仮想現実へのテロ組織、ヴァイアスの動きがあり、現地での調査を命じられたリシャンは、管理局に指定されたポイントに実体化する。
「‥‥‥暑い‥‥‥」
ゆっくりと目を開いたリシャンが呟いた言葉はそれだった。
紫色の服は首元までしっかりと覆われており、脚も体形の出ないようなゆったりとした同じ色のズボンを着用している。その上に肩の張った青色のエプロンのような外套を羽織っているが、腰から下は前が開いており、足取りを隠すような事はない。手首には中指で止めたぴったりとした白い腕差しを付け、頭には同じ白色の布をグルグルに巻いたものをかぶり、強い日差しを避けていた。
露出している顔と腕、足首の白さが目に映る。
「温感遮断を実行」
リシャンの体の輪郭が光ると、それまで彼女を襲ってきていた熱はピタと止まった。
「‥‥‥‥前の国とは随分と景色が違うのね」
=そうですね、同じ013ですが、座標が大きく移動しています=
クロウは黒い鳥の口で説明する。
リシャンが言うように、前までの街とは趣が全く違っている。
海岸線沿いに並ぶ家々は真っ白で、コンクリや木とは素材が違うようだ。丘に沿って建てられた家や、小さなビルは密集しており、古ぼけた感じを受ける。漆喰の白色は日の光を受けて眩しく輝き、空の青との対比で強く目に焼き付いてくる。
その港では、たくさんの人が船からの荷物の積み下ろし作業の為、忙しそうに働いているのが見えた。
「‥‥‥‥」
リシャンは通りを歩いていく。石畳に接している青色のパンプスが小さな音をたてると、まわりの人々は物珍しそうにリシャンに視線を向けた。
通報してきたのは、アジェト、アルダムールというこの地で仮想世界での生活を開始した三十代後半の男性。基本的に管理局は初期設定の事に関して以外は、個々人の要望には応えるような事はしない。だが、何者かが規約違反をしている事で、権利が侵害されているという内容であった為、エージェントを派遣する事になった。
「アジェト‥‥どんな人なの?」
=仮想世界には十年前に接続。初期配置は、この世界のこの地での一般家庭という事でスタートしました。家族は予めに配置済みです=
「‥‥‥‥普通ね」
仮想世界での暮らしを求める人のほとんどは、現実では成しえなかった希望を初期配置という形で実現させていた。それなのに普通の生活を求める‥‥彼はリアルではかなり苦渋をなめてきたのかもしれない。
=アジェトはリアルで配偶者を亡くしています。子供はいません=
リシャンの考えを察したのか、肩にとまったクロウが説明を付け加える。
「‥‥‥この世界で家庭をね‥‥‥」
それなら十分に納得できる話だ。が、事前に聞いた話からすれば、その後の行動は不審に思える。
その後、彼はこの地の国家を打倒すべく、組織を立ち上げた。それは平穏な家庭とは正反対と言える。管理局は現地の政治体制などには不干渉で、表面的事実しか分からず、その辺りの情報は何も分からない。
それならなぜ管理局は動いたのか。規約違反との事だが、それは詳しく話を聞く必要がある。
「‥‥‥聞いてみますか‥」
リシャンは坂を下って港まで歩いた。
船乗りらしき人が、リフトでコンテナを移動させている。登録では遠方からの食料品とはなっているが、質量とデータ密度が表記と合っていない。
「‥‥‥‥」
木製で中身は見えないが、リシャンの視線はその箱の板を貫き通す。実際に中に入っているのは鉄製の筒をした物体が多数。鉛を火薬で打ちだす仕組みの原始的な武器だ。
港に置いてあるコンテナのうち、大部分に武器が入っている。食料もあるにはあるが、調理が必要のない保存のきく、携帯食料の割合が多い。あちこちに視線を走らせてみれば、船員のほとんどが、武器を携行している。
「何やらきな臭い所ね」
=紛争地帯の只中なので、それは当然でしょう。慎重に行動してください=
「了解」
肩に大きな木箱を担いでいる大柄な男に近寄った。
「聞きたい事があるんだけど、アジェト、アルダムはここにいる?」
「ああ?」
男は真上からリシャンを睨む。かなりの身長差、体格差があり、並ぶと大人と子供のようだ。
「こんな所にアジア人か? 嬢ちゃん、あんた何者だ?」
「アジェトはいるの?」
リシャンは同じ質問を繰り返す。
「‥‥‥‥そんな人はいねえよ」
男はそのまま行こうとしたが、リシャンは男の空いてる腕を後ろから掴んだ。
「いねえって言ってるだろう!」
「ここで待ち合わせをする約束なのよ。嘘は言わないでよね」
「何だと!」
男はリシャンの手を振りほどこうと力を込めたが、地面に深々と刺さっている鉄の杭のように、いくら揺さぶってもびくともしない。
「何だ‥‥一体‥‥痛てててて!」
リシャンは片手で男の腕を捻る。関節を逆に回された男はたまらずに箱を放り出して地面に顔をすりつけた。
それまで黙って見ていた周りの男達が、一斉に隠していた武器を抜いて銃口を向けてきた。
=ああもう‥‥何であなたは‥‥=
「ちゃんと話し合いはしようとしたでしょ? 応じないこいつらが悪い」
一番手前にいた男がナイフを抜き、リシャンに走ろうとしたその時、
“待て!”
