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第五話 死神少女の休日

     季節は初夏から夏へと移り変わり、若葉だった萌黄色の街路樹の葉も、気がつかない間に深緑へと変わっていく。

 都心の中央では建造物がその変化を鈍化させるが、数多の若者が集い喧騒の絶える事の無いこの街にも、気温が上がり人々が薄着になっていくその様から、確実にその兆候を感じる事が出来る。

 スクランブル交差点を、麦わら帽子を被った一人の少女が信号待ちをしている。

 遠目からは中学生ぐらいに見えるその少女は、真っ白なワンピースを身にまとっているが、それ以上に、露出している腕や脚、顔の、今まで日に当たった事がないのかと疑う程の白さが、それ以上に目に付いた。

 対比で肩より少し下まで伸びた髪は、帽子の端から当たる夏の日差しを受けて黒く輝き、風に揺れる様は、髪自体が黒い波のようにも見えた。

「‥‥‥‥」

 前方の信号が青に変わると古めかしい電子音が鳴り、周囲の人々は一斉に歩き始める。ほとんどの人が少女より背が高いが、それでも彼女を一目でも見た者は意識せざるを得ない。すれ違った者のほとんどが、立ち止まって後ろを振り返っていた。

「‥‥全く」

 渡り切った所で、少女は悪態をつく。すぐに信号は点滅を始め、遅れてきた男子学生の集団が、少女に気がついて走るのを止めた。

 電光掲示板のある曲線的なビルの脇を歩いていく。何処まで行っても人の波は途絶える事がない。

「こんな事をして意味があるの?」

 独り言のようだが、襟元には小さなピンマイクがある。

 =意味ですか‥‥=

 その声は耳のイヤホンから聞こえてくる。

 =管理局からの指示です。ここしばらくあまりにも連続で任務が続いたので、休暇を取れという事です=

 イヤホンの音声はクロウのものである。この人混みの中、カラスを肩に乗せて歩くには目立ちすぎる。故に今回だけはヘッドセットの形態を取る事になった。

「だから意味の無い事をするのは嫌いなんだけど」

 リシャンは帽子をつかんだまま上を向いた。少しだけ吊り上がった切れ長の眦が夏の青空を見上げる。

 =意味はまあ‥‥現在、シャオティンとのログを解析中なので、それが終わるまでの時間潰しといった所でしょうか=

「‥‥‥‥全く」

 今日、何度目かの同じ言葉を呟く。

 休暇というものには縁が無いと考えていたリシャンは、こうして改めて自分が好きに出来る時間が出来た事に戸惑いのようなものを感じていた。

 時間を潰す事に意味がある‥‥なぜなら、管理局でシャオティンを分析する事で、次に会った時の対処が容易になるから。そう自分を納得させたリシャンは、ただ街を歩く事にした。

「‥‥‥‥」

 人混みの中を黙って突き進む。すれ違う人々は、黙っていたり、誰かと話していたり、様々だ。ビルの一階部分では、そんな人々が集い、何かを熱心に行っている。

 リシャンはそれが何かを確かめるべく、建物の中へと入った。

「‥‥‥‥布?」

 中は、ほぼ若い女性が占めていた。布を裏返したり、体に当ててみたり‥‥そんな事をしながら、笑ったりしている。奥にいるのは学生のようだ。着ている制服は同じデザインな事が確認できる事から、彼女達は同じ学校で、友達どうしなのだろう。

「‥‥‥‥ここは服屋?」

 リシャンは予めにセットしてある幾つかの衣類を任意で交換できる。そこにはリシャン自身の好みなどというものはなく、ただ管理局から送られたデータとしてそうしているだけだ。衣類の交換を楽しいと思った事はない。今、着用している白のワンピースも、クロウがデータを送ってきたもので、リシャンが選んだわけではない。

「どうしてこの服を選んだの?」

 =休暇中なので、目立つのは避けた方が良いと思いましたから=

 ポシェットに偽装しているクロウは、リシャンの腰にぶら下がっている。

「こういうのが目立たない格好って事?」

 リシャンはスカートの裾を持ちあげた。服を構成するデータ量は少なく、すぐに脚が見えた。

 =そのはずなのですが‥‥どうも違ったみたいです=

「‥‥‥‥」

 店の外、通りから何人もの男性がリシャンの方を見ている。何があるのだろうと向いている方向に顔を向けたが、店内の奥には衣類が飾っているだけで、女物のそれには、彼らが用事があるものようには見えない。それとも、誰かに送る為に探しているのか‥‥。リシャンは幾つかの理由を考察した。

