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第四話 幸福の歪み

「今日も友達の家でお茶会か?」

 妻の涼子は鏡の前で、髪をアップする為に両手を上げている。そんな彼女を邪魔しないように僕は後ろから聞いた。

「遅くなるのか?」

「ええ、もしかしたらそのまま泊まりになるかも」

 僕の姿は鏡を通して見えているはずだが、涼子は全く僕の顔を見る事をしない。ひたすら自分の身支度に勤しんでいる。

 友達のお茶会‥‥などと言ってはいるが、実際は、外で若い男を囲っている。それに気がついたのは、偶然、涼子のスマホを覗いてしまったからだ。それまでは微塵も疑った事はない。僕達は、娘のコハナと三人‥‥いわゆる幸せな家庭だった。

 頻繁に鳴るスマホに出た時の涼子は、目を輝かせている。その顔は、今はもう見なくなった、大学のキャンパスで初めて僕と出会った頃の彼女のようだ。そのうちに朝帰りが多くなり、戻ってきても目を合わせる事もしない。それでもまだ半信半疑だったが、そんな僕自身の疑いの心を晴らす為に興信所に頼んで動向を探ってもらった。

 結果は黒だった。

 ホテルの前で知らない車から降りた妻は、二十歳そこそこらしい男と一緒に中へと消えていった。

 そんなはずはない。

 起こるはずがない。

 ここは仮想世界の中。最初にこの世界に接続する時、ある程度の設定で開始する。

 僕が望んだのは幸せな家庭。ただそれだけだったが、それで良かった。

 大学生から始まったこの生活は、一年後輩だった将来妻になる涼子と出会い、恋愛して、結婚して、しばらくして子花‥‥コハナも生まれた。脱サラして立ち上げた不動産事業も軌道に乗って、今ではこんな邸宅に住むまでになってきている。去年、コハナは難関と言われる都内の大学に合格して、通学の為に都心に移ったばかりだ。

 何も問題はない‥‥それどころか、絵に描いたような幸せな家庭だ。

 それがどうしてこうなった?

 僕は十分に愛情を注いできたはずだし。涼子も同じだった‥‥と思う。

 それとも、そう思っていたのは自分だけなんだろうか?

 なら、この月日は何だったのだろうか?

「‥‥それじゃあ」

 庭にあるガレージの扉が自動で開く。そこから出てきたのは真っ赤な色のオープンカー。

 涼子にせがまれた時、年甲斐もなく‥‥と思ったが、今となっては、彼女が若い男と付き合う為に、必要だったから買わせたとしたとしか思えない。

 いや、駄目だ。最初から疑ってどうする。

「‥‥‥‥」

 妻を見送った僕は仕事部屋に戻る。最近では会社に出る事はほとんどなくなり、家で部下に指示を送るだけで業務が回っている。業績は右肩上がりで、社のトップの僕が全てを対応する事は不可能で、それ故にオンラインでの仕事が増える事になり、これは効率を上げる結果になった。

 家にいる機会が増えれば、涼子と過ごす時間が増える。それは凄い喜ばしい事だと考えていたのだが、それがこんな事になるなんて思いもしなかった。

 誰もいない大きな邸宅。いるのはいつも僕だけだ。

 そんな状態が半年ほど続いて‥‥そろそろ限界に近づいているのが自分でも分かる。

 仮想世界での生活は失敗したのかもしれない。

 僕は管理局に連絡した。





「ここがその家?」

 黒髪をポニーテールに結んだ少女が、豪奢な住宅の立ち並ぶその家の一つの前で立ち止まった。白のフリルの付いた黒いワンピースの上に、肩に房の付いたエプロンを付けている。腰には太く黒いベルトで絞められており、腰には大きめの白いリボンが結ばれていた。

 それだけなら普通の少女だが、覆われていない、腕、脚、顔‥‥肌色と言うには憚られるほどに白く、まるで人形のようにも見える。それでも彼女の目じりの紅潮した朱色が、彼女が生きた人間だという事を証明していた。

 風に揺れる並木道の街路樹の若葉の葉を通した光が、初夏の日差しを間断をつけて彼女に降り注ぐ。

 今日は少しだけ暑い。

 =はい、山中陶二‥‥ヤマナカトウジの家です。彼は四十歳。この仮想世界013に接続して二十二年になります。大学を卒業して二年後に結婚。その後、一子を設け、商社に就職しますが、後に離職してベンチャー企業を設立。経営状態は良好のようです=

 足元のカラスが説明する。

「仮想世界では先輩ね」

 =この013が始まって間もない時期からですからね=

 少女‥‥リシャンは大きな門構えを見上げて笑みを浮かべる。

「美人の奥さん、可愛い娘、何不自由のない生活‥‥まさに順風満帆ってわけね」

 今回の仕事内容を事前に聞いていたリシャンは、皮肉っぽく、そう言った。

「今のこの生活を捨てて、今さらリアル世界に帰りたいなんてね。最近、多いんじゃない?」

 =リンクしている人数に比べれば、誤差の範囲です。問題にはなりません=

「あ、そう」

 リシャンはクロウを無視してドアに続く小さな階段を上がる。

 インターフォンのボタンを鳴らす。

 “はい”

「山中さんですか?」

 “そうです”

 モニターカメラがあちこちから覗いているのが分かる。

「管理局からきました」

 “お待ちください”

 少し緊張したような声が返って来てすぐにガシャという音が響き、ドアのロックが解除され、中から男性が顔を出した。

「‥‥‥‥」

 リシャンの姿を見て、少しだけ顔を曇らせる。

「あなたは、本当に‥‥管理局の人ですか?」

「信じられませんか?」

 長い年月をこの世界の住人として暮らしてきた山中には、数世紀未来からの使者というのは遠い記憶の彼方にしかないのだろう‥‥それも仕方のない事だと、リシャンは山中の言葉を解釈した。

