リシャンはまどろみの中にいた。
意識がはっきりしない。足元に地面がない。どこにも感触がない。背中をつけて寝ている状態なのかと思えば、確かめる手足、背中‥‥何処にあるのかさえ、分からない。
ただ、自分という意識だけが何もない宙に浮いている。
闇の中でも、光の中でもない。ただ意識だけが漂い、時間すらないようにも感じる。
このまま未来永劫‥‥だが恐怖は感じない。こうして何もない空間に溶けていく事が、当たり前に感じる。
(‥‥‥そうか‥‥私は‥‥‥)
断片的になっている記憶の中、最後の記憶だけが鮮明に蘇ってくる。
シャオティンの策略で、周囲の負荷を超える力を使ってしまい、そのせいで歪みが発生してしまった。013全体を崩壊させる程ではなかったが、あの一帯は酷い状況になっているのだろう。そこにいたAI達は恐らくは消滅したに違いない。
(‥‥‥‥)
それは謝っても謝り切れるものではない。
シャオティンを道連れとして、自分も消えていく事で、彼らの溜飲を下げてもらえればいいが‥‥そんな事を考えている間に意識が曖昧になってきた。
(‥‥‥‥そろそろ‥‥私も‥‥)
消えるという事は、今こうして考える事も出来なくなり、意識が全てなくなるという事。恐ろしいとか、怖いとか‥‥全く思わないといえば嘘になるが、それでも心は満足感に満たされていた。
やりきった‥‥それが全てだった。
ただ漫然と長く生き続けるよりは、例え一瞬でも思いの丈を弾かせて信じる道を突き進む‥‥それが出来た人生だった。
いつだったが見上げた花火‥‥あのように生きる事ができた自分の、何と幸せだった事なのだろうか。
(良い人生の旅‥‥だった‥‥かな‥‥)
考える事をやめ、リシャンの意識は眠りにつく。
それからどれぐらいの時間が経ったのだろうか‥‥。
一時間‥‥数日‥‥数年‥‥。
測る物差しは何もなく、たた不意にリシャンの意識が戻ってきた。
「‥‥‥‥」
横になっている感覚がある。体の上に柔らかい布がかけてある。頬に風を感じる。暑くも寒くもない。
ただ心地よい。
「!」
リシャンは飛び起きた。吹き飛ばされた毛布がベッドから落ち、その下にいる何かがもがく。
=いきなりですね。覚醒時はゆっくりと動き始めないと=
毛布の下からカラス‥‥クロウが顔を出す。
「‥‥‥‥」
周りを見渡す。
決して広くはない小さな部屋。勉強机や小さなテーブル、そこそこの大きさのテレビ、今、自分が寝ているベッド‥‥。
ここがどこだか分からない。
「ここは何処なの?」
=仮想世界013の田舎ですね。別に何処でも良かったのですが、寝起きはちゃんとした方が良いと思いまして、良さげな所を見繕いました=
「‥‥‥‥」
リシャンは立ち上がる。風でカーテンが靡く、開け放たれた窓から外を見渡す。
蒼い空、地上には緑や赤、黄色‥‥カラフルな屋根の家が、海の方まで続いている。
カモメが飛んでいる。その声がここまで聞こえてくる。
「‥‥所で、私は死んだんじゃないの?」
=そうですね、あなたの前のアバターは歪みに巻き込まれて消えてしまいました。‥‥私のもですが=
クロウはため息をつく。
=私は直接世界に接続されていないので構わないのですが、リシャン‥‥あなたはそうはいかなかった。接続されたアバターが損傷を受けると、脳に情報はフィードバックされます。ある程度の負荷は軽減できますが、あの状況では無理でした=
「‥‥‥‥」
=‥‥なので、新しくつくりました。それが新しい体です=
「‥‥‥と、言われてもね‥‥‥」
前と何も変わらない。
ゆったりとしたワンピースのパジャマで、髪もおろしている。
こんな状態でも。
「‥‥」
