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第三話 命の使い方

「ま! 待ってくれ! 俺は!」

 午前零時を過ぎた辺り、ここは都心から程近い、テーマパークではあったが、今は閉鎖されており、全ての灯の落ちた園内には、もちろん人影はないはずである。だが、そこに、ネクタイを締めた若いサラリーマンふうの男性の声が響く。

 冷静ではない、懇願するような震えた大声は、その閑散とした施設の中をどこまでも突き抜けていく。

 腰を抜かして座り込んでいる男性に向かって、小さい足音が聞こえてくる。

 コツコツ‥‥という音は小さなものだったが、それでも風の音に負けないぐらい、辺りを駆け巡り、発した元が何処かはそこから見つけるのは難しい。

「今まで散々、他人の命を奪ってきて、いざ自分がそうなったらその言いぐさ。みっともないと思わない? 無差別爆破犯人のテロリスト七十一さん」

 月が雲から顔をだすと、その声の主の姿がゆっくりと露わになっていく。

 それは深紅の帯で薄紫色の着物を締めた、まだ幼い少女だった。

 夜の闇より黒い髪は頭の両サイドでまとめられ、うなじからこぼれた髪の毛が風に靡いている。同じ色の黒い瞳は、怯える男の顔を感情なく映している。

「‥だから‥‥俺は誰の命も奪ってない! 俺がやってきたのは、AIだけだ。ただのデータを削除しただけだ!」

「それは、この仮想世界を壊しかねない重罪」

 彼女は手に持っていた彼女より大きな鎌の刃を男に向けた。

「管理局規定では、仮想世界に被害をもたらす計画を企てた者、実行した者、もしくは関わった者、理由の如何なく無期懲役。この件に関して法廷も弁護人も除外」

 抑揚の無い声で淡々と説明する。

「それは、お前たち管理局‥‥統合政府が勝手に作った法案だろう! こんなもので人を堕落させて、それで勝手に裁く!」

「あなたがどう思おうが、それで世界は変わらない」

 水色に輝く鎌を振り上げる。

「いや、変わる! お前達は知らないだろうが、この世界は崩壊していく‥‥それはもう止められな‥」

「ふん」

「ぐはっ!」

 言葉が終わる前に鎌が男の首を刎ねる。二つに分断されたそれぞれが光の粒子に分解されてすぐに消え去った。

 それまで遠慮でもしてたかのように、風が彼女の着物の裾を揺らした。

 =現在、局の部隊がテロリストの位置に向かっています=

 朽ちている街灯の上にとまっていたカラスが喋り出す。

 =‥‥妙な事を言っていましたね。崩壊は止められないとか=

「ただの捨て台詞じゃないの?」

 少女‥‥リシャンは杖をクルクルと回転させ、柄の先をコンクリにトンと打ちつけた。

 切った所で血が出るわけでもなく、汚れたりもしなかったが、終わった後にこうするのは彼女の癖のようなものだ。

 =最近、テロリストの質が変わったような感じがします=

 カラスのアバター‥‥クロウは話を続ける。

「どんな感じに?」

 =今まではそれぞれの事件は単独犯だと考えられてましたが、プロファイリングすると横の繋がりがある可能性の方が大きいようです=

「あ、そう。何かの組織があるのかもしれないって事ね」

 リシャンは杖を空中に手放して消し、さっさと歩きだす。

 足元は舗装はされてはいるが、隙間からは草が伸びており、長い年月、放置されてきた事がそれでうかがえる。

 視点を上にあげても、見えるのは錆びたメリーゴーランド、折れたジェットコースターのレール。屋根の落ちた何かの券売の為の小屋‥‥。

 かつてはここで大勢の人で賑わっていたのだろうが、今では見る影もない。近くにもっと大きな資本の巨大テーマパークが出来て、人気はそこに流れたようだった。

「‥‥‥ここは‥‥何の為にあったのだと思う?」

 =それは、遊興の為でしょう=

「そうね」

 クロウは至極、真っ当な答えしか返してこない。返ってくる言葉が分かってはいても、敢えて聞いていた。

 遊興とは楽しむ事。この遊園地という狭い空間の中、しばらく外とは離れた夢の世界としてそれぞれの愉悦を満足させていく。だがここから出ればそれは終わり、ほんの数時間、短いひと時を楽しむ為だけにこの施設の存在の意味があった。

 ここに来て、また出て行くだけの行為には、思い出以外の何も残らない。それでも刹那の瞬間、人々は求めていた。

 何にもならない事に熱意を注ぐ事に意味があるのだろうか。

 リシャンは廃墟となった施設を見渡しながら、そんな事を考える。

「‥‥ふふ」

 立ち止まって空を見上げて笑った。

 =リシャン‥‥=

「何?」

 =テロリストの確保‥‥失敗したと連絡がありました。特定された位置は直後にダミーに置き換えられてしまったそうです。以後の足取りも消去されてしまい、追跡は困難です=

「強制終了でしばらく意識は失ってるはずだけど‥‥やっぱり他にバックアップしてる奴がいるみたいね」

 残念がるでもなく、リシャンはフン‥‥と、青く光る月に向けて鼻を鳴らす。

 =それによって以降の任務も修正されます。リシャンにはこのテロリスト七十一の対処にあたってもらいます=

「そう」

 件のテロリスト七十一は、人の多く集まる場所を破壊し、AIを大量消去するのが常套手段だ。そうする事でこの仮想現実のバグを拡大させるのが目的で、今まで何度か実行されてしまっている。

 それはリシャン以外のエージェントが担当していた件ではあったが、これ以上は世界のシステムに深刻なダメージをもたらしてしまう。このまま放置するわけにはいかなかった。

「さて、具体的にどうしようかしらね‥‥」

 偶然が重なった事で、今回は七十一を捉える絶好の機会だった。そんな幸運は続くわけがない。

 罠が必要だ。それも相手に悟られない自然な罠が。

 しばらくあごに手を当てて考えていた。

「そうね‥‥‥‥クロウ」

 =はい=

「以前に、移住却下リストにあったヒビカ、ムラシタ‥‥彼女の資料を見せて」

 =え? なぜですか?=

「いいから、早く」

 リシャンの手の上に一枚の紙がヒラヒラと舞い降りる。そこに一人の女性のプロフィールが書いてあった。

 ヒビカ、ムラシタは現実世界の人間だ。

 二十六歳の女性。父親は政府に備品を支給する為の会社を営んでおり、業績もかなりあげている。そのおかげで彼女は比較的安全なシェルター中央で生活する事ができていた。順風満帆に見えていたが、彼女が十六になった時、不治の病気である放射性物質由来の病が発覚してそれまでの人生が一変する。