「‥‥‥‥」

 リシャンは何もない宙に鎌を出現させる。

「‥‥分かりました」

 山中は口を開けていた。その鎌の輝きを目にして、全てを納得したようだった。

「ふふ‥‥」

 そんな山中を横眼に、リシャンは家の中に入る。

 通された部屋は吹き抜けで、天井には空気循環用に大きなファンが回っている。壁は木目が目立ち、コンセプトは自然という事は一目瞭然だ。

 座ったリシャンのテーブルの上にコーヒーが出される。

「お構いなく」

 そう言いつつも、リシャンはカップを取って口をつけた。受け皿に戻してすぐ、口を開いた。

「早速、本題ね。あなたはこの仮想世界からのログアウトを希望してるとか」

「ええ」

「契約では、終身までという事だったけど‥‥」

「‥‥連絡した時に申告した通り、中途でログアウトを希望します」

「それが認められるかどうかは、審査次第。仮に許可されたらここには戻れないけど」

「‥‥分かってます」

 真剣な表情は、とてもそれが一時の迷いなどではないように見える。

「ふん。まあ、いいわ。じゃあ、理由を教えて」

「はい‥‥」

 山中はこれまでの経緯を話し始めた。

 つまりは山中の妻の涼子の不貞が原因のようだ。

「それによってあなたは全てのやる気を無くしたって事ね」

「‥‥僕は‥‥温かい家庭を築く為に今までやってきました。会社を興したのも、涼子に金銭で辛い思いをさせたくなかったからです。それが‥‥こんな事になるなんて」

「‥‥‥‥」

 もちろん涼子はAIである。開始時の初期設定で、彼と同じ幸せな家庭を作るという大目標は原則としてあるはずだ。現在のこの状況は、時間の経過から来るズレが蓄積されたからなのかもしれない。

 それにしては大きく変わりすぎてはいるが。

「調査が必要ね。そういうわけで、しばらく私はこの家にいるから、家政婦として雇われた‥‥という事でよろしく」

「お願いします」

 山中は頭を下げた。

 とりあえず事態を整理する為に、今日の所は一旦、ここから去る事にした。

 クロウ‥‥局本部と必要な幾つかの情報をもらう必要もある。

「‥‥‥‥」

 山中邸の広い敷地から出た後、リシャンはその家を振り返る。恐らく、誰もが望む理想の住居というものがアレなのだろう。リアル世界ではそもそも、個人が占有出来る面積は制限されており、無駄と思われる庭などはない。現実に戻れば、彼は全てを失うのだ。

 =彼が管理局に送ってきた内容の通りですね。プログラムには異常なし。経年によるAI行動の変化は、ごく自然なものです。このまま調書を送れば、普通に認可されるでしょう。これ以上の調査は不要に思いますが=

「‥‥‥まあね」

 =何か懸念でも?=

「そうね。何も問題はない。でも、私なりに調べたい事があるのよ」

 =どの辺がです?=

「‥‥フフ」

 リシャンは笑っただけだった。こういう時、これ以上何を聞いえも答えてはくれない事を、クロウはよく知っており、無駄な事はしない事にした。

「ねえクロウ」

 =はい=

 突然声をあげたりに、カラスはハトのように首を上げた。

「幸せの種類は幾つあると思う?」

 =さあ、言葉は一つですよね=

 今度はクロウがとぼけた。





「ただいま」

 私が帰宅すると、夫の陶二は机の上に突っ伏して寝ている。モニターは付けっぱなし。遅くまで仕事をしていたのだろう。

 キッチンに行くと、冷蔵庫の中の冷凍食品が幾つかなくなっており、一応は食事はしていた事が分かる。テーブルの上にはビールの缶が二つ空いていた。

「‥‥‥‥」

 以前は、彼が家にいる時は、必ず食事は作っていた。今はとてもそんな事をする気にならない。

 愛していたのはもう遠い昔のように思える。

 今はただ、大学生のアキトの事しか考えられない。

 私とは歳が離れ過ぎている。でも彼は私が好きと言ってくれた。

 そして愛してくれた。

 私も彼が好き。

 陶二よりもずっと。

 彼の為にも私は若くいなければならない。

「‥‥えっと‥‥」

 衣装室の棚から、ケア用品の入った籠を出す。開けるとそこにはたくさんの瓶が入ってる。どれも値の張るものばかりだが、そんな事は問題ではない。

 少しでも効果があるなら、それだけで私はアキトと釣り合う女性になる事が出来るのだから。

 アキトとなら私は幸せになれる。




 昼になったけど、陶二はまだ起きてこない。

 いっその事、このままずっと寝ててほしいと思う。

 そうすれば、この家にアキトを呼んで‥‥。

 でもそれは駄目ね。

 彼はまだ大学生。就職するにしても収入が低すぎてここでの生活を維持できない。

「‥‥うまくいかないものね‥‥」

 何度かのため息をついたその時、インターフォンのベルが鳴った。

「はい」

 リビング脇のボタンを押すと、壁のモニターに玄関の様子が映し出された。

 メイドのような白黒の服を着たポニーテールの小さな子が映っている。

 “家事の仕事の依頼で来ました”

「家政婦さん?」

 話は聞いている。だが、それにしては若すぎる。ここからだと中学生ぐらいにしか見えない。

 “そうです”

