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第二話 奇跡の定義

「‥‥‥‥」

 一人の少女が高校の屋上に立って、フェンス越しに登校してくる学生達を眺めていた。

 彼女の着ているのは、薄紫色の着物。金色の帯と赤い腰紐が目に付く。髪は脇の左右を団子状に結っており、耳の脇から胸元にかけて長い黒髪を垂らしている。学校の生徒とはとても思えないようない格好だ。

 だが、最も彼女が異質に見えるのは、手に持っている大きな鎌だ。本来は草を刈る道具でしかないはずだが、その刃は見る者の心を委縮させてしまう程に煌めいている。

「ねえ、クロウ」

 =なんでしょう?=

 フェンスにとまっていた一羽のカラスが言葉を返した。

「わざわざ潜入する必要があるの?」

 =リシャン、前も言った通り、この学校では生徒の行方不明が続出しています。既に六人‥‥これは看過できない数字です=

「失踪事件なら、この仮想世界の司法機関が調査するでしょ? むやみに干渉するのは世界の歪みの原因になるから、そこは任せた方がいいと思うけど?」

 =ただの事件なら、ただの行方不明として捜査されるかもしれません。ですが、問題は、その失踪した生徒の存在そのものが消えているという所です=

「バグの可能性は?」

 =何度か調査しましたが、プログラムには何の問題もありませんでした。あとは現地に潜入して理由を調べるしかありません=

「‥‥‥‥」

 リシャンは遠くの空に顔を向けたまま目を細める。

 正常なのに異常が発生している。本当にそんな事態になっているのなら、そのような巧妙な仕掛けが可能な存在‥‥仮想世界反対派のテロリストの存在が考えられる。

 =しかし、テロリストが介入した糸口も見つかっていません=

 リシャンの思惑を読んだように、クロウは説明を続ける。

「‥‥そうとう手練れのテロリストなのか‥‥」

 =その辺の調査と対処が、今回の任務です。修復不可能なら、一帯をリセットするしかなくなりますので‥‥=

「‥‥それはそれで歪みが起こるかもね‥‥仕方ない‥‥」

 リシャンは鎌から手を離した。

 とたんに鎌は宙の中に溶け込んで消えていった。

 =あくまで、調査が主体なので目立つような事はしないでください=

「彼らのストーリーには干渉しない」

 リシャンは煩いといわんばかりに鼻を鳴らした。

「‥‥とりあえず、アバター達に話を聞いてみましょうか」

 コツコツ‥‥と、小さな足音を立てて屋上への出入り口の扉に手をかける。施錠されているはずのドアは何もないように開いた。





 この斜めの角度がいい‥‥。

 今は授業中‥‥でも私は先生の話はそっちのけで、斜め前の席の柳瀬君をじっと見てる。

 彼は私と同級生。でも彼は私の憧れ。美術部の彼は放課後に一人で絵を描いている。一度だけ廊下からそんな彼を見てしまった。

 筆を流す真剣な彼の眼差し。まわりから漂ってくるピンと張り詰めた冬の早朝のような空気。

 ああ、こんなに真剣に、真っ直ぐな人がいるんだなって‥‥その時から、ずっと彼の事が頭から離れない。

 勇気を出して一度だけ話しかけた事があったけど、何を話したのか覚えていない。

『何を描いてるのって聞いてキャンバスを覗こうとしたけど』

『あ、いや、まだ練習中だから』

 ‥‥と、言って、すぐに隠されてしまった。

 でも、その時、かけられた布の端から、女性の姿がチラっと見えた。

 見えたのは、ほんの一瞬だったけど‥‥とても綺麗な人だったと思う。

 柳瀬君が見つめる先には、いつもその女性がいる‥‥彼がそこまで思う人を見てみたい。

 でも私はこうして見ているだけ、いつか私は‥‥。

「‥‥‥‥」

 そんな事ばかり堂々巡りに考えている間に授業が終わって、次はホームルーム。

 何だか最近は時間が経つのが早い気がする。まだ一年だけど、こんな調子で二年になって三年になって‥‥あっと言う間に卒業して‥‥そうなったら、もう柳瀬君とは会えなくなってしまう。

 告白する? そんなものは多分意味がない。

 彼が見つめるのは絵の中の女性だけ。

 でも‥‥少しでも可能性があるなら‥‥。

 “では、転校生を紹介する ”