よく通る制止の声が響き、全員が動きを止めた。
「彼女は私の知り合いだ! 持ち場に戻れ!」
その声だけで、その場の人間は、何事もなかったかのように作業を再開する。関節を痛めた大男だけは、腕を押さえて走っていった。
「‥‥‥あなたが、仮想空間管理局のエージェントですか?」
そう聞いた男はまだ若く、ヒゲもまばらだ。背もリシャンより少し高いぐらいで、ここの男達に比べると華奢な印象を受けてしまう。
「私はリシャン。あなたがアジェトね」
かなり年下に見えるリシャンの口ぶりが、まるで年長者のような感じに思えた。アジェトは少し驚いた顔になる。
「そうだ。ここで対政府組織アジルクの長をしてる。込み入った話もあるので、中で話しをしよう、エージェント、リシャン」
リシャンが頷くと、アジェトは泊めてある船へと案内した。途中、船と桟橋の間にかけてある木の板が揺れたが、リシャンは軽快に甲板へと降り立った。
通されたのは船の客室。アジェトは座るように椅子を手で示したが、リシャンは立ったままでいた。
「最初に確認したい事があるんだけど、この世界に接続する際に、あなたは普通の家庭を希望して、その通りの初期設定だった。それがどうして、こんな革命のような事をするようになったのかしら?」
「それは‥‥」
アジェトは視線を逸らした。
「この世界に来て、幸せな生活を送れたのは、一年‥‥二年ぐらいだ。元々、この辺は海運で成り立っていたんだが、突然、隣国のザフラカンが侵攻してきた。その時の砲撃が元で‥‥妻も二人の子供も‥‥逝ってしまった」
「‥‥‥なるほど‥」
アジェトはリアルでは病気で家族を失い、仮想世界では銃火器で亡くした。なぜ自分だけがこんな目に‥‥と普通なら嘆いて終わっても仕方がない程の不運だ。
どんな状況になろうが、管理局は不干渉の立場は崩さない。逆恨みされても仕方がないまでもある。
「‥‥ふふ」
アジェトが政府軍?‥‥に、立ち向かう理由は分かった。
「それで、規約違反‥‥」
=リシャン!=
「‥‥‥‥」
窓から外を見る、海の方から何隻かの船が近づいてきている。
「アジェト!」
部屋に銃を持った人が慌てて入ってくる。
「政府軍だ!」
「くそ! ここで受け渡しをしてるのがバレたのか‥‥」
悪態をつきながらも、アジェトも武器を取る。
「ここは戦場になる。今のうちに逃げた方がいい。話はまた後で!」
リシャンの返事を待つ事なく、アジェトは仲間たちと一緒に飛び出していった。
=これだけだと状況が分かりませんね=
「‥‥‥‥そうね」
開けっ放しのドアから甲板に出る。三隻のザフラカンの船は高速で、高い水しぶきをあげながらこの港を目指してきているのが見えた。桟橋付近ではアジェトが大声を上げて迎撃の為の土嚢を積み上げている。
「‥‥‥クロウ‥‥‥ザフラカンの船の船体重量と、データ量を割り出して、そこからあの船が出せる最大船速を割り出して」
=分かりました=
「‥‥‥‥」
あの大きさの船にしては速度が出すぎている。リシャンは違和感の正体がそこにあると判断した。
=スクリュー、ジェット‥‥如何なる機関を用いても、この時代の技術では出せない速度で航行しています=
「‥‥やっぱり」
アジェトに聞くまでもなく。規約違反をしている者が誰かが分かった。
普通に考えれば、持ち込んではいけないはずのリアル世界での技術をここで使用しているという事になるが、この近辺に人間のアバターはアジェト以外にはいない。AIがリアル世界の技術を勝手に使用しているという事になるが、それこそありえない話だ。
=どういう事なんですかね?=
「他の可能性を消去していって、最後に残ったものが答えらしいから‥‥多分、AIが使ってるんじゃない?」
=まさか=
「フフ‥‥そういうわけで観察しに行きましょうか」
=干渉は出来ませんからね! 管理局規定、覚えてますよね?=
船から降りたリシャンは、猛スピードで接近してくる艦船とは対照的に、ゆっくりと足をすすめ、急ごしらえで作った塹壕の隙間から後ろに回った。
アジェトの近くに寄る。
「エージェント、リシャン! ここは危ない!」
「大丈夫、大丈夫。ここでその規約違反の現状を観察させてもらうだけだから」
「‥‥分かった」
ザフラカンの船は港に着くと、正面の入り口が開き、そこから一斉に迷彩服を着た兵士が下りてきた。手に持っている銃は、火薬式のものではない。
“撃て!”