「‥‥‥‥」

 何となくおかしいと思いながらドアを開ける。

「はじめまして、今日からここで働かせてもらう遠野楪といいます」

 ユズリハと名乗った少女はニコっと笑った。

 モニター越しに感じた通り、彼女が成人した女性には見えない。

「‥‥どうも、山中涼子です。主人は今は仕事明けで寝ています」

「そうですか」

 やってもらう家事の内容を説明する為、家の中を一通り案内する。

「こっちがリビング‥‥反対側のドア三つが、客室で、廊下の外れにあるのがお手洗いです」

「はい」

 私が説明すると、彼女は頷きながら中を覗き込んでいる。

「‥‥ここはワインセラーの部屋に通じる中二階で‥‥天井が低いから頭をぶつけないように気を付けてください」

「はい、ありがとうございます」

 彼女は屈んで中に入っていく。

「‥‥‥‥」

 その時、少しだけ捲れた胸元から白い肌が見えた。

 最初から思ってたけど、彼女は何て肌が白くて、スベスベしているんだろうか。およそそれは肌というよりは陶器に近い。若い頃は誰しもこうなのか‥‥私はどうだったのか‥‥あまりにも昔の事で思いだせない。

 今、この若さが私にあれば‥‥。

「‥‥何か?」

 彼女の少し吊り上がった眦は、穏やかな表情に比べて心を突き刺してくるみたいだ。

「あ、いえ」

 あまりにもジロジロと見てたせいか、彼女は首を傾げて不審がっているようだ。

 家中を案内した頃には夕方近くになっていた。

「では。明日からお願いしますね」

「分かりました」

 彼女は頭を下げて帰っていく。

 私はその後ろ姿を、見えなくなるまで見つめる。

 スタイルが良い。長い脚。細い腰。艶やかな髪‥‥本物の若さとはあのようなものなのだ。

「‥‥くっ!」

 怒りが込み上げてくる。

 彼女が特別なわけじゃない。ただ生まれるタイミングが違っていただけ! 

 なぜ私はもっと後に生まれなかったの! ただそれだけで良かったのに!

 もっと‥‥もっと‥‥美を求めなければ‥‥。

 アキトが彼女みたいな若狭だけの女に惑わされるその前に‥‥。

 私は彼の愛を掴んで幸せになる。





 =どうでしたか?=

「普通の人」

 リシャンは肩をすくめた。

「プログラム改変の痕跡は見られない。ちゃんと感情がある」

 強制的に改変されていた場合、感情は喪失して、ただのボットとして反射行動を取るだけだが、彼女はそうではないように見える。

「それに、テロリストの痕跡も見当たらない」

 =それならやはり、ただの初期設定の経年変化という事になりますね=

「決めつけるのはまだ早い」

 涼子の自分を見つめる視線の強さに、何か尋常でないものを感じた。それは他のAIにはないものである。そこに今回の特異性があるのではないかと、リシャンは感じていた。

「とりあえず、明日はあの家に行くから、そこで観察してみましょうか」

 リシャンは悪戯っぽい笑みを浮かべ、若葉の息吹を感じる初夏の街道を歩いて行った。





「よろしくお願いします」

 家政婦として雇われたユズリハは、翌日から我が家で働き始めた。あちこちにフリルの付いたメイドのような格好では、実際には動きの邪魔になるのは分かっている。最近の若いコは、ファッションにばかり拘って、実際は出来ないのでは?‥‥と、私は思ってたけど‥‥。

 出来ない所じゃない。何一つまともに出来ない。

 料理の下ごしらえをさせれば、まな板が切れるし、食材はぐしゃぐしゃ。電子レンジを使わせれば、中に卵を入れて爆発させる。掃除はと言えば、掃除機の使い方を知らないようで、廊下が傷だらけ。窓ふきさせたら、ガラスを割る‥‥一体、今までどうやって生きてきたのかと疑いたくなる。

 募集はネットの求人センターからの応募だったので、その辺はちゃんとしてるはずだけど、改めて確認してみると家事全般全てこなせるとある。職員の目が節穴だったのか、彼女がその辺の審査を通り抜けるのが上手いのか‥‥。

 あ‥‥フライパンから卵を落とした‥‥このコは卵焼きすら満足に出来ないの?