 それから十年‥‥彼女の世界は狭い病室の中だけになった。治療法はなく、このまま衰弱して亡くなるのを待つのみである。

 =彼女がどうかしたのですか?=

「ちょっとね」

 前に見た時点でリシャンは、彼女に何か思う所はなかった。

 リアル世界ではよくある話である。

 だが記憶に止めていた理由は、プロフィールの裏にあった、備考欄である。

 そこには彼女の想いが書かれていた。

 その境遇の中、ずっと同じ思いを抱き、病室の窓から赤茶色の空を見上げて過ごしていた。以前に任務リストで見た時からそこが引っかかっていた。

「‥‥もしかしたら‥‥ね」

 リシャンが宙に飛ばした紙は燃えて一瞬で灰になって風に乗って消えていった。

 =何を考えているのですか?=

「大丈夫、目立つ事はしないから」

 =頼みますよ=

 そう言ったリシャンを全く信用していないクロウは、ため息かわりに大きく、カア‥‥と鳴いた。





「‥‥‥‥」

 私は目を開けた。開けた‥‥つもり‥‥。

 見えたのは天井。でもいつも見てる無機質な模様じゃなくて、木製の模様?‥‥みたいなものがオシャレな天井。

 よくよく観察してみれば、私はベッドに寝ている。

 ふかふかの羽毛毛布‥‥全然重くないのに暖かい。

 枕から顔を浮かして部屋を見て見る‥‥はずだったのに、上半身を起こした。

「え?」

 私は神経性の病気で体がほとんど動かせなかったはず。

 ベッドから片足をおろして、それから立ち上がる。

「‥‥‥‥」

 立てる‥‥それに自由に体が動かせる。

「凄い!」

 私は今、仮想世界にいる。今の私はアバターの中。それがとても信じられないぐらいに自然。視覚だけじゃなくて、体に纏いつくひんやりした空気も感じる。足が踏んでる床の感触。自分の身体の重さ‥‥言ったらきりがない。

 仮想世界への移住を希望してる人はたくさんいる。私も落ちたはずなんだけど、なぜか申請の許可の通知が来た。

「‥‥‥‥」

 窓に手を伸ばして開けてみる。

「うわ‥‥」

 途端に冷たい風が頬を撫でていく。

 そして広がる景色‥‥この家は少し高台にあるのか、遥か遠くまで見渡せる。

 広い庭から丘をおりていく真っ直ぐな道。道の両側には並木と、色んな形の屋根の家々。その木や屋根が白く染まっているのは‥‥多分、空から降ってきた雪という冷たいもの。灰色がかった雲の隙間から水色の空が覗いている。さらに向こうには‥‥何だろう? 大きな水場。貴重な水があんなにたくさんあるなんて、初めて見た。

「‥‥‥‥」

 鏡があったので覗いた。

 十五歳の時の私がそこにいる。

 誕生日に行ったライブ‥‥とても熱中して見てた記憶がある。

 それから一年後、まさかあんな事になるなんて思いもしなかった頃。

 もう二度と立つ事も出来ないと絶望してた‥‥でも‥‥。

「‥‥‥‥」

 立って鏡を見てるだけで‥‥涙が出てきた。頬を伝わっていく涙の感覚もしっかりと分かる。私は手でその涙を拭おうとして‥‥まだその事にびっくりする。

 私は自由に体が動かせる。そしてあの景色の中に入っていける。

 私はやりたい事が出来るんだ。

 “気分はどう?”

「!」

 ドアが開いた気配はなかった。でも突然後ろから声が聞こえて振り向いたの。

「ようこそ仮想世界013へ」

 そこにいたのは、十三、四歳ぐらいの少女。袖と襟に赤のラインの入った真っ白な長いコートを羽織っている。髪は両脇で束ねていて、肌はコートと同じくらい真っ白。対比で真っ黒な瞳が目立ってて、目じり周囲が少しだけ紅潮している様に見える。

 仮想世界に入ったら案内人がつくと、事前説明があったけど、多分、彼女がそう。

 あんな少女? だとは思ってなかったけど。

「ガイドの方ですよね」

「一応、そういう事になってるわね」

「‥‥‥‥」

 思っていた反応と違う。彼女は歳の割に‥‥というか、管理局員のわりに、すこしぶっきらぼうな感じがする。

「初めてこっちの世界に来た感想はどんな感じ? ヒビカ、ムラシタ」

「え?‥‥そうですね‥‥」

 何て答えればいいんだろうか‥‥色々ありすぎて、言葉が出てこない。

「まあ、でしょうね」

 彼女はなぜか納得して少し笑みを浮かべた。

「ここは仮想世界013。元のリアル世界の昔の世界の再現。人がまだ幾つかの集団に別れていて互いに争い、技術も未熟でこの地表からは離れられないで生きていくしかなかった、そんな時代」

「戦争?」

 それは聞いてなかった。

「なぜ、そんな時代を再現したの?」

「この時代、人は自由に人生を決めていく事、人間らしく生きていく事が出来るから‥‥というのが統合政府の公式見解。」

「あなたはどう思ってるの?‥‥ええと‥‥」

「李眸‥‥私はリシャン」

「リシャン‥‥素敵な響きね」

「そう?」

 彼女はそう言って、フフ‥‥と小さく笑った。

「そうね、もちろん、今の所はそれぞれの国は大規模な戦争はしてないけど、政府は仮想世界には不干渉。だからリアル世界での正史のように戦争になっていく可能性はあるかもね。‥‥それも一つの結果」

「‥‥‥‥」

 何となく他人ごとみたいな口調に聞こえる。政府の中の人なのに。

「そんな事よりも‥‥」

「‥‥‥‥」

 私の側に近寄る。そしていつの間にか俯いていた私の顔を指先で上に向かせた。彼女の顔がすぐ近くにある。それは顔と顔が触れそうな程の近い距離。現実だったら吐息も感じるぐらい。