政府軍の指揮官がそう命令すると、一列に並んだ兵士達は同時に引き金を引いた。
ビュン‥‥という重なりあった音が響いた後、赤い直線的な光が真っ直ぐに土嚢に突き刺さり、貫通して後ろの男の体を貫いた。
「ぐはっ!」
光は背後の家の壁に丸い穴を開けて止まった。穴からは煙があがっている。
「この!」
土嚢の隙間から顔を出して、銃を撃つ。排出される薬莢とともに間断なく射出される弾は、確かにザフラカンの兵士達に命中しているはずだが、その途中で急に失速して地面に落下して転がった。
「‥‥‥‥」
リシャンはその有様を身動き一つなく、じっと見つめる。
AIが撃たれて倒れると、断末魔をあげてそれで動かなくなる。それはこの世界でのそのAIの死を意味する。
巻き起こる爆風が、リシャンの服の端を大きく靡かせた。
もはや戦闘にすらなっていない。政府軍側からの一方的な攻撃だった。
リシャンは目を細める。
「‥‥‥‥クロウ」
=はい=
「規約違反が明らかで、それによって現地AIが消滅している。このままだとプログラムに歪みが発生してしまう可能性が高いと判断‥‥管理局規定により、エージェント権限で介入行動を開始する」
=‥‥了解=
「‥‥‥‥」
リシャンの瞳が紅く光る。突き出した腕の先に鎌が現れ、その鎌の柄を掴んで回転させる。
向かってきた赤い閃光を鎌で弾き返す。真っ直ぐに撃った方向に返され、銃を構えていた兵士に直撃する。
「ぐはっ!‥‥」
リシャンはただ真っ直ぐに歩いていく。何度も光が襲ってきたが、その度に撃った者に戻されていった。
「‥‥全く」
あの兵器は今のこの時代にはあってはならないものだ。
同時に四方から攻撃が迫ったが、鎌を一閃させると、やはり光の軌跡は方向転換して、撃った主に返された。
そうしてる間に、ザフラカン兵士の数が減ってきた。
=これ以上は駄目です。この地でのAIの数が規定以上に減少してしまいます=
「‥‥‥‥了解」
リシャンは鎌を大きく振るった。鎌イタチの風が、地面を抉り、爆風が残った兵士を吹き飛ばしていく。
汽笛が鳴った。政府軍は撤退を開始したようだ。
「‥‥‥‥」
振り返って散々な有様の革命軍の陣地を見渡す。
あちこちで倒れているのは、あの攻撃を受けた者たちだ。ひたすら直進してくるあの攻撃を前にしては無事で済むはずはない。
「あなたは無事のようね」
「‥‥‥‥」
アジェトは肩を押さえてうずくまっている。リシャンに気が付くと一瞬だけ顔をあげたが、また膝の中に頭を戻した。
「どうしてなんだ!‥‥まさか管理局が、ザフラカン政府に加担しているんじゃないだろうな?」
「そんな事はしない。管理局は仮想世界の歴史に関与はしない」
「では、あの武器は何なんだ! どう見ても、現実世界のものじゃないか!」
「‥‥‥‥」
リシャンは言い返さない。ただ黙ってアジェトの言葉を聞いている。
「政府はこれからも、我々を襲ってくるだろう。エージェント、リシャン‥‥我々に協力してもらえないか」
「‥‥それも出来ない」
「‥‥そうか‥‥残念だ」
「‥‥‥‥」
リシャンは顔を背けた。
政府が体制に反旗を翻してくるような集団を放置しておくはずはない。折を見てまた攻撃をしかけてくるのは明らかだ。
「このまま戦い続ければ、あなた方に勝利の可能性はない。それでも続けるつもり?」
「もちろんだ」
「死ぬと分かっていても?」
「当然だ。我々は‥‥」
アジェトは仲間の方に顔を向ける。手をあげると彼らは笑って振り返してきた。
「‥‥‥‥我々は政府軍の侵攻で全てを奪われた者の集まりだ。我々は命より大切な家族を失ったんだ」
握った手に力を入れて震わせている。
「政府を打ち倒し、軍の脅威から皆を開放する事が出来るなら‥‥それは残された我々にとっては命より大事な使命だ。例え、どんな犠牲を払おうとも、やり遂げなければならない」
「‥‥‥‥」
それで戦火が拡大すれば、同じように家族をなくす人も増えていくのではないか?‥‥リシャンの心にそんな疑問が浮かんだが、決死の覚悟を決めた彼らにそれを言う事は出来なかった。
「それではまた後に‥‥」
リシャンはまだ噴煙があがる港街を歩いていく。
解決しようのない大きな疑問が浮かんでいた。
日が暮れ始めると、今まで暑かった大地は一転、肌寒い程に気温が下がる。
リシャンは無言で、漆喰作りの白壁の街を歩いて行く。これからの方針を決める必要があった。
=あきらかにあれはオーバーテクノロジーでした=
「‥‥管理局は何か言ってた?」
=今、協議中です。もう少ししたら方針が伝えられると思います。それまでは時間を潰すしかないでしょう=
「‥‥‥‥」