「すみません」

「‥‥早く片付けて‥‥」

「はい」

「‥‥‥‥」

 こんな簡単な事すら失敗するなんて‥‥私の方が上手に出来る‥‥それなのに、男達は見た目だけで彼女を選ぶだろう。

 ならアキトはどう? ううん、大丈夫、こんな小娘に負けるはずがない。

「あ!」

 今度はコップを割った。いい加減、私も限界。

「今日はもう帰っていいわ」

「え?」

「後片づけはやっておくから」

「‥‥でも」

「いいから帰りなさい!」

「!」

 我慢できなくなって、彼女を突き出した。反動で床に倒れる。

「お、おい涼子!」

 陶二が間に入ってきた。

「何も突き飛ばす事、ないだろ?」

「なあに⁈ あなた、このコの肩を持つの?」

「そういう事じゃない。ちょっと失敗したぐらいで、そんなふうな態度はよくないって言ってるんだ」

「何がちょっとよ! 今日だけで何枚、皿を割ったの? どれだけ床を汚したの? 何か料理を作る事が出来た? 掃除は隅まで行き届いた?‥‥全く出来てないのよ!」

「まだ慣れてないようだし、仕方がないだろ」

「‥‥‥‥何‥‥?」

 私はピンと来た。どうしてこんな何も出来ない小娘を雇う事にしたのか‥‥。

「あなた‥‥もしかして、このコと何かあるの?」

「何かって何だよ」

「よりにもよって、未成年と‥‥」

「馬鹿な事を言うな!」

「じゃあ、どうしてこんな何も出来ないコを雇ったのよ!」

「‥‥それは‥‥」

 陶二は言葉を濁して、それから私から目を反らした。

 最悪の答え。もう聞かなくても分かった。

 陶二は他の男達と同じ‥‥若い女が好きなんだ。

 私じゃなくて‥‥。

 いろんな言葉が噴き出してきて、何も言葉が出てこない。

 頭が真っ白になった。

「最低!」

 私は家を飛び出した。ドアを開けるときに手首をひねったけど、痛みすら感じない。

 何も持ってない。スマホも、財布も‥‥。ただ胸ポケットにスマートキーがあったから、私はガレージに走って車を出す。

 赤いオープンカー。アキトの為に買った。私はダシュボードからサングラスを出してエンジンをかける。

 もう限界。

 ひたすらにアクセルを踏み続ける。

 それで解決できるとさえ、思えるくらいに強く。

 すぐに前方に車が迫る。

 私は追い抜いていったけど、対向車が来てて、ギリギリの所で避けて元のレーンに戻る。後ろからクラクションが鳴らされた。

「‥‥‥‥」

 うるさい! うるさい!

 どうして誰も分かってくれない! 

 私は更にスピードをあげた。





 =驚きました、今日は新たな発見がありました=

「‥‥‥‥」

 涼子が家から飛び出した後、嵐が過ぎ去ったかのような部屋の中を見渡したクロウはつぶやく。

 =データ上で壊したものの修復は出来ますが、それも不自然ですからね‥‥あなたが、こんなに不器用だったとは=

「‥‥‥‥そんなわけないでしょ。ストレスを抱えた涼子は、発散する為に浮気相手の男の所に行き着くはずだし」

 ポニーテール、メイド服の少女が答えた。

 =それはそうかもしれませんが‥‥=

 妻から怒りをぶつけられた陶二は、ソファーに座って、ただ黙って床を見つめていた。いきなり部屋の中に現れたもの言うカラスを目の当たりにしても、何の感心も示さない。

「そういうわけで、しばらく涼子を見張ってて」

 =了解=

 それで納得したのか、してないのかは分からないが、クロウは壁に向けて羽ばたいていった。ぶつからずにすり抜けていく。

 陶二は顔をあげた。

「涼子をけしかける為に、わざとした事だと分かっています」

 今の会話を聞いていたのか、説明しなくとも理解しているようだった。陶二は震えるようなため息をつく。スマホの呼び出し音が鳴り、勢いよく画面を見るが、会社からだと知った陶二は何も言わずに切ってしまった。

「彼女は、いつもあんな感じ?」

「‥‥そうですね。なるべく気をつかってはいるのですが、ああやって早口でまくしたてられると、僕も感情的になってしまう時があって‥‥その時は‥‥まあ、部屋はこんな感じになりますよ」

 少し冗談交じりで話そうとはしているようだったが、逆に物事の深刻さが伝わってくる。

「出会った時は、ああではありませんでした。僕は大学ではテニスサークルにいて、二年の時に後輩として彼女が入ってきました。僕はあまり酒には強くはなかったのですが、どうしてもサークルの関係で出なければならない時があって、それで無理に飲んで気分を悪くした時、いつも彼女は介抱してくれました」

「‥‥‥‥」

 語っている陶二の顔は穏やかだった。リシャンはそんな陶二の顔‥‥その瞳を見つめる。

 陶二は話をつづけた。

「それが仮想世界で、僕が希望した初期設定だという事は十分分かっています。あんなに都合よく、優しい‥‥」

 途中で陶二は口を閉じる。

「‥‥彼女が僕を好いてくれるなんて、あり得ないような話ですから。だから当時の僕は悩みました。彼女はそうさせられているのであって、本当はどうかは分からない」

「今のあなたはどう思ってるの?」

「‥‥‥‥」

 頬杖をついた陶二は下を向く。ガラステーブルに彼の顔が映る。見えるのは本物ではない、映った偽物の顔だった。リシャンはその映った顔を見つめた。

「僕は彼女の事が好きでした。例え彼女の気持ちが作り物でも、この気持ちを伝え続ければ、いつかは本物になるのではないかと‥‥」

「‥‥‥‥」

 リシャンはガラスの像ではない陶二に視線を移した。

「そう決心した僕は学校を卒業してすぐに彼女にプロポーズして、結婚しました」

 陶二は言葉を区切る。恐らくは色々な思いが交錯しているのだろう。リシャンは次の言葉を黙って待った。

「僕には起業したいという夢が昔からありましたが、安定した生活を失うわけにはいかなかったので、普通に就職しました。でもその僕の夢を彼女に言った時、どんな事があっても支えるから、僕のやりたい事をやって欲しいと言われ‥‥それからは無我夢中の日々でした。大変な時期もありましたが、涼子はいつでも僕を支えてくれて‥‥‥」

「今や彼女は、誰よりも裕福で何不自由の無い生活が出来てるみたいね」

 それが彼なりの愛情の注ぎ方だったのだろう。そこに何がしかの問題があったのかもしれないが、現時点で断定するには材料が少なすぎる。

 =リシャン!=

 予想より早くクロウが戻ってきた。

「‥‥もう、涼子はその男の所に行ったの?」

 =現在マンションに真っ直ぐに向かっています=

「そう」

 リシャンが立ち上がった瞬間、全身が眩い光に包まれた。消えた後にはメイド服ではない、鎌を携えた着物の少女の姿に変わっていた。

 リシャンのその格好に鎌を見た陶二は息を飲む。

「これから、彼女の様子を見に行くけど‥‥あなたが調査した通り、浮気してるかもしれない。そうなれば希望通り、ログアウト承認。それでいいのね?」

「はい」

 陶二は静かに頷く。意志は固いようだ。

「‥‥‥‥では、そういう事で‥‥」

 鎌を回転させる。全面に黒い円が渦を巻きながら現れ、着物の少女はその中へと消えていった。




 閑静な住宅街から離れた、マンションの立ち並ぶベッドタウンの中心区域。そこに涼子の運転する赤い車が走り抜けていく。サングラスの下の瞳は見えない。だが唇をきつく噛みしめており、そこから彼女の苦々しい表情が伝わってくる。