 実際は私の方が年上だと思うけど‥‥彼女からは年上のような余裕を感じる。

「あなたのプロフィールのこの部分」

 リシャンが見せてきたのは、仮想世界希望の時に提出した私のプロフィールの二枚目。そこには私がこの世界でやりたい事とか、希望なんかを書いた場所。

「これは本当?」

「‥‥‥‥」

 見せてきたけど‥‥そこに何を書いたかはちゃんと覚えてる。

 自分が生まれた意味を見つけたいって。

 私にとってはそれ以上の目的がない。

 私は‥‥ずっと寝たきりで‥‥誰かに頼らないと生きていけない。

 なら、そんな私は何の為に生まれてきたのか、それとも意味なんて最初からなかったのか‥‥。

 自由に動けるこの世界でなら、それを見つける事が出来るかもしれない。

「はい」

 私がきっぱりと答えると、リシャンは肩をすくめる。

「随分と抽象的な目的ね。じゃあ、聞くけど、あなたは、それがどんな人にもあると思ってるの?」

「それは‥‥」

「目的なく、生きてる人は価値がないとか?」

「違うの! 私は‥‥」

「‥‥‥‥」

 リシャンが目を細めると、大きかった瞳は鋭い凶器のような輝きに変わる。

「言い方が意地悪だったかもね」

 彼女はフフ‥‥と笑う。

「生まれた目的‥‥言い換えれば、やりたい事。心の底から望む事をやって、それが叶った時、なんじゃないかな?」

「‥‥‥やりたい‥‥事‥‥‥私の‥‥」

 それは‥‥。

「あなたが、自分で書いてるじゃない。たくさんの人に歌を聞いてもらいたいって」

「‥‥‥‥」

「それが、あなたの望み‥‥生きる目的なんじゃないの?」

「そうだけど‥‥‥そんな事‥」

 確かにそれは私の夢。だけど‥‥。

「そう、違うんだ」

 リシャンは後ろに手を組んで、真顔でため息をつく。

「だったら、あなたに用はないわね」

 クルっと背を向ける。彼女の帯の深紅が目に滲む。

「好きなように生きて、好きなように死になさい」

 窓から出て行こうとしている。

「‥‥‥‥」

 時間にして、ものの数秒。私はその僅かな時間に、頭の中でひたすら考えていた。

 私は‥‥。

「待って!」

 後ろに回していた彼女の腕を掴んだ。

「‥‥私‥‥」

「‥‥‥‥」

「私、歌いたい!」

「‥‥‥‥」

 リシャンの白い手が、私の手を掴み返してきた。

「まだ、どうすればいいのか分からないけど‥‥でも、頑張ってみる。出来る事は全部やって‥‥それでもダメかもしれないけど‥‥」

「ふーん‥‥」

 今度は急に振りむいてきた。そして両手で私の頭を掴んで、彼女の顔のすぐ正面に向か向かせる。

「やっぱり、あなた、面白いわね。‥‥だったら、協力してあげる」

「ほんとに⁉」

「その言葉が本当ならね」

「‥‥‥‥」

「それに、やるのはあなた本人。私は口を出すだけ」

「‥‥うん」

 完全に年上の威厳みたいなものはなくなってる。

 今はこの少女に従おうと思う。

「では、また後に。それまで、この仮想空間を堪能してなさい」

 リシャンの背後に真っ黒な穴が現れ、そしてその中へと消えて行った。

 残された暗黒の穴はあっと言う間に小さくなって、最後に弾けてなくなった。

「‥‥‥‥」

 すぐ後ろにあった窓は開けたままで、カーテンが靡いている。曇っていた空は、完全に青空に変わってて、家々の屋根の上の雪に反射した光が眩しい。

 通りの向こう、そこに七色の半円の光が見える。

 あれは多分、虹というものだ。更にその奥に見える海も白く輝いて見える。

「‥‥‥‥」

 美しい‥‥それ以外の言葉が浮かんでこない。

 リシャンの言う通り、ううん、彼女の言葉がなくても、今はこの世界を感じていこうと思う。





「綺麗なコね」

 ヒビカのいる街、その遥か三千フィートの上空からリシャンは下界を見下ろす。まだ重力というものがあるはずの距離だが、それを完全に無視し、真横にある壁の絵画の様に腕組みして眺める。

 =大規模になりますが、ヒビカの目的は、プログラム改変すればすぐに実現可能です=

 飛んできたクロウはリシャンの肩にとまった。

「聞いてたでしょ。私は何もしない。彼女はね、この世界の理の中を自分の力で進んでいくの。おかしな事をすればテロリストに悟られるじゃない。だから成功するかどうかは彼女次第」

 =‥‥‥‥=

 クロウは唸った。

 =ヒビカ、ムラシタ‥‥彼女はこの世界へ入る審査で落ちた人間です。それを繰り上げる程の人材なのでしょうかね=

「何れにしても想いが本物だったら、全てがうまくいく。違ってたら失敗。鍵はそれだけ。シンプルでいいじゃない」

 =全く=

 クロウは首を傾げる。

「フフ‥‥まあ、見させてもらうとしましょう」

 孤高の世界の只中、リシャンの笑い声が響き渡る。





 三日ぐらい‥‥私はひたすらに、この世界を探索した。

 犬をつれて散歩してる人に話しかけてみたり(頭を撫でる‥‥かわいい)、カフェに入ってコーヒーを飲んでみたり(味がする。おいしい)凍った湖を眺めてみたり(綺麗、寒い)。

 ここは人が人らしく生きていける世界‥‥リシャンはそう言ってたけど、今ではそれが良く分かる。

「ただいまー」

 すっかり日が落ちてから家に戻ってくる。

 返事は返ってこない。最初の設定で、AIの両親を置く事も出来たけど、私はしなかった。この世界に入る前、選択の欄に書くときは即答だった。なぜなのだろうって考えたけど‥‥多分、現実の両親と別れてきたから‥‥また同じ思いをさせたくはなかったんだと思う。

 なんだかんだで、私も他人ごとみたいに考えるのが癖になっている。

 そう言えば、そろそろ来る頃かな‥‥って考えてた頃、

 “こんにちは”

 インターフォンが鳴って、出てみると、その彼女‥‥リシャンの顔がモニターに映った。

 “入っていい?”

「どうぞ」

 鍵を開けると、革靴の音をたてて玄関に入ってきた。

 彼女の服装は前に見た時とは違ってた。

 白のブラウスの上に濃紺色のスーツ。同じ色のスカートも着物の時よりは短く、膝上のタイトなタイプだ。頭の両脇で球にしてまとめていた髪は下ろして、後ろで大きな房でまとめられていた。

 多分、化粧はしていないのだろうけど、彼女の肌は透き通る様に白い。その対比で目じりと唇の赤色が目立つ。手に持っている幅が薄くて黒いカバンには、何が入っているのだろうか。

 地味な格好をしてるけど、それでも目立つ。

 私はただ見入っていた。

「そんなに驚いた?」

「普通に玄関から来るとは思わなくて」

「そう?」

 リシャンは笑いながら意外に長い髪を手で流して勝手に部屋の奥に入っていった。

 私も後に続く。

 客間?‥‥だと思うけど(家の間取りはランダムだった)、そこのソファーに彼女は腰を下ろして、ローテーブルの上に何枚かの書類を広げた。

「‥‥‥‥」

 その中の一枚を拾い上げてみる。

 幾つかの歌唱教室と、運動ジム、ダンスレッスン教室、それから、色々な学習場所がのっている。

「私が計画した最短ルートでゴールを目指すから、睡眠以外の隙間時間はないと思いなさい」

「もちろん」

 この世界の住人は食事も睡眠もとる。

「まずは力をつける事、そして魅力的になる事。それを支える体力をつける事‥‥それが当面の目標」

「はい」

「ある程度の歌唱力がついたら、芸能事務所に売り込みに行く。そこで知名度を上げていく」

「‥‥‥‥」

「最終目標は、いかに多くの観客を集められるか」

「‥‥‥‥」

 遠い‥‥私はどこまで行けるんだろうか。

 ダメダメ‥‥こんな事で弱気になってどうする。

 私は‥‥絶対に大きな舞台に立つ。

 立って‥‥歌うんだ!