「彼らは何?」

 =あなたを見ているのですよ=

「なぜ?」

 =魅力的に映ったのでしょうね=

「‥‥ふふん」

 リシャンは笑みを浮かべた。

 もちろん、今のリシャンのこの姿は、リアルのものではない。リアル世界の彼女は生まれながらに機械の補助がなくては生きられない。それでも、年月が経った事で成長した姿は忠実に再現されているはずだ。

「まあ、どうでもいいけどね」

 手に持っていた服を置いて、ツカツカとその男性達の方に歩いていった。

 彼らは少し慌てて左右に別れ、その間をリシャンは悠々と歩いていく。その途中で髪をかきあげると、彼らはそんなリシャンの姿に釘付けになり、顔を赤くさせた。

「‥‥‥‥フフ」

 特に意味はないが、そのまま人混みの中へと歩いていった。

 =彼らに何かを言いにいったのかと思ってヒヤヒヤしましたよ=

「そんな事はしないわよ」

 少しだけ機嫌の良い顔になり、リシャンは別の通りへと足を向ける。

 その通りもやはり人は多く、気を付けないと、ぶつかりそうになる。そんな人々の話し声や車の音、足音や話し声が輪のようにリシャンの周りを回っているかのようだ。

 信号機の渡れと止まれの音が交互に鳴り響く。そこの下で何かをついばんでる鳩の群‥‥視線を少しだけ上に向けるとビルの林の窓ガラスに反射して輝く眩しい日の光。更に上に向けると、真夏に特有の沸き上がるような雲が、ビルの隙間、狭い青空一杯に広がっているのが見えた。

「‥‥‥‥‥‥」

 リシャンは吹き向ける風を感じて目を閉じる。そこには、ただ心地良さだけがあった。

 =どうしました?=

「別に♪」

 鼻で笑って軽やかに歩きだす。

 どこまで行っても世界がある。ここは仮想世界で、ただ作られたもののはず。それなのに、これほど精巧に、これほど広大に‥‥人間の科学力というのは想像以上に凄いものだと感慨深く感じる。

 それと同時に、リシャンに悪戯っぽい感情が芽生える。果たしてどこまで作り込まれているのだろうか。何処かにフレーム抜けのようなものはないのだろうか‥‥それを見つけ出したくなり、敢えて大通りから外れて、裏路地へと足を向ける。