 黄色信号を無理に走り抜ける。後ろからクラクションと怒号が飛んできたが、彼女は全く意に介さない。

 やがて車は一際大きなビルの中へと入っていく。

「あそこが浮気相手の男の家?」

 地上からでは何があるのか分からない程の高空から、リシャンは正確に涼子の動向を観察する。

 =はい、ハタノアキト‥‥私立の大学二年生です=

「学生にしては随分と立派な場所に住んでるんじゃない? 親が金持ちだとか、そういうパターン?」

 =両親は病院を経営しており、確かに恵まれてはいますが、彼の場合はそれだけでもないようです=

「と言うと?」

 =‥‥彼は複数の女性から金銭的な支援をしてもらってるようです=

「涼子もその一人って事ね」

 =彼女は夫に内緒でかなりの金額を口座から引き出しています。恐らく、ハタノアキトに提供したものだと=

「へえ‥‥」

 リシャンは腕組みして考え込む。

 つまり陶二が与えたものでは満足できなかったという事になる。浮気相手はそれ以上の何を彼女に与えたのだろうか。

「‥‥‥‥」

 リシャンは急降下してマンションの入り口に立った。

 セキュリティ上、部外者は入れないようになっている扉は、リシャンが近づくと、自動で開いた。

「‥‥‥‥十五階か」

 リシャンの姿が宙に滲む。景色は変わってはいないが、再び現れたのは彼女が口にした十五階だ。

 一つの部屋のドアの前に立つ。防音がしっかりとしており、物音は何も聞こえないが、微かに響いてくる音を拾いあげる。

 声が聞こえる。

 一人は涼子の声、もう一人は若い男のものだ。

 =これで確定しましたね。ムラシタトウジの申告通り、彼のログアウトの準備に入ります。まずはムラシタトウジの代わりのAIを配置‥‥=

「待って」

 何やら中で大声をあげている。それは男女の営みのものとは思えない。

 リシャンは扉をすり抜けて中へと入った。

 案の定、涼子が大声で男に詰め寄っている。

「どうして!」

「‥‥どうしてって言うかさぁ‥‥」

 髪を派手な赤色に染めた男‥‥ハタノアキトは、面倒臭そうに、ため息をついた。

「だいたい、困るんだよな。用事があるときはこっちから連絡するって言ってただろ? 何、勝手に来てるんだよ」

「会いたかったのよ! 何が駄目なの? 私を好きって言ったじゃない」

「全く‥‥もういいや」

 くわえていたタバコを灰皿にこすりつける。

「あんたみたいな、おばさん‥‥本気で相手にしてたと思ってたの? おめでたいな。金持ってるから相手してやってただけたっての」

「‥‥そんな。私は‥‥」

 リシャンは二人の話を黙って聞いている。

 特に珍しくもない。ありふれた男女の会話だ。

 いくら聞いていても、実直で温厚な陶二と、このハタノアキトという男とは比べようがない。彼女はこの男の何処に惹かれたのだろうか。

「クロウ、プログラム改変の形跡は?」

 =ありません=

「‥‥‥‥」

 彼女は自分の意志で陶二を裏切ったという事になる。

「申告を了承」

 クロウの返事がない。

「クロウ?」

 玄関に立っていたはずが、辺りがザザっと砂嵐の様に揺れ始める。

 壁を構成していたフレームが歪み、破片となって崩れ落ちた。

「‥‥‥‥」

 周囲は完全に闇に変わった。

 地に足がついてなく、どちらが上か下かも分からない。目を瞑っているのか、開いているのか‥‥どちらにしても何も変わらない。

「‥‥‥‥」

 リシャンは手を伸ばした。

 その手を誰がが掴む。

 “‥‥サヒ‥‥”

 声が聞こえてきた。落ち着いた静かな声。

 “‥‥アサヒ”

 その声はアサヒと言っている。それは誰かの名前なのか。

「アサヒ」

「‥‥‥‥」

 リシャンは目を開いた。いつの間にか閉じていた事に気が付かなかった。

「気が付いたのね!」

 女性がリシャンに抱きついた。

 見覚えがないが、彼女は抱きしめながら泣いている。

 周りを見渡せば、壁が光る眩しい白い部屋の中。まだ目が慣れていないのか細部まで見通す事が出来ない。

「‥‥‥‥」

 体を起こそうとして、そこで自分の身体が濡れている事に気が付く。今まで水のような物質の中にいたらしい。

「一体‥‥どういう‥‥」

「やっと治ったんだよ」

 奥にもう一人‥‥男性が立っていた。中年のその男性にも、見覚えはない。

「治った?」

「そうよ。難病で体が動かせない病気だったけど、ようやく治療の目途が経ったの」

「‥‥‥‥」

 腕を動かす、握る事も開く事も出来る。

「さ、起きて良く顔を見せて、アサヒ」

「アサヒ‥‥それが‥‥私の名前?」

「そうだ。僕が父親の琢磨」

「私が母親の千佳」

「初めまして‥‥に、なってしまうのか」

 二人は少し寂しそうな顔をした。

「でも、これからは一緒だ。三人で失った時間の分も取り戻そう」

 母親に続いて父親も手を握った。

「お父さん、お母さん‥‥会いたかった‥‥」

 リシャンは二人ときつく抱き合った。

 両親の中に顔を埋める。

「これが‥‥家族というもの?‥‥いいものね」

 これが幸せ? 誰もが目指すという普遍的幸福の帰結?