「そうそう、その意気」

 リシャンは満足そうな顔でうなづいてる。

「じゃあ、今から行くから準備して」

「今から?」

「あまり時間がないのは分かってるでしょ?」

「‥‥うん」

 分かってる。私は一分、一秒、無駄には出来ないんだ。

「じゃあ、隣町まで走る!」

「え? 走る⁈」

「この家の財政状況をシュミレートした結果、そう何度もタクシーは使えない。歩くのは時間がもったいない。だから走るしかないわね」

「え? あ‥‥うん」

 ファー付きの革靴からスニーカーに履き替える。外は肌寒いけど、そんな長距離を走るなら、寒いとかないだろうし。

「じゃ、私は目的地で待ってるから」

 リシャンはそう言って消えた。

 つまり、私一人で走っていかなければならない。

「‥‥いや! 行ける! 行くんだ!」

 見えないハチマキを締めて、私はバックを肩にかけて走りだす。

 タッタッタ‥‥と、最初は良いペースだったけど、だんだん足取りが怪しくなってくる。

 苦しくて息があがってる。ここは本当に仮想世界なんだろうか?

 時間を見たら時間まであと十分。どう考えても無理な気がする。

「ま、まずい!」

 可能な限り、速く脚を動かしてはみたけど‥‥最後の方は歩道のガードレールに手をかけながら移動してる。

「はあはあ‥‥」

 ボイストレーニング教室の前まで来た所で、私は息を切らしてドアに手をついてた。

 時間はぴったり‥‥だけど、このままボイトレを受けるのは厳しい。

「‥‥何をしてるの? 入りなさいよ」

「は、はい」

 肩を上下させながら中に入る。

「‥‥え?」

 教室と看板があったけど、そこにいたのはリシャンだけ。

 マイクと音響器材、その他の設備はちゃんとある。

「先生は?」

「私」

 リシャンは私にマイクを渡してきた。

「???」

「何してるの、モニターに映ってる通り、声を出して」

「あ‥‥うん」

 やっと呼吸の乱れがおさまってきたのに、また声を出さなきゃならない。

 何でリシャンが先生の代わりをしてるのか、考える暇もない。

 私はただ言われるままに、声を出し続けた。

「はい、今日はここまで」

「‥‥‥‥」

 そう言われて、ガクっと首をうなだれる。

 疲れた‥‥。もう喉がガラガラ‥‥これ以上は一言も出てこない。

「次はダンスレッスン」

「⁈⁈⁈」

「場所は二キロ先のダンス教室」

「!!」

 この人は何を言い出すの? 

 まさかまた走らせるつもりじゃ‥‥。

「着替えたら、そこまで来て‥‥待ってるから」

「ちょっ‥‥」

 声をかける前にリシャンは消えてしまった。

 もしかしたらまた先生はリシャンかもしれないという予想。だったら、ここでいいじゃないの? 移動する意味は‥‥体力作り?

「もう‥‥む‥‥」

 無理‥‥と言いかけたけど、その言葉は途中で飲み込む。

「負ける‥‥もんかぁ!」

 ボイトレ教室(?)を飛び出して私はまた走り出す。

 そう言えばお腹が空いたけど‥‥そんな事は二の次。

 絶対に叶えてみせる!

 だからこんな事で弱音なんて吐くもんか。

「こんにちは!」

 指定された場所まで行くと、予想通りリシャンが部屋の中で待っていた。

 つるつるの床に、天井からのライトが眩しく反射している。

「お願い‥‥します!」

「‥‥へえ」

 リシャンは笑った。何だか初めて彼女の心からの笑顔を見た気がする。

 ジャージに着替えると、すぐに猛特訓。

「痛たたたた‥‥」

 限界以上に足を開いたり、

「腰が‥‥」

 限界以上に体をのけ反らせたり‥‥。

 体がミシミシ言ってる。明日は骨も筋肉も喉も大変な事になってると思う。

 お腹が鳴った。体は正直だ。

「ダイエットする必要もあるから、今は我慢」

「‥‥‥‥はい」

 正直、今のその言葉が一番キツい。

「さあ、音楽に合わせて体を伸ばす!」

「は‥‥い‥‥」

 私の返事とお腹の音が同時に鳴った。




 そんな生活を三週間。もちろん私は学校にも通ってないし、働いてもいない。だから起きてる時間のほとんどをトレーニング(?)に当てられてる。食事は一日二回。それも味気の無い固形食(栄養は足りているのだとか。仮想世界なので、栄養不足で倒れる事はないと思うけど)。お風呂に入ってる途中で寝落ちした事も一回や二回じゃない。ベッドに横になった途端に爆睡(仮想世界の住民の睡眠って、アバターのスリープ中って事?)。

「‥‥‥‥」

 自分の変化に気がついた。

 体が軽い! バレリーナの様に、体が柔軟。楽譜を見て正確な発生が出来る。

 そして何より、多少の事では疲れない。疲れないので、練習にも集中できる。

「そろそろ次の段階ね」

 発声していた私を見てたリシャンは、そんな事を呟いた。

「次の段階?

「忘れたの? 売り込みに行くのよ。芸能事務所に」

「え? もう?」

 いくら何でも早い気がするけど。

「ヒビカの個人的な下地は十分。客観的に見ても、その辺のテレビに出てるコの数段上」

 テレビというのは、この時代の解像度の低いモオニターで、そこにテレビ局で作った番組を流して映す機械の事だ。

「容姿だけなら最初からアイドルぐらいにはなれた」

「アイドル‥‥」

 それは憧れの存在。ステージに上がるとたくさんの人が声援を送ってくる。

「ヒビカのその容姿は、過去のあなたの姿を忠実に再現したもの。自信を持っていいわ。あなたは可愛い」

「‥‥‥‥」

 そう言われて私は顔が赤くなる。昔、同年代の人に告白された事があって、そこで褒められた事がある。あの時はお世辞だと思ってたけど。

 リシャンはそんな事は言わない人だ。

「じゃ、オーディションに行くから準備して」

「え、今から?」

 頭がついていけない。

「そう、今から」

「すぐに行くの?」

「だからそう言ってるでしょ。もうアポは取ったからキャンセルは出来ないの。早くして」

「!」

 言われてすぐに着替える。と、言ってもここはボイトレ教室。そんな服は持ってきていない。家に戻っても‥‥何かあったかな。ほとんどジャージしかなかったような‥‥。

「今日は特別」

 リシャンが目を細める。見つめられた瞬間、私は、今着てた白のジャージとか、その下の下着がパッと消えた。

「え?」

 当然、身に着けてたものが何も無くなったで、完全な裸。

「うわ!」

 驚く間もなく、リシャンが抱き着いてきた。

「あの‥‥」

「じっとしてて‥‥計測してるから」

「‥‥‥‥」

 彼女の温もり‥‥温かさを感じる。

 顔は真っ赤。私もリシャンの腰に手をまわした。

「体形はだいたい目標数値の範疇ね」

 私の体が光りだして、目を瞑る。瞼ごしの光が無くなった時に、やっと目を開くと、私は服を着ていた。

「‥‥‥‥」

 上は薄いベージュのシャツで、胸元には同じ色の紐が蝶々結びされてる。茶色と黒のチェック柄のワンピースで、全面には二列になってる黒いボタンがアクセント‥‥になってるのかな? 肩には灰色の小さなポーチ。髪もポニーテールになってる。