クロウに心配されているようで、リシャンはため息をつく。
=とは言っても、彼らの側について政府軍と戦う事は許可はされないでしょうね=
「聞いてみたの?」
=いえいえ、あくまで私の私見です。余計な事はしないで任務で指示された事だけをしてください。それ以外の事をしてもロクな事になりませんから=
「‥‥‥‥今日はやけに喋るのね」
道端に大きな岩があり、リシャンはそこに腰を下ろした。
暗くなり始めた道の上を、荷馬車が速足で通り過ぎていく。御者台に座っているのは親子のようだ。暗がりで座り込んでいるリシャンを不審な目で見ていた。
時間を潰す‥‥リシャンにとって最も苦手な事の一つだ。
=お喋りついでに‥‥‥‥私がアクセス担当になった始めてのエージェントは、もっと素直な子でした。任務に忠実で、何度も仮想世界の危機を救いました=
「まるで私はそうではないと言いたげね」
=‥‥まあ、似てはいませんでしたね=
クロウが自分の事を話す事はほとんどない。その貴重な機会を無くさないように、リシャンはなるべく話の腰を折らないようにとは考えた。
=彼女は管理局の命を忠実に実行していたのですが、ある日、AIアバターの願いを叶えようと、指示とは反する行動を取ってしまいました。最初から無謀と分かっていたのに行動して‥‥予想した通り、彼女は死亡しました=
「‥‥‥‥‥‥」
=あの時、もっと強く止めていたらと、今でも後悔しています。‥‥だからリシャン、軽率な行動は慎んでください。あなたは彼女以上に無茶な事をするようなので=
「‥‥‥‥‥‥」
リシャンは岩から飛び降りる。
真っ暗になった辺りには誰も歩いている人はいない。家々の窓から明かりが漏れており、帰る場所に帰っていったのだ。
「‥‥まあ、少しはね」
フフ‥‥と笑ったのは、クロウのお喋りに対してなのか、普通の人は夜に家に帰るという当たり前の事を考えたからか、それとも、素直にクロウの言葉に頷いたからなのか‥‥その事が、自分でも分からず、笑っていた。
=リシャン‥‥たった今、ザフラカン政府に潜入して詳細を調査せよという指示がありました=
「潜入? 方法は?」
=柔軟かつ効率的に対応してほしいと=
「‥‥‥‥」
一際大きなため息をつく。
「これで指示された通りにやれって? 馬鹿じゃないの?」
=‥‥‥はあ、まあ‥‥それは‥‥=
「‥‥ふふ‥‥あは!」
言葉を失っているクロウを、リシャンは大声で笑った。
ザフラカンは大陸内奥の国である。広大な砂漠が他国との交易を邪魔しており、陸路での貿易は非効率さとリスクから、経済を発展させる事は容易ではなかった。
国民が裕福とはほど遠い生活を強いられる中、前王の逝去により、新たに王となった嫡男の王子、バジラフは齢十七で即位した。彼は貿易による利益享受から、比較的裕福な隣国を併合する事による帝国主義へと舵を変更した。それが功を奏した結果、低迷を続けていたザフラカンの経済が急激に好転する事になった。
バジラフに才腕があった事は確かだが、彼が王に就任すると同時に宰相となったアミーナの力による功績が大きい。
彼女は常に新王バジラフの傍らにおり、的確な助言によって彼を支えてきた。
バジラフの弟によるクーデターを未然に防ぎ、侵攻する際には、的確な作戦によって常に勝利をもたらしている。経済知識にも明るく、赤字続きの王国経済をドラスティックに改革してきた。
今ではザフラカン国は、周辺国に多大な影響を与え、傀儡とする国を増やし、帝国の様相を示し始めていた。
大陸内地をあらかた併合し、後方からの憂いをなくした頃、次に海岸沿いの商業都市群をターゲットに定めた。その辺り一帯は、大型の船舶が接岸可能な港を多数保有する事が出来る上に、位置的にもヨーロッパ、アジア、どちらとも交易が可能となっている豊かな地だ。ザフラカンにとって、この地域を傀儡とする事が真の目的であったと言って良い。
湾岸都市群には戦力と言えるものがほとんどない。兵力では相手にならない程であり、加えて、ザフラカンには絶対に戦いに勝利する事が出来る武器がある。
その武器をもたらしたのも、宰相のアミーナだった。
彼女が独自に設計、開発したものであったが、それはあまりにも異質である。
鉄板に簡単に穴を穿ち、防ぐ事が困難な弾を放つ銃‥‥それを防ぐ事は困難だ。
「油断するなよ。」
バシラフの印象は、とにかく物腰が柔らかだ。
いつも顔には笑みを浮かべており、言葉も丁寧だ。
「追い詰められた者はそんな手も使ってくる。慎重に行動するようにな」
侵攻前の兵士達に、バジラフはそう訓示したが、そう言うバジラフ自身も自国の勝利を信じて疑わなかった。