「‥‥何処かに‥‥」

 裏通りとは言っても、そこには普通に店もあり、人も歩いている。道幅が少し狭いだけで、特別何か変わった事はない。

 =ここに何か?=

「‥‥‥‥」

 =向こうから大通りに戻れますよ=

「‥‥‥‥」

 何かする度に聞いてくるクロウに、リシャンは少し鬱陶しさを感じていた。

「ねえ、こんな時まで付き添うのも、あなたの仕事?」

 =もちろんです。リシャンをバックアップするのが私の任務ですから=

「別に何かあるわけじゃないけど」

 =あなたにとっては休暇でも、テロリストには関係ない話なので=

「‥‥‥‥それはね」

 リシャンは周囲に異常があればすぐに分かった。テロリストが何をしようとしていても、遅れを取る事はない。クロウに警戒してもらうまでもない。

「別に何もしてもらう事はないけど」

 =油断は禁物です=

「‥‥‥‥」

 リシャンはため息をついて、クロウの言う通りに大通りに戻った。

「あれは‥‥」

 商店街らしき通りをしばらく行くと、コーヒーショップの緑の看板が見えた。店の脇に外で飲める木製のテーブルと椅子が置いてある。

 リシャンは中へと入って行った。

 =え? どうするのです?=

「もちろん、飲んでいくに決まってるでしょ」

 =ま、待ってください!=

 自動ドアが開き、店内へと入っていく。途端にコーヒーとケーキの甘い匂いに包まれる。

 スイーツの置いてあるガラスケースのカウンター越しに、何人かの女性店員がてきぱきとした動作で働いているのが見えた。

「いらっしゃいませ」

 店員にそう言われてからリシャンは帽子を取り、壁の上に光って見えるメニュー表を見上げた。

「店内でお召し上がりですか?」

「‥‥‥いえ、表で」

 外のベンチで飲みたかったので、そう答えた。

「‥‥‥‥」

 リシャンはしばらくメニューを見つめる。もちろん、字を読む事は出来た。この世界の言語のほとんどを習得しており、そこに問題はない。

 数秒後、眉間にシワを寄せて険しい顔になる。

「‥‥あの‥‥ご注文は?」

「‥‥コーヒーを一つ」

「ホットですか。アイスですか?」

「ホットで」

「サイズはどうなされますか?」

「‥‥‥‥」

 メニューのサイズを探していたリシャンは、普通はあるはずのS、M、Lや、大、小の表記を見つけられず、唇を噛みしめる。

 クロウに聞こうかと一瞬考えたが、それはやめた。ついさっき、何もしてもらう必要がないと言ったばかりで、そんな事を言う事が、はばかられた。

 時間だけが過ぎていく。

 手元にある小さなメニュー表に視線を落とし、それから指を差した。

「‥‥これで」

「はい、ヴェンティサイズですね、510円になります」

「‥‥‥‥!」

 うまく注文出来たと思った矢先、価格を言われて、そこで自分がお金を持っていない事に気が付いた。

「‥‥‥‥クロウ」

 店員に聞こえないように、小声で呼ぶ。

 =だから待ってって、言ったじゃないですか=

「エージェント権限で、この国の貨幣を作成」

 =それは無理です。この世界に流通する貨幣量は決まっています。そこに無尽蔵に作成したら、経済がおかしくなってしまいます=

「少しぐらいいいでしょ!」

 大声をあげてしまい、目の前の店員だけでなく、店の奥にいた客も一斉に振り向いた。

「‥‥‥‥お客さま?」

「サイフを忘れました」

 仕方なく店から出ようとした時、後ろに並んでいた男性が前に出てきた。

「彼女の分、俺が払います」

「‥‥‥‥?」

 そう言って、リシャンのコーヒー代金をトレイの上に乗せた。

「君、こっちに来てくれる?」

 商品を受け取ったリシャンは、奥のテーブルで先ほどの男性に呼ばれた。

 男性の対面に座る。

 二十代半ばくらいの日焼けした若い男性だ。外の暑さに対応する為ぁ、胸元の開いた柄もののシャツを着て、足は短パンだ。

「なぜ、私の分も払ってくれたの?」

「それはねー」

 男性は楽しそうだ。問いには答えず、リシャンの顔をじっと見つめる。

「君の名前は?」

「遠野楪」

「トオノユズリハ‥‥君にぴったりの美しい響きの名前だね」

 男性の言葉がひっかっかった。

「?‥‥あなたは私の何を知ってるの?」

「え?‥‥もちろん、知ってるよ」

「‥‥‥‥」

 リシャンは眦を細める。あまりにも不自然なコンタクト‥‥テロリストの作成した違法AIの可能性がある。

「‥‥クロウ‥‥周囲に彼にアクセスしてる糸がないか探って‥‥」

 =え?‥‥なぜです?=

「言ってたでしょ? 油断するなって‥‥」

 =‥‥それは‥‥そうですが‥‥彼はただ‥‥=

「どうしたのユズリハちゃん。そんな怖い顔をして」

「‥‥‥‥知ってるって‥‥具体的に何を?」

「そうだねえ‥‥」

 男性は顔を近づけてくる。不自然にまで綺麗に日焼けした肌と、茶色に染めた髪が、リシャンの顔のすぐ正面に迫った。

「どこかのアイドル事務所とかに所属したりしてる?」

「いえ」

「もったいない!」

 急に真顔になった。

「君はすばらしい!」

「‥‥どの辺が?」

 今の所、不正アクセスの痕跡は見つからない。だが、シャオティンの仕様はまだ判明していない。彼女が未知の方法で何かをしている可能性も否めない。

「君のその、可憐な表情の奥にある、ひとしきりの鋭さ。吸い込まれそうな白い肌と、黒い瞳‥‥人形もかくやと言わんばかりの、完璧なライン‥‥今まで、これほどの逸材を見た事がない! まさかこんな存在がこの辺に歩いていようとは‥‥神の采配は、気まぐれすぎた。君ならあの村下灯火華を超えるアイドルになれる!」