「‥‥凄い」

 まるで魔法みたい。

 ここは仮想世界だから、これは単なるパラメーターの変更だって事は知ってるんだけど、やっぱり魔法にしか見えない。

「‥‥いつまで手を握ってるの?」

「あ!」

 気が付けば、リシャンの手をしっかりと握ってた。

 慌てて手を離す。

「それじゃ」

 また先に行ってるのかと思ったけど、表で車のクラクションが鳴った。

「タクシーを呼んだから‥‥さあ、乗って」

「‥‥‥‥」

 私は後部座席に押し込まれる。続いてリシャンも乗り込んだ。

「青葉プロダクションまで」

「分かりました」

 リシャンがそう言うと、運転手さんはおもむろに車を走りださせる。

「え? 青葉プロダクション⁈」

 この世界の、この国では最大手の芸能事務所。

 いきなりそんなとこに行って‥‥。

 多分、たくさんの人がいて、凄い有名人がいて‥‥そこに私なんかが、のこのこと面接なんて行ったら‥‥。

「‥‥‥‥」

 私は景色を見る余裕もなくて、ただ俯いて握りしめた自分の手をじっと見つめる。力が入りすぎてちょっと震えてるし。

「大丈夫。ヒビカ‥‥あなたなら出来る」

 そんな私の手にリシャンは上から手を被せてきた。真っ白だけど温かい手の温もりが、心まで癒してくれるみたい。

「気楽に言うけど‥‥」

「あなたは、寝た切りになった十年間、ここまでの想いをずっと心に刻んできた。それは他の誰よりも強い。だから何も心配する必要はないのよ」

「‥‥‥‥」

 何でリシャンは私の心の中まで知ってるんだろうか。病室で動けない時の気持ちなんて、誰にも話してないのに。

 私が手の甲を逆さまにしてリシャンの手を握ると、彼女も握り返してくれた。

 都心の真ん中、目的地のプロダクションまで三十分。車にしては長かったけど、彼女の手を握ってたら、乗ってる時間はあっと言う間に終わった。

「着きましたよ」 

 タクシーのドアが自動で開き、私は先に降りた。

「‥‥‥‥」

 見上げる程の大きなビル。窓は幾重にも上に重なってて、あの数の分だけ階がある。そこには本物?のアイドルの人達が大勢いる。

 リシャンは先に入って受付の女性と何かを話してる。

 私も遅れて開いた自動ドアから中へと入った。

「オーディション会場は三十六階の会議室だそうよ」

「うん」

「じゃ、私はあとで来るから」

「え? ついてきてくれないの?」

「これはあなたの物語。主役はあなたなの」

「‥‥うん」

 そう言われたら納得するしかない。

 そう‥‥自分で決めた事だもの。

 自分の夢は自分で叶えるしかない。

「‥‥よし! 行くか!」

 私は心の中でファイティングポーズして、エントランスにある高級そうなエレベータ―に乗り込んだ。





 リシャンはヒビカが入っていたビルの屋上に立っていた。

 このビル以上に高い建造物は付近にはない。吹き曝しの風が、無造作に束ねたリシャンの髪の房を揺らす。

 微かに雪は降っていたが、ここでは積る事はない。

 大きな給水タンクが軋めいて時折耳ざわりな音を立てていた。

「クロウ、付近にテロリストの糸はある?」

 =今の所は見当たりません。‥‥最も、彼らの技術が我々よりも上だった場合、それも定かではありませんが=

「珍しく殊勝な言い方じゃない。いつもなら、統合政府管理局の技術に叶う者などいない!‥‥なんて息巻いてる癖に」

 =そんな事、言ってましたか?=

「‥‥‥‥フフ」

 とぼけるクロウを横眼にリシャンは笑った。

 =確かにこのビルはたくさんのAIがいて、標的になる可能性もなくもないですが、ここよりも人だかりのある場所は他にもあります=

「‥‥今はそうかもね。とにかく、今は邪魔されたくないの、しっかり見張っててよ」

 =‥‥全く。確かにムラシタヒビカが大成する可能性もあります。しかし、合理的に考えれば、今現在、彼女よりも成功している者がたくさんいて、その者に協力を仰いだ方が良かったのでは?=

「いいの、これは私の贔屓なんだから」

 リシャンは粉雪舞う、コンクリの大地の上で、一人笑い続ける。





 エレベーターを降りた先、しばらく待合室みたいな大きな部屋で待たされてから、名前を呼ばれて奥の部屋へと進んだ。

「‥‥‥‥」

 そこに待っていたのは、コの形で並べられた机と、そこに座ってる偉そうな人達。皆、笑ってる人はいなくて、ただ私の顔をじっと観察してる。

「村下灯火華さん。どうぞ座ってください」

「はい」

「ではこれから‥‥」

 そうしてオーディション審査が始まった。

 自己紹介の後、歌ったり、踊ったり‥‥緊張しすぎて頭が真っ白になる寸前‥‥の所で、ハっと意識が元に戻る。その繰り返し。

 とにかく一生懸命。全力でやって、それで駄目なら仕方がないじゃん。

 うううん、駄目なんて事はない。

 私は‥‥あの病室の世界から抜け出したんだから。

 だから誰よりも羽ばたいていけるはず。

「はい、お疲れ様でした。結果は後日、お知らせします」

「ありがとうございます」

 頭をさげて部屋から出る。入れ違いに別のコが中に入っていく。顔を見るとやっぱり緊張しているようだ。

「はあ、疲れた‥‥」

 芸能事務所のビルから外に出た途端、私は両手を限界まで広げて伸びをする。中は暖房が効いててホカホカだったけど、外に出た途端、ひんやりとした空気が背筋をピンとさせてくる。