それ故に、失敗の第一報がもたらされた時、彼は自身でも知らずに慢心していたその心を自身で叱責する事になった。
「失敗した⁈ まさか、そんな事はありえないんだが」
「い、いえ、部隊は多大な損害を受けて、撤退してきました」
「‥‥‥‥分かった。下がって休んでくれ」
「はっ」
兵士が宮殿にある彼の執務室から出て行った後、顔に手を当てて後ろのソファーに腰をおろす。
万全の体制で臨んだはずだった。彼我の戦力差から言っても、失敗はあり得ない。
「‥‥いや、実際には失敗したんだ。それは認めなければならない」
すぐに考えを切り替え、アミーナを呼んだ。
「お呼びで、陛下」
アミーナは長い黒髪の女性だ。ベージュ色のサテン生地のチェニックと、足首まで覆うスカートは彼女の笑顔と同じく、柔らかな印象を与える。そこに黒いガウンを重ねており、全体的には黒色の印象が強い。腰に巻き付けてある太いスカーフには、長い笛が常に挟まっている。元々彼女は、何処かの国の有名な演奏者だったという噂があり、その楽器がその手の流言に信憑性を持たせていた。
「もう知っているとは思うけど、湾岸都市へと向かわせた侵攻部隊が失敗したんだ」
「‥‥‥‥」
その言葉にアミーナは表情を全く変えない。髪の脇に差してあるハイビスカスのオレンジ色の花が、開け放たれた窓から入ってくる風に、静かに揺れている。
「信じられないだろ? 君が開発した特性の銃を持たせたのに」
「‥‥‥‥どんな感じだったのでしょうか?」
「それが‥‥報告だと、たった一人に撃退されたという事だ」
「一人?」
アミーナは目を細めて、真顔になった。
「その者は、こちらの銃を全てはじき返して、その跳弾が、我が部隊の兵士を傷つけた‥‥ますます信じられない」
「‥‥‥‥」
「あと少し‥‥あと少しで、この地域の統一がなるのにな。‥‥まあ、彼らも必死だ。そう簡単には思惑通りにはいかないよな」
この地域は沿岸部だけが豊かな地だ。穏やかに見える年月をいくら経たとしても、そんな地域を他国が見て見ぬふりをするわけがない。いくら目を逸らそうが、必ず自国に組み入れようとする国が現れる。それを覆すだけの力が沿岸都市にはない。一度戦闘が始まってしまえば、彼らには成す術はなく、蹂躙され、搾取され尽くした後には悲惨な運命が待っている。そうなる前に、ザフラカンが併合し、挙国一致体制を確立しなければならない。今回はその為の侵攻だった。
「あなたの考えは正しいと思うわ。誰かがやらなければ、より多くの人の命が失われる、それを防ぐ為の行動なのだから」
「‥‥それは分かってるんだけどね」
侵略国としてザフラカン、その王としてバジラフは憎しみの対象になっている。
より多くの人命を救う為、戦闘による犠牲が出るのは仕方がない事だと、割り切るしかない。
全ての人を守る事は出来ないのだ‥‥バジラフは幼い時から教わってきた事が、真実である事を実感する。分かってはいるが、全てを飲み込むには、人一人の心は小さすぎる。
「とりあえず、こちらの侵攻準備が出来るまで調査だね。アミーナ‥‥やってくれるかい?」
「もちろん、喜んで」
アミーナは少しだけ落ち込んでいる王に向けて、優しい笑みを向けた。その顔を見たバジラフは思った。
今は一人ではないと。
彼女だけは自分の心を理解してくれる同士なのだ。
ザフラカン軍本部前では、人々が列をなして待っている。
国として良く思われているわけではなかったが、兵士へ支払われる賃金が基準より多く、結果、募兵の度に多くの人が殺到するようになっていた。
「次だ!」
長身の青年が中へと入っていく。その次に待っているのは、粗末な迷彩服を着た小柄で華奢な若者だった。体格から言って、とても採用されるとは思えない。
「次!」
その青年が奥へと進む。部屋の中には簡素なテーブルが一つと、深緑色の軍服を着た複数の男達が、座ったまま、その青年を凝視する。
「何だ、今度のは、やけに痩せっぽちだな。誰だ? こんなのをここによこしたのは?」
「そうだな。これではとても‥‥」
雇われない‥‥その言葉が出る前に、若者は口を開いた。
「おや、勇敢なるザフラカン軍は、人を見かけで判断するの?」
声は男性にしては甲高い。
「何?」
「‥‥‥‥」
青年は目深に被った帽子を上げて顔を上げる。その青年はリシャンだった。
「それはどういう意味だね?」
「意味も何も、言った通り。見かけだけで判断してるようじゃ、ザフラカンも大した事がないって事」
「な‥‥無礼な!」
リシャンの思惑通りに男性は頭に血が上っている。
「では、力比べをしますか?」
腕まくりして肘をテーブルにつける。真っ白で細い腕は、とてもまともにアームレスリングが出来るようには見えない。