「‥‥‥‥」

 ムラシタ、ヒビカ‥‥彼女のAIは、うまく稼働しているようだ。

「‥‥‥ふん‥」

 色々と説明してきてはいるが‥‥。

「つまりあなたが言ってる、私の事が分かったという事は、外見だけと言う事ね。それで何が分かったというの?」

「え?‥‥ああ‥‥それは‥‥」

 リシャンに言い返されて、それまでまくし立てていた彼は口ごもってしまう。

 リシャンは続けた。

「人が、その人らしいと言える所以は何だか考えた事がある?‥‥外見とか、年齢が若いとか‥‥それはその人が何もしなくても最初から持っていたもの、そんなものじゃない」

「‥‥‥‥」

「人生の中で生きてきた過程で得たものが、その人になっていく‥‥外見だけ、ほんの僅かな時間、話しただけでそれが分かるはずがないでしょ?」

「あ‥‥あ‥‥それは‥‥」

 統合政府の方針に異を唱えるテロリストの手口にはよくある話術論理だ。表面上の現象を理由としての仮想世界を歪ませる事の正統性を主張してくる。彼の語り口はそれに似ている。

 彼がテロリストに関わっている線が濃くなってきた。

「‥‥‥‥」

 リシャンは立ち上がって、左手に鎌を出して、男の鼻先に突き付けた。

「ひぃ! 何だ!」

 テーブルがひっくり返り、上にのっていたコーヒーカップが床に落ちて割れる。その瞬間、リシャンを見た店内の客と店員は大声を上げた。

「な‥‥何なんだ‥‥君は‥‥」

「せっかくの休暇中なのに‥‥気分が悪くなるじゃない!」

「た‥‥助け!」

 鎌を振り上げた瞬間、

 =その人は通常AIです、駄目です!=

「‥‥‥‥」

 勢いは止まらず、開いた男の足の間を通り抜けて鎌の先が床に突き刺さる。テーブルが二つに割れて、切り口が七色に輝く。

 男は口から泡を吐き、頭をぐったりして気絶してしまった。

「‥‥‥‥本当に?」

 =糸の形跡は全くありません。そのAIは自分で考えた事を、あなたに言っていただけです=

「‥‥‥‥そう」

 鎌を宙に消す。

 =それより早くこの場から離れるべきです。現地の司法機関が複数の車両で、ここに向かってきています=

「‥‥‥‥そうね」

 リシャンは麦わら帽子を被りなおし、それからチラっと床にこぼれているコーヒーを見つめた。

「‥‥まだ飲んでなかったのに、もったいない‥‥」

 =リシャン‥‥早く!=

 サイレンの音が遠くから聞こえてきた所で、リシャンは大騒ぎになったコーヒーショップから姿を消した。





 =全く、どうしてあなたという人は‥‥=

 すぐ店の外で野次馬の中に混じって騒ぎを見ている。認識阻害があるので、店員も客もリシャンの顔も姿も憶えてはいない。

「油断大敵。結果的にテロリストじゃなかった事が分かっただけで、良かったじゃない」

 =‥‥‥‥=

 ポシェットのクロウがため息をつく。

 =もう目立つ事は避けてください。今のを誤魔化す為にガス爆発という事にしましたが、これ以上、続けて何かあるのは不自然ですからね=

「‥‥了解」

 この世界の司法機関‥‥警察の車が次々とリシャンの歩いてきた方向へと走り去っていく。思っていたより騒ぎになっているようだ。

 そんな喧騒を離れるように、リシャンはビル街を抜けて住宅地まで足を伸ばす。

 さすがにここまで来ると、あれほどごったがえしていた人混みは姿を消し、視界のあちこちに自然の緑の色の割合が増えてくる。

 電柱という、エネルギーを末端まで運ぶ為のケーブルを支える柱が一定間隔で伸びている。地球上全てからエネルギーを抽出できつつあるリアル世界から比べれば非効率極まりないが、それでも一応は過不足なく、供給されているようだ。その柱にけたたましい音で鳴く、虫という生き物がいる。耳をつんざく様な音を鳴り響かせるそのセミという生き物は、あちこちに無数にいるようで、そこかしこから鳴き声が響いてくる。

「‥‥これは何かのバグ?」

 リシャンは両耳を押さえる。

 =いえ、ただの自然です=

「よくこんな環境で暮らしていけるものね」

 =当時の人々はこのセミの鳴き声をフウリュウという感覚で、楽しんでいたと記憶にあります=

「‥‥フウリュウねえ」

 そんな感覚もあるのかと、それで納得したリシャンは手をおろして後ろ手に通りを歩いていく。

 広い庭のある一軒家が連なる通りまで出た。まだ新しい道路の中央分離帯には、背の低い植物が整然と植えられており、何処までも続いている。今までの雑然とした街とは、正反対の景色だ。