「‥‥雪」

 灰色の空から小さな白いものがゆっくりと下りてくる。風は全くない。落ちた雪はアスファルトに落ちてしばらくすると溶けて消えていった。

「お疲れさま」

「!」

 真後ろから急に声をかけられて私は首をすぼめた。

 何でこの人はいつも死角から現れるかな‥‥。

「うまくいったでしょ」

 リシャンは私が言う前に、そう決めつけてきた。

「‥‥どうかな」

「あなたは大丈夫」

「‥‥どうしてそう思うの?」

「背負ってきた重みが違うから」

「え?」

「これからは芸能事務所の方針に従っていけばそれでOK。基礎が既に出来てるあなたは、他のコ立より頭一つも二つも抜きんでてるから、すぐに上がっていける」

「‥‥‥‥うん」

「じゃあね」

 リシャンは手をひらひらさせて背を向けて歩いていこうとした。

「ま、待って!」

「何?」

 振り向いた彼女の表情はいつもの通り、白面で静かな笑みを浮かべてる。

「じゃあ、リシャンは‥‥もう‥‥いなくなるの?」

「そうね。これでガイドの仕事は終わり。あとはあなたの夢を叶えるだけ。良かったわね」

 夢が‥‥叶う‥‥まだ先の事だと思うけど。不思議と彼女がそう断言してくると、絶対にそうだと思ってしまう。

「その‥‥」

「まだ何かあるの?」

「えっと‥‥あ、そうだ! お祝いに、何処かに食べに行きませんか?」

「‥‥‥‥」

 彼女は漆黒の瞳で私を見てる。言ってみて思ったけど、リシャンは食べたりするんだろうか。今までどうだったかと言うと、飲み食いしてる所を見た時がない。

「‥‥フフ」

 こらえきれなかったかの様に笑った。

「じゃあ、何処かに行きましょうか。何処がいい?」

「それは‥‥えっと‥‥」

「全く、面倒臭い!」

「え?‥‥うわ!」

 リシャンに手を掴まれ、驚く暇もなく私は別の場所に立っていた。

「‥‥どういう‥‥」

「‥‥さ、入って」

 明らかに今までいた場所とは違う。ニホン‥‥という国とは違う、別の国に連れていかれたみたい。

 中に入ると、照明が全部ロウソクの灯りで、上にはいくつものシャンデリア、壁とテーブルには燭台が置かれていて、かなり明るい。石造りの床の上には白いテーブルクロスがかけられた四人がけの木製の丸テーブルが十ぐらい置いてある。暖炉から漏れてくる穏やかな温かさで、広い室内は満たされていた。

「ビアブニィ、ブ、ベゼラ‥‥」

 黒い服を着たウエイターにみたいな人が、話しかけてきたけど、意味が分からない。

「エヴェク、ディ、ペソネス」

 リシャンは自然に答えてる。私が戸惑ってる顔をしてたのを見た彼女は指をパチンと鳴らした。

「ようこそ、いらっしゃいました」

 ウエイターの人の言葉が、今度は分かった。

 上着を脱いで渡すと、席に案内された。

「今日は特別。さあ、何でも頼んで。‥‥と、言っても、体形が変わるのは駄目だからね」

「‥‥う‥‥うん」

 食べて良いような悪いような‥‥微妙な感じ。

 メニューを開いたけど、何が書いてあるかさっぱり分からない。

「じゃあ、私が適当に頼むから」

 リシャンは係の人を呼んだ。

 そしてメニューに指さす。

「ここから‥‥この辺まで」

「かしこまりました」

「‥‥‥‥」

 今、何だか凄い頼み方してなかった?

 そんな私の思惑は当たってたみたいで、次から次へと料理が運ばれてくる。

 最初は皿だけ大きくて、実際は中央にちょこっと盛り付けてある程度。量は大した事がないのかと思ってたけど。絶え間なく運ばれてくる料理に、私は呆れるを通り越して、笑いが出てくる。

 お肉、お魚‥‥良く分からないもの‥‥とにかくいっぱい食べた。

 現実の世界だと、もう口には出来ないものばかり。特に私はずっと流動食だったから感動も一層強い。

「これからの躍進に‥‥乾杯!」

 リシャンは悪戯っぽい表情で、グラスを渡してきた。

 中に入ってるのは紫色の液体。

「‥‥これって‥」

「お酒。ワインって言うらしいよ」

「アルコールって禁止されてるんじゃ‥‥」

「ここは仮想世界。だからいいじゃない」

「‥‥‥‥」

 何だか騙されたような気がするけど、ちょっとだけ口にする。

 苦い‥‥けど、後から甘さが迫ってくる感じ。美味しい‥‥のかな? よく分からない。

 そうやって何杯か飲んでると‥‥気分が良くなってきたような‥‥。

 今なら聞けるかもしれない。

 ずっと聞きたかった事。

「その‥‥リシャンはどうしてそこまで私を助けてくれたの?」

「私は何もしてない。努力したのはヒビカ‥‥あなた自身」

「‥‥それにしては」

 ただの管理局の役人にしては面倒見が良すぎる。

「私がそうしたかったから。理由があるとしたら、それだけ」

「‥‥‥‥」

 これ以上聞いても、多分何も答えてはくれないと思う。

「これで‥‥リシャンとはお別れ?」

「一旦はね」

「‥‥‥‥」

「でも、あなたが自分の夢を叶えて、本物のアイドル‥‥スターになったら、その時はまた会えると思う」

「‥‥本物の‥‥スター」

「そう。だから頑張ってね。期待してる」

「はい!‥‥絶対に!‥‥絶対に夢を叶えてみせます!」

「ふふ」

 リシャンは笑って空になった私のグラスにワインを注いだ。

 明日からは今日食べた分のカロリーを消費する為に、自主トレをしなければならない。そう考えると憂鬱だけど‥‥。

「初めてにしては、良い飲みっぷりね」

「うん‥‥あははは!、だって私は未来のスターだから!」

「もしかして酔ってる?」

 リシャンはまた注いできた。

 今だけは、彼女との一時を楽しもうと思う。





 彼女が芸能プロダクションのオーディションに合格してから半年が経った。

 最初は目立たなかった彼女‥‥村下灯火華は、天性の歌声と恵まれた容姿から、たちまちのうちにスターへの道を駆け上っていった。

 テレビなどでは連日、彼女の話題が上がり、話題の映画のヒロインに抜擢されると、その地位はさらに上昇した。

 天使の歌声‥‥そのキャッチフレーズを聞かない日はないほどで、今や他のアイドル達とは一線を画す存在となっている。若い男性のみならず女性も、彼女を理想像として絶大な人気を得ていた。