「はっはっは! 何だそれは!」
右側に座っていたまだ若い将校が、リシャンの対面に座って手を掴んだ。
「‥‥‥‥」
大きな手が、リシャンの手を包み込む。
「用意はいいな」
「‥‥‥‥」
リシャンが頷くと、開始の号令とともに男は力を入れた。
「ふん!」
「‥‥‥‥」
周囲の予想通り、リシャンが押されている。あと三センチ‥ 華奢な手が机に押しつぶされそうになった頃。
「‥‥‥‥それで終わり?」
「‥‥?」
いくら押してもそれ以上はびくとも動かなくなった。それどころか、逆に押し返されている。
「‥‥‥‥ぬ‥‥ぐ‥‥」
「‥‥‥‥」
苦しそうな男とは対照的に、リシャンは眉一つ動かしていない。やがて拳は頂点を超えて、反対側へと倒れていった。
「ぐはっ!」
「‥‥‥‥」
あと少しで男の手の甲がつきそうになった直前、一気に力を入れられて、その手が机の天板に食い込む。
「があああ!」
腕を押さえて後ろにひっくりかえった。
「誰かまだやりますか?」
誰も答える者がいない。リシャンはそのまま兵士として採用となり、兵舎へと連れて行かれた。
宿舎の中は、外からでは想像がつかないほどに整然としており、金属性の壁は、ここがいざという場合には、この兵舎が防衛拠点になるようだ。
「‥‥‥‥」
ロッカー的なものもあるようだが、そこに例の武器は入ってはいない。管理局本部でのスキャンでは、レーザー式のその銃は存在しない事になっている。
武器自体の構造は分かっているので入手する必要はないが、何処からその技術が流れてきたのかを知る必要がある。面倒ではあったが、リシャンは内部からその情報を得る事にした。
薄緑色の戦闘服が渡されたが、リシャンには明らかに大きすぎる。誰もいない場所まで移動してから、そこでデザインを読み取り、複製してからリサイズして着替えた。
正規の兵と言うよりは、傭兵の扱いのようで、特に詳しい身元も聞かれなかったが、これからの詳しい行動も説明されなかった。時期がきたら戦場に派遣されるらしい。
「‥‥‥‥全く」
探索する為に薄暗い通路を何くわぬ顔で歩いていく。ただでさえ立地が砂漠で、埃っぽい。感覚は切ってはいるが、それでも視覚から不快な気分が伝わってくる。
指令室があれば、そこから情報は抜き取れる。誰かいたとしても、認識阻害を使えば、見えてはいるが誰にも注目される事はない。
さっさとこの任務を終わらせよう‥‥リシャンはそれだけを考えていた。
本来は入ってはいけない施設の奥まで入っていく。何人かの将校らしき者とすれ違ったが、リシャンには何も話しかけてはこない。軍服を着た、ここに入る許可をもらった知らない誰か‥‥彼らが思うのはそれだけだ。
「‥‥‥‥」
扉にパスコードを入力するパネルが付いている部屋がある。どうやらあそこが当りの部屋のようだ。
リシャンが手を翳すとドアは何事もなかったかの様に開いた。
中に入ってから扉を閉める。窓は無く、真っ暗だったが、リシャンの眼は昼間のように中を見渡す。
棚の中には書類が詰まっている。が、それを見ている時間はない。
机の上にかなり古いタイプのコンピューター端末があった。そこから情報を得ようとしたが、規格が全く違うので接続する事は出来なかった。無理矢理吸い出す事も出来なくもないが、目立つ痕跡を残すのは後々不利になる。同じ理由で管理局に処理を投げるわけにもいかない。
諦めて、指を使って入力するという非効率極まりないそのインターフェイスを使って、情報を取得していく。
「‥‥‥銃の取引がない‥‥‥突然、在庫が増えている‥‥」
つまりあの武器はプログラム上に無理矢理作成されたものだ。
テロリストの関与が確実だ。外のクロウに入手した情報を渡せば、管理局が新たな指針を決定してくれるだろう。
「‥‥‥‥ん?」
外が騒がしい。そろそろ潮時のようだ。
リシャンはコンピューターの電源を切り、足跡を全て消してから外に出る。すれ違った何人かの警備兵が走っていくが、リシャンには目もくれない。その警備兵が持っているのは陽子レーザー式のあの銃だ。
「‥‥‥‥」
元の兵舎に戻るその途中、少しだけ豪華な扉を見つけた。そこにも何がしかの情報があるかもしれない。だが問題がある。パスコードのパネルは見当たらないが、外に兵士が立っている。
「気はすすまないけど‥‥」
一歩で数メートル先の兵士の目の前まで移動した。
「!」
突然現れた小柄な兵士に、立っていた警備の男は一瞬、戸惑った。
リシャンが男の額に手を当てる。
「‥‥‥‥」
男の瞳から光が消えて、立ったまま動かなくなった。
「‥‥‥‥しばらく時間を止めてて」
静かにドアを開けてから、後ろ手に静かに閉める。
“誰だ?”