「フフ‥‥」

 込み上げてくる笑いをこらえる。

「どうしたの?」

「ううん、楽しいなって思ってね」

 リシャンは寝ていたカプセルから立ち上がった。濡れていた裸足が、床に足跡をつける。

「‥‥‥‥もう少し、浸っていてもいいんだけどね‥‥‥」

 部屋中に風が巻き起こる。両親は吹き飛ばされないように、家具につかまった。

 手に持っているのは、巨大な鎌。金属の冷たい光が、柔らかな光源に包まれたこの部屋の空気とは対照的だ。

「‥‥アサヒ‥‥どうしたんだ?」

「ありがとう、お母さん」

「!」

 鎌の煌めきが母親を真っ二つに切り裂く。断末魔の悲鳴と共に、消えていった

「あ、アサヒ‥‥何を‥‥」

「ありがとう、そしてさようなら」

「ぐあ!」

 返す刃で、父親を切り裂く。

 室内には誰もいなくなった。

「ふん!」

 鎌を横に薙ぎ払う。

 室内の風景は二つに裂けていく。切り口が開いていくと、元いたマンションの玄関に戻った事が分かった。あまり実用性のない、そして高価そうな置物が目につく。涼子の浮気相手のマンションの玄関だ。

 =リシャン、正面だ!=

 クロウが視線を促す。

「‥‥‥‥」

 いつもの着物姿に戻ったリシャンは、少し離れた場所からじっとこちらを見つめている人物を、逆に観察する。

 凍り付いたようにこちらを見ている涼子でもアキトでもない。

 それは朱色の着物の女性。リシャンと同じ長い黒髪で真っ白な肌ではあったが、リシャンより年上に見える。結った髪には薄緑色の羽飾りと、金のカンザシを後ろに盛った髪に差し、金のカチューシャには花をあしらえた小物があしらえられていた。眉の上で切りそろえた髪の下にある長い眉毛、その下の大きな瞳はただじっとリシャンを移している。着物の袖にある白いフリルの先から伸びる手には、黒い棒のようなものを持っているが、それが何かは分からない。

「あなたは、どうして分かったの?」

 彼女は優し気な声でそう尋ねてきた。表情も穏やかだが、瞳に表情はない。

「テロリストの形跡があるのに、クロウが無いって答えたから」

 恐らく、あの時からこの目の前の彼女の術中に囚われていたたのだろう。

「‥‥だとしても‥‥」

 彼女は小首を傾げる。

「リシャン‥‥あなたは、あの世界の中に幸せを感じていたはず。私はそれを感じた」

「そうね。だから楽しんでたわ。そこはお礼を言っておく。ありがとう」

 彼女はなぜか名前を知っているようだ。

 鎌の刃を突き付けた。

「‥‥で、あなたが彼女‥‥山中涼子を変えたテロリストって認識でいいのね?」

「テロリスト?‥‥そうね、政府のエージェントのあなたを無力化するのが目的だったけど‥‥」

「私が目的?」

「‥‥‥‥」

 彼女は鎌を無視するように、長い着物の裾を引きずるように歩き、床に座り込んでいる二人の近くに移動した。

「この男‥‥アキトは、導きようもないほど幸福から離れてしまっていたけど、そんな彼を利用して山中涼子の幸せを歪めてしまった事‥‥申し訳ないと思っているわ」

 テロリストの女性は棒を横にして口に咥える。

「戻しましょう‥‥」

 棒は横笛で、ゆったりとした音が、この狭い空間に満たされていく。

 その旋律は心地よさすら感じる程である。

「‥‥‥あ‥‥‥あ‥‥」

 ハタノアキトは前後に体を揺らしはじめる。やがて瞳から光が無くなり、糸の切れた人形のように力が抜けて座り込んだ。

 AIアバターはこの世界の一部として緻密なパズルの一つとして組み込まれている。そこに予期せぬ介入があった場合、その接続を断ったとしても、この仮想世界の一部として復帰する事は出来ない。システムが不穏因子として判断し、世界に歪みが広がる前に強制接続解除される。

 表情のなくなった彼は、次第に白い光の布に包まれ、やがて消えていった。

「‥‥‥‥」

 山中涼子はハタノアキトが消えて行く様をじっと見ていた。

 彼への愛情というものを強制させられていた彼女は、そこでその介入を遮断されたはずである。

「あ‥‥ああ‥‥」

 口を震わせ、頭を大きく振っている。そうしてる間に驚きも恐怖も、その顔からは伺う事が出来なくなった。

「ああああ!」

 無表情のまま叫びながら、玄関から飛び出していく。恐らく、感情は死んだ。それでも反射で動く事は出来る。例えるなら、この世界の創作物に存在するゾンビというものに近い。そんなAIの存在をシステムは許容したりはしないだろう。

「‥‥‥‥」

 リシャンは彼女の去ったドアを見つめる。それから顔だけをテロリストに向けた。

「お前も、そのヴァイアスとかいう組織の一員?」

 静かに語ってはいたが、瞳は激しく揺れている。

「‥‥‥‥」

 彼女は何も言わず、ただゆっくりと頭を下げた。

「なぜ私を目標にしたのかしら?」

「数多のエージェントの中で、あなたが最も高い壁となって立ちはだかる‥‥だから排除しなければならなかった‥‥」

「テロリスト様に認めてもらうなんて光栄ね!」

 リシャンは鎌を彼女の頭上めがけて振った。が、彼女はその鎌の刃を、笛の先端に当てて軌道を反らす。オレンジ色の火花が一瞬だけ散り、勢いのまま鎌は床に突き刺さる。

「リシャン‥‥私達はただ闇雲に仮想世界を壊す事が目的じゃない」

「システムに反してるなら同じでしょ」

「あなたなら分かるはず‥‥AIの好きにさせているこの世界は、幸福な世界にはほど遠い。彼らの幸せの為にも、そこに向かう為に方向性を示して、それを加速させなければならない」