「‥‥‥‥?」

 金属のフェンスの向こうの庭先に、這いつくばっている子供を見つけた。

 芝生の上で、四つん這いでズルズルと移動している。

「あのコは何をしているの?」

 =さあ=

「‥‥‥‥」

 興味を持ったリシャンは近づいてみた。

 おさげ髪にした小さな女の子だった。水色の服を泥だらけにしながら、あちこちに顔を向けている。何かを探しているようにも見える。

「こんにちは」

「わ!」

 リシャンがフェンス越しに声をかけると、そのコは驚いて、腰をおろした。

「何をしているの?」

「‥‥‥‥あ‥‥えっと」

 女の子は顔を引きつらせている。リシャンは答えるまでの間の長さに耐えられずに、目を細めた。

 =リシャン、相手は子供です=

「‥‥‥‥」

 =愛想よく対応しないと、相手は答えてはくれません=

「具体的には?」

 =笑顔です=

「‥‥‥‥」

 クロウにそう言われて、仕方なく口角を上げる。

「こんにちは、あなたは何をしているの?」

「えっと‥‥」

 リシャンの表情を見て、少しは気が緩んだのか、女の子は口を開き始めた。

「シラタキを探してるの‥‥」

「シラ‥‥タキ?」

 それが何を差しているのかさっぱり分からない。

「シラタキって何?」

「猫」

「‥‥‥‥」

 猫がシラタキ‥‥シラタキというのは、この時代の食物で、細くてクネクネしたものだと知っていた。だが、それと猫がどう関係あるのかは不明だ。

 =猫の名前の事では?=

「もちろん、分かってる」

 リシャンは女の子に近寄って、屈んで彼女の目線に合わせた。

「猫がそこにいるの?」

 覗いているのは家の軒下。確かに猫という生き物は、そういう所に隠れそうだが。

「‥‥分かんない。抱っこしてたら逃げちゃった。こっちの方にいると思うけど」

「あなたの飼ってる猫?」

「うん」

「‥‥それであなたの名前は?」

「紗菜」

「サナちゃんね。私はユズリハ」

 手を伸ばすと、サナはリシャンの手を掴んだ。引っ張るとそのまま起き上がる。

「その猫の特徴は?」

「あのね、白黒の猫でね、お腹に大きなハート模様があるの」

「それは目立つわね」

「お姉ちゃん、一緒に探してくれる?」

「もちろん」

 立ち上がったリシャンの瞳が光る。知覚拡大をしようとしたが、

 =いけませんよ、そんな事に=

 クロウが止めに入った。

 =大体、今日は休暇なのですから、この世界の日常を感じるべきです。エージェント特権を使ったら台無しじゃないですか=

「‥‥‥‥」

 言われてみれば確かにその通りで、リシャンは何も言い返せなくなった。

 しかし、一緒に探すと約束してしまった。

 今さら、やっぱりやらないとは言えなくなっている。

 どうすれば、猫という小型の生き物を発見できるのか。しかも特定の個体というのも、さらに状況を難しくしている。

「‥‥お姉ちゃん?」

 固まってしまったリシャンを心配そうに見つめる。

「とりあえず、ここから探しましょうか」

 邪魔な麦わら帽子を紗菜に渡して、リシャンは家の軒下に潜り込む。

 当然、中は薄暗く、蜘蛛の巣があちこちに張ってある。

「全く‥‥」

 地面に斜めに渡してある木の梁が邪魔をして中々先へと進めない。こうなるとワンピースの長いスカートでは難しい。

 とりあえず、近くに件の猫はいないようなので、リシャンは四つん這いで這い出た。

「‥‥‥‥ん?‥‥何だね、君は?」

 入った所とは別の場所に出た所、そこの家主らしき中年の男性が不審そうな顔でそう言った。

「誰と聞かれれば、私は遠野楪。理由あって、ここに入った」

「え?」

「では失礼」

 何の事か全く分からないでいる家主を残し、リシャンは堂々と玄関から外に出た。

「お姉ちゃん!」

 紗菜が駆け寄ってくる。

「ここって、あなたの家じゃなかったの?」

「違うよ」

「‥‥‥‥」

 悪びれずにそういう紗菜を見て、リシャンは何も言う気がなくなった。

「とにかく、この辺を探してみましょうか」

 それから二人は街中を手あたり次第に探し続ける。

 車の下、塀の上、マンホールの下、民家の屋根の上‥‥そうしてるうちに段々と日が落ちてくる。

「あ、あそこ!‥‥シラタキ!」

「!」

 麦わら帽子を被った紗菜が指さしたのは、遠くにある十字路。道を横切って走って渡ろうとしている一匹の猫が見えた。間の悪い事に、丁度車が接近中で、このままだと、悲惨な結果になってしまう。

