為、その決まり‥‥のようなものには従うしかない。
「で、どうしたらいいの?」
=それでは、データベースから相応しいと思われる服装を選択します。当日はそれを選択してください=
「了解」
リシャンは不服そうに、今日何度目かのその言葉を呟いた。
「‥‥‥‥遅い」
待ち合わせは確かにこの場所のはずだ。
遊園地の前。ここは某、夢の国の勢いに押されて小さいながらも、観覧車や、メリーゴーランドなどの定番の施設は揃っている上に、動物園も併設されている。中には食事も出来る店もあり、デートには最適な場所だ。
本当は彼女の家に迎えに行って、そこから二人で来たかったけど、遠野さんは、現地集合でと言ってきたので、仕方なくこの遊園地の正面ゲート前という事になったが、時間になっても遠野さんが来ない。
もしかしてすっぽかされた?‥‥とも思ったが、遠野さんはそんな事をする人じゃない‥‥と、思う。きっと何か大事な用事があって遅れているに違いない。
「‥‥‥‥」
そう言えば、遠野さんは、スマホ持ってないんだろうか?
電話番号も、中の連絡用のアプリのアドレスも知らない。聞いたら教えてくれるだろうか。アドレスの交換とかできたら多分、クラスで俺だけが知ってるはず。それを考えるだけでワクワクが止まらない。
それにしても‥‥。
「‥‥遅いな‥‥」
そうか、遠野さんは宮本武蔵なのか。こうやって相手をじらす事で、心理的プレッシャーを相手に与えているのか。だとすれば俺は佐々木小次郎。待たされる事で心理的に平静ではいられなくなっている(ちなみに、俺は歴史マニアでもある。困った時は世界の偉人の言葉を借りる事でどんな困難も乗り越えてきた)。
焦らし戦法? いや、そんな事では俺は揺らがない。
どんな事にも斜に構えて平常心‥‥それが俺のモットーだ。
こんな事ぐらいで‥‥。
「!」
遠くから女の子がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。もちろん、ここは遊園地なので、他にも向かってきてる人がいる。それでも何か‥‥オーラのようなものがある。明らかに普通の女の子ではない只物ではないオーラ。あれは紛れもなく遠野楪さん。
「待った?」
遠野さんは俺の前で足を止めた。
「‥‥‥‥」
制服以外の格好を見た事が無かったので、初めて見た彼女の私服姿に俺は釘付けになって声が出ない。
薄紫色のパーカーに、黒のミニスカート。肩からは小さいバックをかけている。派手でもないし、別にブランド物とかでもないのだろうけど、それがクラスの誰も見た事のない遠野さんの姿なんだと思うと、感想を言おうとした口が開いたままになる。
待った?‥‥と聞かれて、少しね‥‥と、スマートに答えようと考えていたけど、そんな事が言える状態にはなかった。
「え?‥‥い、いや、今、来たところ」
そう言ったら遠野さんは、少しだけ笑ったような(多分)気がした。
その顔を見た俺はまた言葉が出なくなる。
やっぱり俺は彼女が好きなんだ。