「‥‥‥‥彼らの幸せの為‥‥ね‥‥フフ」

 リシャンは鎌を回転させながら笑う。

「それって、お前達の思う幸せを、そうでない者に押し付けてるだけじゃないのかしら?」

「‥‥‥それでも‥‥」

「そんな戯言‥‥聞くわけないでしょ!」

 鎌の回転を止め、斜め下から反対側へと振り上げた。風を切る音は響いたが、空を切っただけで全く手ごたえはない。

 彼女の像は真っ二つになった。だが、左右に二つに分かれた彼女は、微笑みを浮かべたままだ。

 〈また話し合いましょうリシャン‥‥この世界の真実を知ればあなたにも‥‥〉

「テロリストとの交渉はしない!」

 鎌が横に振られる。赤い炎を纏ったような燃え盛る金属が行き過ぎた後、宙には赤い筋だけが残った。

 =逃げられました。足取りを追う事は不可能です=

 今までどこにいたのか、クロウが足元に降り立った。

「またヴァイアスというテロ組織‥‥」

 日が暮れて真っ暗になった室内をリシャンはただ眺める。

「彼女は何者なの?‥‥何も情報がないと対処出来ないんだけど?」

 =‥‥‥‥=

 クロウの動きがピタと止まった。

 こんな時、カラスの音声端末の向こうの本部内で、何かの話し合いが行われていると思われる。リシャンは敢えてそこに口を挟んだりはしない。

 =承認がおりました。統合政府仮想世界管理局規約、第三十二項、七条に基づいて、エージェント、リシャンに特A情報№522を開示します=

「大仰なのね」

 =まあ、何事も形式が大事ですから=

「で?」

 =はい‥‥彼女‥‥先ほどのテロリストは‥‥シャオティン。ヴァイアスのかなり上層部にいる存在と考えられています=

「‥‥‥シャオティン‥‥‥」

 =彼女は‥‥管理局が作成した、AIのエージェントでした=

「作成?」

 =はい、AIエージェントとして最初に任務につきましたが、次第に行動原理がおかしくなり、ついにはこちらの指示には従わなくなりました。テロリストによる改ざんだと考えられますが、そういう経緯で以降はエージェントは人間を当てる事になりました=

「‥‥何だ先輩なのか」

 リシャンは微笑んで空へと舞い上がった。クロウも後をついてくる。

 =現時点でシャオティンの破壊は難しいですね。こちらの手を知り尽くしています=

「‥‥‥‥」

 初期設定では、ある程度の行動原理が与えられるが、時間が経過すると、それが環境によって変化してくる。最初から最後まで変わらない者はいない。だからそれは正しい変化なのかもしれない。

 管理局の忠実な犬として設定された彼女は、何を見て、何を聞く事で考えを変える事になったのだろうか‥‥リシャンは頭上に見える偽物でしかない夜空を見ながら、黙って考え続ける。

「ま、いいわ」

 リシャンは視線を上から下へと変える。

 無数の光は人の営みの証。

「さて‥‥‥‥犬として仕事をしますか」

 クロウに顔を向けたが、カラスはすぐに顔を横に向けた。





「‥‥‥‥僕は‥‥」

 山中陶二は、広い応接室の中、照明もつけずに一人‥‥項垂れている。これ以上、気持ちの離れた涼子と暮らす事は出来ない。そう決断したからこそ、管理局にロウアウトの希望を出したはずであったが、割り切ったつもりでいても気持ちはそうは単純なものではない。

 楽しかった今までの思い出を次々と思いだしていく。その笑顔を思い出す事で、陶二の心は激しく揺さぶられていた。

「‥‥‥‥」

 テーブルに置いてあったアルコールの瓶に手を伸ばしかけたが、それは途中でやめた。

 酒に頼る事は、判断する事から逃げる事に他ならないと、自らを諫めた。

 検証とは言っていたが、既にログアウトする事は決定しているに等しい。

 それで彼女とは永遠に別れる。かわりに僕のAIが置かれ、彼女にとってのここでの生活は続いていく。その時間の経過を考える事は、陶二には胸が苦しくて仕方のない事だ。

 もう一度やりなおせないだろうか‥‥その問いは何度も繰り返してきた。だが、彼女は他の男に走った。

 インターフォンが鳴った。連打しているようで、ベルの音が連続で鳴りやまない。そのうちにドアを叩く音が聞こえてきた。

「‥‥‥‥何だ?」

 遅い時間に来客の予定はない。管理局なら、こんな呼び出し方はしないはずである。

 モニターを写してみた。

「な‥‥涼子!」

 外で彼女がドアを叩いている。鍵は持っているはずだったが、落としたにしてはその叩き方が尋常ではない。

「ま‥‥待てって!」

 彼女の手が血だらけになっている。陶二は慌ててドアを開けた。

「‥‥‥‥涼子‥‥どうして」

「‥‥‥‥」

 陶二を見つめる彼女の瞳には、彼の姿が映っていない。表情無く、ただ空を見ているようだ。

「一体、どうしたんだ?」

「‥‥‥‥」

 何も答えない妻の手を掴んで、家に入ろうとしたが、

 “残念ながら!”