突き出した腕に鎌が現れる。リシャンは落ちる前にその柄を掴んだ。
=まだ体調は万全ではありません。それに衝撃による記憶障害も出ています。そのうちに回復していくとは思いますが、エージェントとして活動出来るのはまだ先の話ですね=
「‥‥‥‥そう」
手を離すと鎌が消えた。そのままベッドに腰を下ろす。
シャオティンとの戦いは覚えている。それ以前の記憶が曖昧にしか思い出せないのは、やはりアバターを失った事による衝撃なのだろう。
「じゃあ、私は何をしてたらいいの?」
=それについては管理局から指示があります。当分の間、指定の座標で過ごすようにとの事です=
「過ごす? それだけでいいの?」
=はい、環境設定は全てやっておきますので、リシャンはただ普通のAIとして、他のAIと接してください=
「‥‥‥‥何でそんな事を‥‥」
疑問に思ったが、その気持ちはすぐに消えた。
何か意味があるのだろう。
「了解」
足を振って立ち上がる。
「‥‥で、何処に行けばいいの?」
=地方ですが、それなりに大きな街があります。そこで学生として通学してください=
「は? 学生? 何で今さら」
=リシャンは年相応のコミュニケーションスキルが欠如していますので、そこで学んでください=
「私の何処が!」
=‥‥そういう所です=
クロウは事前に飛び退いている。
「まあ、指示ならやるけどね」
=‥‥そうしてください=
バサバサと降りてくる。
=管理局の指示は絶対です。今度こそそれを守ってください=
「今度こそ?」
=いえ、こっちの話です=
クロウは、トットッ‥‥と、ベランダまで歩いていく。
=指示通りにしていれば危険な事はないんです。だから、絶対に余計な真似はしないでください。もう私は嫌ですよ=
「‥‥‥‥分かってるけど?」
管理局の指示は絶対‥‥それは当たり前の事で、今さら言われる事でもないが、なぜかクロウはそれを強調してきた。
=では行きましょうか。今日がリシャンの新しい人生の出発です=
「?‥‥大袈裟ね」
リシャンとクロウは光に変わって青空へと飛んで行った。
「おい、日高、まだ帰らないのか!」
俺の前の席の岡崎の奴が、教室の入り口で大声で俺の名前を叫んでいる。確かに、帰宅部でここにいても用事は何もなさそうだし、概ね、その通りだ。だが最近は違う。俺はまだ帰りたくはないんだ。
一番後ろの席の俺は教室をいつも真後ろから眺める事の出来る最上の位置にいる。なので授業なんかも当てられる事も少なく、前から順番に当てられてきても、それまでは惰眠をむさぼる事ができたわけだ。
授業中に勉強をさぼっているからと言って、勉強してない癖に点数が良いとか、そういう物語的な事もなく、成績はさぼったなりで可もなく不可もない程度。
勉強だけじゃなくて、全てがそんな感じで、あまり物事に一生懸命になれない。
それがなぜ言うと、どうせ一生懸命に何かに打ち込んだって、先が知れているし、そこからドラマ的展開には絶対にならない‥‥それが分かっているからだ。
このまま学校を卒業して、就職だか進学だかして、結局、どっか適当な所で働いて、まあ、普通の人生で終わるのが目に見えている。
だったら頑張る意味って何だろうって考えたけど‥‥今だに見つからないわけで。
「また、独り言をかよ」
岡崎がわざわざ俺の席まで戻ってきてそんな事を言ってくる。こいつの場合はオタク趣味のせいで部活に入れないだけだ。
「先に帰ってろ」
俺がそう言うと、岡崎はニヤと笑った。
「日高‥‥お前、遠野さんを狙ってるだろ」
「な!‥‥馬鹿な! そんな事はない!」
「誤魔化すなって、お前の視線は完全に遠野さんをロックオンしてるじゃないか」