 =驚きましたね。まさかこうも早く、結果が出るとは=

「だから言ったでしょ。あのコは背負ってるもの違うんだって」

 かなりの人数が収容できるコンサートホールのステージ上で、彼女は一人、歌っている。

 耳を撫でていく彼女の声は、マスコミが報道している通り、聞く人の心を癒してくれる。

 リシャンとクロウはホールの真上‥‥海底のマリンスノーのように静かに粉雪舞う空に浮かんで、その声に耳を傾けていた。

 =現実の彼女の身体の状態は悪化しています。そもそも仮想世界への接続は体力を使うので、その点を考慮して認可が出なかった経緯もあります。切り上げた方がいいかと思いますが=

「それは彼女は最初から分かって決めた事。命の使い方を自分で決めただけの話。私達がとやかく言う筋合いの話じゃないんじゃない?」

 =んー‥‥それは‥‥まあ‥‥そうなんですが‥‥=

 クロウは言葉を濁した。

 =しかし現れませんね=

 話題を変えた。

「‥‥まだまだテロリスト七十一番にとって、これぐらいの人数は眼中にないのかもね」

 リシャンは鎌を持つ手を見つめる。

「順調に、ヒビカのライブの箱は大きくなってきて‥‥恐らく、次あたりから‥‥」

 ヒビカは自分の力でスターになった。そこにプログラム的改変は見当たらない事から、テロリストも管理局が関わっている事には気づいていないと、リシャンは踏んでいた。

 もちろん、大勢のAIを壊滅させるテロリスト七十一の目的は、管理局が掴んでいる事を知っているだろう。それなりに用心はしてくるはずではあるが。

 =危険な事には変わりはないですが‥‥=

「もちろん、全力で阻止する。邪魔をするようならタダじゃおかない。それで‥‥向こうの捕獲体勢はちゃんと出来てるんでしょうね」

 =もちろん、前回のように逃げられるような事はありません。万全で向かいます=

「管理局の技術も怪しいものね」

 =‥‥‥‥=

 いつもとは逆にクロウへ嫌味の言葉を放った。




 都民ホールでのライブは大成功だった。

 終わった時、私はたくさんの人に握手を求められた。

「ヒビカちゃん、お疲れ様―、次のライブ決まったの、ねえ、何処だと思う?」

「何処ですか?」

 マネージャーの佐野さんは男性なのに、仕草も言葉も女っぽい。

「聞いて驚かないで頂戴! 何と首都ドーム!」

「‥‥‥‥」

 都民ホールも大きかったけど、それでも収容人数、千人。それと比べて首都ドームは六万人‥‥規模が‥‥桁が違う。考えるだけで何だか頭がクラクラしてきた。

「あ、大丈夫ぅ、ヒビカちゃん? 忙しいのは分かるけど、体も大事にするのよ。今や、このプロダクションはヒビカちゃんでもってるようなものだからね」

「あはは‥‥善処します」

 もう笑って誤魔化すしかない。

 そして、いよいよ‥‥ドームでのライブ。

 ついに来る。

 夢に見た、自分の歌をたくさんの人に聞いてもらう事‥‥それが手の届く距離まで来た。

 それで何かなるわけじゃないけど‥‥でも、リアルで十五歳だった私が、心の底から望んだ夢。それがあったから病院の小さな窓を塗りつぶしてこれたんだ。

 絶対に‥‥絶対に成功させてみせる!

 それが、私の生きた証なんだから!




 ドーム公演が始まるまでの一か月の間、私はリハーサルを何度も繰り返してた。

 それこそ、倒れる寸前まで歌って、踊って‥‥いくら準備をしても、全然足りない。

 もっと‥‥もっと響かせたいから。

 そうやって迎えた当日‥‥。

「まあ、素敵な衣装ねえ」

 佐野さんは、ステージ衣装を見て頬に手を当てて喜んでる(ちょっと気持ち悪いかな)。

 メイクさんに化粧をされてから改めて、今、着てる衣装を見渡す。

 何て言うか‥‥華やかなんだけど、可愛い感じ。

 白色を基調として、部分的にピンクとか青のアクセントが入ってる。短い白のフレアスカートは動くたびにふんわりと揺れる。

 肩とかデコルテは出ていて、ちょっと大胆。腰にはピンク色の大きな蝶々結びのリボン。手袋もブーツもピンク色。大人っぽいけど、可愛い‥‥みたいな。

 待合室で待ってる。ここには誰もいないけど、廊下を渡った先、その向こうには、たくさんの人が私の歌を聞きにここまで来てる(チケットは完売したとか。つまりお客さんは六万人いる!)。

 怖いけど‥‥足が震えてるけど‥‥それ以上に心が震えてる。

 逃げたりなんかは絶対にしない!

 私は‥‥私は今日、この日に為に生まれてきたんだと思うから。

 最後まで、歌いきってみせる!

「ヒビカちゃーん! 時間よぉ!」

「はい!」

 手を握りしめて立ち上がる。

 会場へ続くこの廊下は花道。

 この先に‥‥私の望んだ世界がある!