「!‥‥うわ!」

 二人の間に爆風が巻き起こり、吹き飛ばされて距離が開いた。

「残念だけど、彼女はテロリストによる干渉を受けて、感情が無くなってしまった状態」

「‥‥‥‥」

 陶二は口を開けたまま、死神の少女と倒れた涼子を交互に見る。

「このまま放置は出来ないの。管理局の規定によって消去‥‥」

 リシャンは涼子に鎌を向ける。

「ま‥‥待ってくれ!」

「‥‥‥‥」

「そんな話は聞いてない! なんで涼子を‥‥」

「だから不完全なアバターはこの世界のバグになる。こうするしかない」

 鎌を振り上げ、それから一気に振り下ろされる。

 赤い光が首筋に伸びた。

「駄目だっ!」

「‥‥‥‥」

 歪曲した赤色の金属の先が彼女の首先、数センチの所で止まった。

「‥‥どうして? あなたは彼女の裏切りを許せなかったんじゃないの? だからこの世界からログアウトしようとしていたのに。あなたはそれを望んだ。そして私がここに来た。これはその為に必要な事」

「それは‥‥」

 リシャンの言葉に陶二は言葉が詰まった。

「僕が間違っていた! 彼女がどうであれ、僕は信じ続けなければならなかったんだ! だから‥‥」

「今さら、はい、そうですかって、申請の撤回は出来ないんだけど?」

 リシャンは肩をすくめた。

「それにね‥‥今の彼女は反射で動いているだけで、感情はないの。ここに戻ってきたのは、記憶を辿ってきただけ。あなたの事を想っての事ではないわ」

「だとしても、僕は彼女の側にいたい‥‥この世界の中で‥‥」

 陶二はうずくまっている涼子の元へと駆け寄った。

 落ち込んでいた時も、嬉しくて踊り出しそうな時も、いつも彼女は側にいた。

 その時の事が、幾重にも記憶の波となって蘇ってくる。

 それらを無かった事にして逃げだそうとした自分を、陶二は激しく責めた。

 例え何があっても離れる事は出来ない。

 陶二にはもう迷いは無かった。

「‥‥全く」

 リシャンは苛立ちを隠そうともせず、顔を曇らせた。

 再び、床が破裂して陶二は玄関先にある階段まで吹き飛ばされて転がる。

「僕は‥‥」

 片手を押さえながら立ち上がる。

「僕が‥‥間違っていたんだ‥‥逃げるなんて‥‥裏切ったのは僕の方だ‥‥」

「これ以上、抵抗すると威力妨害であなた自身が拘束の対象になるんだけど?」

「‥‥構うものか‥‥ぐ‥‥」

 また近寄ってきたので、再度、爆風を発生させる。吹き飛ばされてもその度に陶二は対上がってきた。

「僕は‥‥愛して‥‥いるんだ‥‥」

 四度目の時‥‥涼子の体がビクっと動いた。這って近づいてくる陶二に彼女は顔を向ける。光を反射する事の無かった瞳の中に陶二の、そのボロボロの姿が映った。

「‥‥そん‥‥」

 リシャンは言いかけて途中でやめた。

 涼子の足元が濡れている。多分、それは瞳から出たものだ。

「‥‥‥‥クロウ」

 =はい=

 カラスが街灯に姿を現す。

「あなたはデバイスの接続不良によって、回線がオフになってしまった‥‥だから、しばらく状況が呑み込めていない‥‥」

 =‥‥‥リシャン‥‥それは‥‥=

 クロウの漆黒の二つの目に着物の少女が逆さまに映っている。

 =テロリストによって感情のなくなったAIは消去しなければなりません=

「‥‥‥感情がなくなったAIは‥‥」

 =‥‥‥‥=

「‥‥泣く事はない‥‥」

 =‥‥‥‥=

 クロウは一瞬、首をさげた。

 =‥‥視覚デバイスと記録用ログの調子が悪いようです。システム再起動をかけるのでしばらくそちらとコンタクトが取れません‥‥復帰まで三分程ですね=

「‥‥‥フフ‥」

 =全く‥‥‥‥=

 クロウはため息をついて姿を消した。

 陶二は妻を抱きしめる。涼子の手が動いて彼の背中に腕を回した。

「‥‥‥‥」

 リシャンはその姿を見つめ続ける。それから二分五十秒程経った頃、彼女の姿は消え去った。





 =‥‥ハア=

 いつしか時間は午前零時を過ぎ、日付が変わっていた。付近にある一際高い山の頂上。そこの杉の先端に立ち、夜空の向こう‥‥遠くに見える街の灯をリシャンは黙って眺める。その光は同じではなく、移動していたり、点滅をしていたり、色が変わったり‥‥常に変わり続けている。

「カラスの鳴き声にしてはおかしいんじゃない?」

 =おかしくもなりますよ。一体、どうするつもりなんですか?=

「ログアウト申請に不備があって、それは却下された。テロリストに改変されたAIは消去。代わりに新規でヤマナカリョウコというAIを配置‥‥それでOK。何か問題でもある?」

 =大ありです。ヤマナカリョウコがこれからどうなっていくか、分からないんですよ? もし、暴走したり、それが原因で歪みが発覚したら‥‥ああ‥‥お終いだ‥‥ハア‥‥=

「フフ‥‥あは‥‥」

 リシャンはクロウの呟きを聞いて笑った。

 笑いながら、シャオティンというテロリストの言った言葉を心の中で思い返してみる。

 AIの自由にさせていると不幸になる。それを修正して取り除くのが目的だと‥‥そんな事を彼女は言っていた。

 誰もが望むありふれた幸せの種類は少ない。それに比べて、そこに至る人生の途中で不幸に陥る理由の何と多い事だろう。

 その種類の格差が、人がなかなか幸福を掴めない理由なのかもしれない。

 だが、たった今しがた、中山夫婦はその突然に襲った不幸を乗り越えた。

 その先にはまた不幸が訪れるかもしれないが、彼らはこれからも幸福を求め続けるだろう。

 それは誰かに強制される話でもない。

 今はそう思うようにしよう。

「あはははは!」

 リシャンはそんな事を考えている自分が、少しだけ幸せだと思った。


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