「気のせいだ」
岡崎の言う遠野さんというのは、二年も途中の二学期終わりに転校してきた女子。
背は小さくて、一見、中学生にも見えるが、彼女はいつも無表情で神秘的だ。
もちろん、成績はいきなりトップ、運動もその体形に関わらず、完璧にこなして、家庭科以外は全く隙がない。
それなのに、周りの人とはほとんど話したりはしないし、先生に素性を聞いても、首を横に振るだけ。ユズリハという名前以外は何の情報もない。神秘的というか、これは何かあるような気がしてならない。
一度だけすぐ近くで彼女の顔を見る機会があった。
鋭い目じりに、真っ白な肌‥‥人形というか‥‥あれは芸術の域までいっている。
「おい‥‥日高‥‥」
「‥‥‥‥」
「日高! 戻ってこい!」
「‥‥え?‥‥ああ」
俺は咳払いして誤魔化す。そういうわけで、まだ残っていた遠野さんの後ろ姿を見ようとしたが‥‥。
「いない!」
しまった。どうでもいい奴と話してる間に、遠野さんを見失ってしまった。
「‥‥‥‥」
俺はカバンを掴んで走り出す。後ろで岡崎が何か言ってるが、それは知った事ではない。
彼女には何かある。
この停滞した退屈な世界‥‥彼女はそこから脱出する鍵のようなものを持っている気がする。
廊下を全力で走っていく。退屈な日常がどんどん後ろに流れていく。
「‥‥‥‥今なら」
昇降口あたりを歩いているはず。そう思って階段に向かったが、
「?」
屋上に続くドアが開いている、普段は施錠されてて、上がる事は出来ない。
その時点で俺は悟った。
普通でない事が起こった。その先には彼女がいるかのしれない‥‥いや、絶対いる。
屋上に向けて走っている途中で、それは既に疑問ではなく、確信に変わっていた。
「‥‥‥‥」
開いている扉から俺は屋上に出た。よくある学園物とは違い、現実に屋上に上がる事は普通は出来ない。
そう、彼女は特別な存在なんだ。
「‥‥‥‥」
埃っぽいような、かび臭いような‥‥初めての屋上の臭いが鼻をくすぐる。辺りを見渡すと周囲は当然フェンスで囲まれている。
俺は彼女を探した。屋内にいる時は広いように感じていた校舎は、こうして平面に感じるとそれほどでもない、こんな狭い場所に閉じ込められていたのか‥‥俺はそれを再認識した。
「‥‥あれは」
遠野さんを見つけた。
給水タンクを囲むコンクリに腰をおろして、何かをやっている。背中を向けてるので良く見えない。
当然、俺はゲームのように真後ろからではなく、脇から回り込む。これで彼女の死角になった。
「‥‥‥‥」
薄緑色のタンクの陰から俺は遠野さんを覗く。
「‥‥‥‥ん?」
足元に黒い影‥‥何かと思えば、それはカラスのようだ。
まさか餌でもあげてるのだろうか。
“こんな所にテロリストがいるの?‥‥‥‥そう‥‥まあ、仕方ないけど‥‥‥‥全く‥‥面倒‥‥”
「‥‥‥‥」
彼女はカラスと話をしている。風で良く聞こえない。
俺は少しだけ前に出たけど、
「!」
コン‥‥と、足元のネジのような金属を蹴ってしまい、それが金属のフェンスに当たって音を立てた。
カラスは飛んでどっかに行ってしまった。
「‥‥‥‥」
僕を見つけた遠野さんは、立ち上がって睨んできた。
「何か用?」
「‥‥えっと‥‥その‥‥」
こんな時、何て言うべきか‥‥どうすれば誤魔化せるのか‥‥。
誤魔化す? いや、違う。俺は遠野さんに興味があってここにいるんだ。
だから正直に言おう。
「‥‥遠野‥‥ユズリハさん」
「‥‥‥‥」
そこで大きく深呼吸する。
「ユズリハさん‥‥俺と‥‥」
「‥‥‥‥」
「俺と付き合ってください!」
無我夢中で手を伸ばした。