「久しぶりじゃない?」

 首都ドームの膨らんだ屋根の上、死神の鎌を持った着物の少女‥‥リシャンはその中央に立っている男に、そう声をかけた。

 絶え間なく降り続く真冬の空‥‥そこにいる者は全て尋常な者ではない。

「何も起こらないみたいね」

「‥‥あなたもいい加減しつこいですね」

 スーツ姿の男‥‥テロリスト七十一は舌打ちする。

「それはこっちの台詞」

 リシャンは鎌を向けた。刃が雲の切れ間から見えた月の光を反射して碧く輝く。それと当時に足元から歓声が沸き起こった。

 ライブが始まったようだ。

 演奏の音と、彼女の歌声が天幕を通して聞こえてくる。

「偶然、このドームに隕石が落ちてくる‥‥なんておかしなプログラムを組み入れたみたいだけど‥‥それは事前に阻止させてもらったから。残念ね」

 そう言うと、男はため息をついた。

「‥‥あなたは組織の粛清対象になるのが決定しました。いかに政府のエージェントであっても、我が組織‥‥ヴァイアスからは逃げられはしませんので」

「そんな脅しが効くと思ってるの?」

 組織の名を言うという事は、ここで確実にしとめる算段があるようだ。

「いえいえ、そんな事は微塵も考えてませんよ」

 七十一番は、胸ポケットから畳まれていた白いハンカチを出した。

「第一目標は失敗しましたので、次の目標に移りたいと思います」

 広げられたハンカチはたちまち四方へと広がっていく。

「‥‥‥‥」

 歌のサビの部分なのか、伴奏の音が振動となって激しく屋根を揺らした。

「では‥‥」

 ハンカチは宙の半分近くまで広がった。そしてそのままリシャンの方に倒れていく。

「‥‥‥‥」

 ドームの屋根とハンカチの布で挟まれ、布地に人型が浮かび上がった。

「ここで粛清されなさい」

 無数の剣が宙から現れ、切っ先が身動きの出来ないリシャンに向けられる。

 男が腕を振り下ろすと、剣は一斉にリシャンに向かっていく。

 彼女のいる場所は突き刺さった剣の山へと変わった。





「ありがとう!」

 何曲か歌い終わった私は、視界一杯に広がっている観客の光に向けて手を振って、感謝の言葉を大声で返したの。

 揺れてる青白いペンライトの海。そこからたまにきこえてくる、私の名前を叫ぶ声。

 一階席、二階席、三階席‥‥あそこにいる全ての人が、私の歌を聞いてくれてる。

 声援が波のように私を包み込んでくる。

 手を振ると、そっちの方向にいた人達から拍手の合唱‥‥。

 それは十五歳だった私が見た、憧れと同じ。

 幸せで‥‥体が溶けそう。

 今日、この日の為に私は、あの病室で時を過ごしてたんだ。

 だから、私を蝕んだ病気さえ、今は感謝している。

 どんな辛かった日々も、その積み重ねで今の私があるんだから‥‥。

「それでは、いよいよ最後になりました! この歌は、私が作詞。作曲した初めての歌です」

 いいぞー‥‥の声が聞こえてきたので、そっちの方向に手を振る。

「それでは、聞いてください‥‥」

 大きく息を吸い込む。

「命の使い方」

 そう言うと、歓声で迎えられた。





「‥‥それで?」

 剣が突き刺さっていた場所とは別の場所から声が響き、テロリストの男はハっとしてその方向に顔を向けた。

「く!」

 何処から出したのか、短剣をリシャンに投げた。

 全く動かないリシャンの胸に当たった短剣は、キン‥‥という、金属の硬質な音を響かせ、吹雪の空に消えて行った。

「他には?」

「‥‥‥‥」

 男はその場から飛んで逃げようとしたが、何処に行っても透明な壁に阻まれた。

「くそ! なんでログアウト出来ないんだ!」

「相変わらず、テロリストって下品ね」

 ドームの天幕の上を、鎌を携えてゆっくりと男の方へと歩いていく。

「まあいいさ。どうせお前達、管理局は俺の居所を突き止める事なんて出来やしないんだから」

「奇遇ね。私もそう思うの」

 鎌の刃が青から赤色へと変わった。

「おい‥‥何をするつもりだ?」

「‥‥‥‥」

 刃を男の首にかけた。

「自首する! そうだ! 司法取引しよう。組織の情報を管理局に全て教える! そうすれば、お前だって‥‥」

「私はね‥‥」

「‥‥‥‥」

「あなたみたいな人を見てると‥‥虫唾が走る!」

「がはっ!」

 鎌を一気に引く。

 男の首は孤高の空へと舞い上がっていった。




 もう何回アンコールに答えただろうか。

 もうだめ‥‥こんなに疲れたのはリシャンのしごき以来。

 ステージから降りて廊下に入った途端、ふらふらとベンチに腰を下ろした。

 佐野さんが走ってきた。

「もうー、ファンの人達が凄くて。あれじゃ、一晩中アンコールさせられちゃうから、灯火華ちゃんは、裏口から出た方がいいと思うわよ」

「あはは‥‥」

 もう笑顔さえ作るのが面倒臭い。

「でも、最後の歌。良かったわー。何度もリハで聞いてたけど、私、感動して泣けてきちゃった」

「ありがとうございます」

 佐野さんだけじゃなくて、他の人にもそう伝わってくれたなら、もう何も言う事はない。

「じゃ、出口はあっちから、私はここでファンをさばいてるからね」

「はい、よろしくお願いします」

 頭を下げて何とか立ち上がった。

 ステージ衣装のままでは帰れないので控室に入る。

 そこの部屋に、メイクする時に座る椅子があったので、私は座り込んだ。

「‥‥‥‥眠い」

 何でこんなにぼーっとしてるんだろう。

 早く帰って‥‥帰って‥‥それで、どうするの?

 “お疲れ様”

「‥‥‥‥」

 どこかで聞いたような、懐かしい声に、眠りの世界の住人になりかけてた私は、元に戻る。

「‥‥‥あれ‥」

 薄紫色の着物と、両脇ダンゴで結った髪の少女が、そこに立ってて、笑って私を見てる。

「リシャン‥‥来てくれたんだ」

「約束だしね」

 リシャンは私の隣に座った。

「夢が叶ったようね。おめでとう」

「‥‥ありがとう」

 ごく自然にリシャンの手を握る。彼女は何も言わずに握り返してくれた。

 暖房の切れた冷たい控室が、彼女の体温だけで温かく感じる。

「私‥‥やりきったよ」

「そうね」

「やりたい事‥‥やった‥‥これが多分‥‥私が‥‥意味‥‥」

「‥‥‥‥」

 あれ‥‥会ったら色々と話したい事があったのに‥‥言葉が出てこないよ。

 でも、最後にこれだけ‥‥。

「‥‥ありが‥‥とう」

 何とか言えた。





 リシャンはリンクの切れたアバターの少女の手を握ったまま、しばらく彼女の顔を見つめていた。

 =リシャン=

 鏡の奥からクロウが姿を見せる。

 =たった今、ヒビカ、ムラシタが死去したと連絡がありました=

「‥‥‥‥」

 強く握りしめられていた手を離し、両手を組ませた。

「‥‥お疲れさまでした」

 手の平を上にする。彼女のアバターは光の粒へと還元され、リシャンの手の平の中へと消えていった。

「‥‥‥‥」

 控室の天井を突き抜け、幾つかの部屋を通り抜けて、さっきまでいたドームの上まで戻る。

 四方の出入り口からは、ライブを見終わった観客達が、一斉に帰宅している最中だった。人混みの列が道に太い光を作っている。

 =彼女の代わりのAIを作成中です。これで歪みはなくなるでしょう=

「‥‥そうね」

 リシャンはそれだけ答えて、ただじっと人の列を見つめている。

 =やはり身体に無理をかけすぎたようですね。現実世界でなら、もう十年は安泰だったと思うのですが。彼女もそれは知っていたはずなのですが=

「自分の命の使い方を、彼女は選んだだけ。生まれてきた意味を見つけたかった‥‥」

 =‥‥‥‥=

 クロウは黙ってしまった。

「だから彼女は幸せのままいったのよ」

 =‥‥なるほど‥‥=

 夜が更けてきて、風の勢いが増してきた。吹雪となってリシャンの着物と髪を激しく揺らす。そうしてる間に帰宅の人の流れもいつしか消えていた。

 =‥‥その割に‥‥気落ちしてるように見えるのですが‥‥=

「私が? そんなわけないでしょ?」

 リシャンはフン‥‥と、鼻を鳴らした。

 鎌を出して回転させる。

「さあ、次の任務は何?‥‥皆、私が処理してあげる!」

 =それは困るんですが=

「ふふ」

 リシャンはいつものように笑みを浮かべた。



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