「‥‥‥‥」
気配というものは完全に遮断していたはず。それが気づかれたという事は‥‥。
「テロリスト!」
鎌を宙に出現させて、左手で柄を掴む。書類棚で死角になっていた部屋の奥へと進んだ。
「‥‥‥‥誰だい君は?‥‥呼んだ覚えはないんだけど」
ここは執務室らしい。大きな机の奥でリシャンを見つけた男性が声をかけてきた。
「‥‥‥‥」
認識阻害は機能している。それなのに、あの男性は明らかにリシャンをとらえている。
「誰?‥‥うちの兵士にしては、妙だけど」
男は立ち上がった。ぼやけた感じにしか見えないはずだが、顔まではっきりと覚えられた‥‥彼は只物ではないようだ。
「私はリシャン」
「リシャン? 君はアジア人の傭兵なのか?」
「‥‥‥‥」
「まさか‥‥君みたいな子供まで‥‥」
「‥‥‥‥」
兵を呼ばれると思っていたリシャンは、彼のその言葉に、顔を曇らせる。
「あまり戦闘に向かない者は、入れるなとあれほど言っておいたのに‥‥監査は何をしてるんだ‥‥」
男はリシャンの前に立った。彼もかなり線が細い部類であったが、それでも上から見下ろす形になる。
「僕は‥‥世間で言う所の国王だ」
「‥‥バジラフ‥‥王」
事前に聞いていた話とは違い、好戦的には見えない。中東の男性にしてはヒゲも生やしていない。かなりの変わり者のようだ。
「どういう理由で兵に志願したかは分からないけど、すぐに家に帰りなさい」
「‥‥‥‥」
なぜそんな事を言ってくるのか、彼の真意を測りかねていたリシャンは、ただ黙っていた。
とにかく、彼のせいで周辺に紛争が絶えない状態になっている。ここで消去してしまえば、それでそんな争いはなくなるだろう。
「‥‥‥‥」
手の平を広げると、光の粒が現れ、それは鎌の形にまとまった。
「‥‥そうか‥‥君は‥‥暗殺者なのか‥‥」
「‥‥‥‥」
何もない空間から現れた鎌を見てもバジラフは動じない。リシャンは何も言わずに、バジラフ王の首に鎌の刃をかけた。
「王‥‥湾岸都市国家‥‥周辺地区への侵攻をやめる気はないの?」
「そうだね、それは出来ない」
「なぜ?」
リシャンには、刃物を突き付けられても自然体でいるこの男が、自国と自身の権勢の為だけを求めて行動するような人間には思えなかった。
「簡単な話さ‥‥僕がそうする事で、より多くの人間の命が助かるからね」
「‥‥‥‥」
「このまま僕が手をこまねいていたら、他国から侵略されて悲惨な事になるだろうね」
「‥‥‥‥」
同じ民族の保護を目的としての併合だとバジラフは言った。
「‥‥‥‥その為に出てる今の犠牲は、その為の必要悪だと?」
「‥‥心情的にはそんな簡単な事じゃないんだろうけど、これが最良の選択だと思ってる。人間は神様じゃないからベストな事はできない。常にベターな選択をしていくしかないんだ」
「‥‥‥‥」
「‥‥それが違うと言うなら‥‥その鎌で僕の首を斬ればいい。ここでそんな終わりになるなら、最初からそういう運命だったという事だ」
「‥‥‥‥」
リシャンは少しだけ鎌を動かす。当てられた喉から、少しだけ血が滲んできた。しばらくして鎌を上にあげた。
つまるところ、この男も、反乱軍のリーダーのアジェトも、互いの信念の為にぶつかっている。そして互いに正しいと信じて疑わないのだ。
事前に話し合えばそれで済んだかもしれないが、今となっては身内が犠牲になったアジェト達は、それで納得はしないだろう。ザフラカン政府にしても、犠牲は出ており、途中で止める事はできない。それにバジラフの言う通り、併合するのが平和への近道なのも確かだ。
「‥‥‥聞きたい事があるんだけど‥‥‥」
「なんだい?」
「軍が使った武器は何処から持ってきたの?」
「武器?‥‥ああ、あれか‥‥あれは‥‥」
バジラフは頭をかいた。
「あれは、うちの宰相が設計したものだ。威力が高いので重宝してるよ。それ以上は言えない」