「‥‥‥‥く‥‥」

 リシャンはダッシュして猫に近づく。まわりからは車に突進しているように見えたのか、悲鳴のようなものがあがった。

 驚いた猫が身動きが取れなくなっている間に、その白黒の猫を抱き上げる。反動で止まらず、前転して勢いを殺して立ち上がった。

 車は急ブレーキをかけて止まった。

「‥‥‥‥」

 猫はリシャンの腕の中でニャアと鳴く。

「‥‥‥‥はい」

 背中にハートの柄のある、どちらかと言えば愛想のなさそうな猫を、紗菜に渡した。

 どこかでパチパチという音がした。最初は何の音か分からなかったが、それは手を叩いた音。それはやがてその場で見ていた人に伝染して大きな拍手の波になった。

「‥‥どういう事?」

 =全く、どうしてあなたは、いつもいつも目立つ事をするんだか=

 クロウのため息が、その中に消えていく。

「お姉ちゃん、ありがとう!」

「‥‥‥‥この程度の事で感謝をされるのは割にあわない」

 猫を受け立った紗菜から礼を言われて、リシャンは肩の力を抜く。

「じゃあね」

 麦わら帽子の上から頭を撫でる。

「良い人生の旅を!」

 帽子を残したまま、リシャンは囲まれていた人混みの輪の中から逃げていった。





 夕暮れが過ぎる時刻になっても、夏の夜はまだ何となく明るい。川岸まで来た所で、リシャンは近くのベンチに腰を下ろして夕闇の中の星空を見上げた。

「‥‥‥‥」

 ただ黙って星を見る。目を閉じてセミの鳴き声を聞いていると、フウリュウというものが分かったような‥‥そんな気がしたリシャンは、ベンチの後ろに手をかけて、体を大きくのけ反らす。その仕草は先ほどの愛想の無い猫のようだ。

「‥‥‥‥ん?」

 流れ星を見つける。この時代ではあの流れ星が消える間に三回願いを言う事が出来たら、それは叶うという言い伝え?‥‥のようなものがある事を思い出す。

 それはちょっと意味が違うだろう‥‥と、リシャンは思った。

 三回言えたら願いが叶うのではない。流れ星が現れている間の刹那の時間ですら、想いを忘れない人が願いを叶えられるのではないだろうかと。

 そこまで強く思い続けなければならない願いとは何なのだろうか‥‥。

「‥‥フフ‥‥」

 リシャンの瞳の中に一つの流れ星が映り、流れていった。

 その時、遠くで大きな爆発音が響き、空に大きな火花が散った。

 =あれは花火というものです。あの光を見る事が目的で、他に意味はないようです=

「‥‥意味ね」

 朝には散々、言っていた単語だが、今は何となくその言葉の意味が違って感じている。

 河川敷の方から。次々と立体的な光が弾ける

「あの光も全部、仮想現実の中の話」

 =それらは全部偽物だと思いますか?=

 珍しくクロウが話に乗ってくる。

「‥‥確かに一瞬で花火は消えていくけどね」

 リシャンはさっきの猫を探す少女の事を思いだす。そう言えば、今着ている白のワンピースも手も顔も泥だらけのままだ。

「あのコも大人になって、いつか歳を取って人生の旅を終える時が来る‥‥」

 一際大きな花火があがり、振動がここまで伝わってきた。

 リシャンはそこで言葉を止めた。

「‥‥‥‥」

 その輝きは世界から見れば、あの光球のように一瞬でしかない。

 人生という花火は、幾重にも想いが重なって開いていく。それは何ものにも代え難い、尊いものなのではないだろうか。

 猫を探して見つける‥‥意味のない事だが、それも人生の一ページ。

 合理的でなく、意味のない行為。

「フフ‥‥無意味な事も悪くないかもしれない」

 リシャンは、そんな事を考えながら、地面を這って汚れた手のひらを見つめて笑った。

 しばらく黙っていたクロウが口を開く。

 =‥‥休暇は終わりのようです。管理局から次の任務の指示が来ました。シャオティンの足取りが、ここからかなり離れた場所でつかめたという事です=

「‥‥全く」

 泥を払いながら立ち上がる。その瞬間、次々と色違いの花火が打ちあがった。背を向けたリシャンの陰が、真っ直ぐに伸びていった。

 =名残り惜しそうですね=

「‥‥‥ちょっとね」

 =え?=

 常になく、あまりにも素直にリシャンがそう答えたので、逆にクロウは言葉をなくした。


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