「‥‥そう」
今はそれだけ聞き出した事で良しとしよう。リシャンはそう決断してバジラフに頭を下げた。
「では、さようなら、王様。良い人生の旅を」
「君もね」
「ふふ」
リシャンは王の執務室から出た。衛兵が立ったままだったが、時間が経てば元に戻る。
一度、外に出てクロウと合流して情報の整理をしようかと考えながら、薄暗い廊下を歩いていたが、
「‥‥‥‥!」
向こうから黒いガウンと黒い髪の一人の女性が歩いてくる。男性ばかりの軍の施設の中で、女性は珍しいが、目を引いたのはその点だけではない。
「‥‥‥‥」
彼女は微笑みを浮かべたまま、近づいてくる。リシャンも何事もなく、ただ無表情のまま足を進めた。
進行方向が真逆の二人は、一瞬だけ並んだ。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
無言の時間はほんの一瞬だった。
「‥‥リシャン、また会ったわね」
「‥‥‥‥」
あまりにも普通に話しかけられ、逆にリシャンは返す言葉を無くした。
「‥‥あなたは知る事になるわ‥‥管理局の‥‥統合政府のしている事を‥‥この世界がなぜあるのかを‥‥」
「‥‥‥‥」
彼女は攻撃してくるつもりはないようだ。ただ目を合わせずに正面を向いたまま、優しく話し続けている。リシャンにしても、ここで騒ぎを起こす事は得策ではない事を承知している。奇しくもその二人の思惑が重なり、ただすれ違う見知らぬ人という形になった。
女性‥‥シャオティンはリシャンのように笑った。
「では‥‥またね‥‥」
「‥‥‥‥」
シャオティンのその言葉が合図だったかのように、二人はまた歩きだす。
出入り口を守る兵士は、外に出る軍服姿の少女の姿を見ても、何も言わずに通した。先ほどのアームレスリングを見ていたのか、何処かリシャンを見る目も心なしか穏やかだ。
皮のブーツが踏みしめるのは熱い砂。
近くこの砂漠の地で大規模な戦闘が起こるのは避けられない。
=‥‥リシャン!=
雲一つない水色の空の向こうから、黒い染みのような鳥が羽ばたいてきた。
「クロウ‥‥何だかひさしぶりね」
=そんなに経ってませんが?‥‥どうしたんですか?=
「‥‥別に」
つい数分前に会ったシャオティンの事を話した。
=やはり彼女が裏で暗躍してたんですね。あの武器をこの地の人間に与えたのも彼女だったと=
「そうみたいね」
=管理局に報告しておきます=
「‥‥‥‥」
だが今までの事を全てシャオティンの仕業とするには腑に落ちなかった。
シャオティンがその気なら、この地に集まった兵士を彼女一人で殲滅出来るはず。そうして歪みを発生させればいい。
それがこんな面倒な事を仕組んだのはなぜなのか。
=疲れましたか?=
「そんなわけ‥‥」
言いかけてため息をつく。
シャオティンと会ったのはこれで二度目だ。前回も今回も、彼女の良いように振り回されている。しかも、それに対して、何も出来ずに終わっている。
つまりは役者が違うという事なのだ。以前に、リシャンはシャオティンの事を先輩と言ったが、年月の差からくる経験の差のようなものは確かにあるようだ。
「私の‥‥負けか‥‥」
だが、それ以上は何もさせない。この地がこんなふうになってしまった事に、彼女が関係しているのだとすれば、これ以上、好きにさせる事はできない。
そう考えているリシャンの瞳が光る。
「そうね、ちょっと疲れたかもね」
リシャンは緑色の軍服の胸元のチャックを下ろした。
「こんなゴワゴワして、色が単色で、何の優雅さもない服をずっと着てるのが、疲れてきた」
=あいかわらずですね=
「ふふん」
いらいらに任せて胸元に差してあった薬莢を空へと投げつける。
強い日差しを受けて落下しながらキラキラと輝くその様は、宝石の様にも見えた。