「‥‥‥‥」

 担任の声でハっと意識が自分に戻ってくる。

「明日から、このクラスで一緒に勉強する事になった、遠野楪さんだ」

 紹介されて、担任の横に立っていた一人の少女が頭をさげた。

「‥‥トオノユズリハです。よろしくお願いします」

 他に何も言うという事もなく、彼女はまた頭をさげ、再び顔をあげた。

「‥‥‥‥」

 彼女を見ていると何だか‥‥妙な感覚になる。

 高校一年にしては、外見は明らかに幼い感じ。中学生ぐらい? それとは反対に大人びた雰囲気がある。着ているものはもちろん制服。この学校は今ではあまり見られなくなったセーラー服。全体的に赤を基調としており、そこに襟や袖に白のラインが入っている。それは私が今、着ているものと同じもの。

 そうか色が白すぎなのか‥‥。

 私はそれで納得した。

 袖から伸びた腕、膝から見える脚も眩しい程に白い。

 透き通るような白い肌との比較で、目じりの紅潮は紅のアイラインでも引いているみたいに見える。それに何処までも黒い瞳は、見ていると吸い込まれそうなほど‥‥。

 普段なら転校生が来ると騒ぎたてる周りの男子生徒達は、なぜか黙ったまま。

「!」

 私は柳瀬君を見たの。

 彼は‥‥じっと、遠野さんを見てる。

 その眼差しは‥‥絵を描いてるときのあの表情と同じ。

「‥‥‥‥」

 私は‥‥彼女をじっと見つめた。





 初夏という事もあり、陽射しはまだ強く、補導のアスファルトを照らし出す。街路樹の葉が、時々行き過ぎる車の風に揺らされていた。

 リシャンは下校中の道を歩いていく。徒歩で向かうその先には、リシャン‥‥遠野ユズリハの住むマンションがある。最も、それはつい先日まで存在しなかったマンションではあったが。

 それは遠野楪という転校生という存在も同じだ。

「全て架空‥‥リアルの私の身体は施設のカプセルの中で眠ってて、ここにいない。‥‥それでも意識はここにある‥‥。ふふ‥‥どっちが本物と言えるのかしらね」

 =何か言いましたか?=

「別に♪」

 リシャンはいつになく機嫌の良い口調で答える。

 =全く‥‥=

 それとは対照的にクロウは少し不機嫌そうに見える。不機嫌というよりも呆れていると言った方が近いかもしれない。

 =あれほと、目立たないように言っておいたのに、注目されすぎです。あれではテロリストに警戒されてしまいますよ=

「別に目立つ事は何もしていないけど?」

 リシャンからしてみれば地味にクラスで自己紹介して帰ってきただけだった。それでも、認識阻害を解く事による周囲に与えるインパクトは絶大である。その事を当のリシャン本人は理解しているのか、していないのか、それともわざとか‥‥恐らく本人にも分かっていない。

 クロウはため息をついた。

「ふふ‥‥私の外見は年月の変化を予測して作られているわけでしょ?‥‥つまり、素のままって事。本物と同じって事」

 =それが気分が浮ついてる原因ですか?=

「さあね」

 そう言いながらもリシャンは笑みを浮かべる。

 =それより気づいていますか?

「‥‥もちろん」

 学校を出てから、後ろからつけられていた。本部にアクセスして何者かを照合する事も出来たが、尾行者がテロリストの使うアバターであった場合、そのままログアウトされるかもしれない。油断させる為に気づかないフリを続けていた。

 =尾行にしてはかなりお粗末ですね。最低限の遮蔽もしていないようですし。素人でしょうか=

「そう思わせるのが手かもしれない。或いは、そう思わせて深読みさせて、混乱させているのか‥‥」

 =‥‥‥‥=

 クロウは黙ってしまった。局の通信端末を離れている時は、クロウのアバターはただのカラスになる。今はただ足元で羽の繕いをしている。

「‥‥‥‥」

 リシャンはそんなクロウを置いて歩きだした。

 後ろに気配を感じつつも、何もしかけてくる様子はない。

 そのまま何事もなく、十分程で、マンションに着いた。

「‥‥‥‥」

 正面にパスワード入力で開閉する扉がある。リシャンが番号を入れるとドアは自動で開いた。最も、このマンションはリシャン以外の住人はいない。パスワードというものも存在しない。

 中に入った途端、気配は消えた。

 追跡者の狙いは住所をつきとめる事だったのか‥‥一瞬だけ、そう考えたが、それはあり得ない。テロリストであればその程度の情報、こんな事をせずとも瞬間に入手できる。それとも、さっき言った通り、そう思わせる事が狙いなのか‥‥。

「‥‥‥ふふ‥」

 リシャンは笑って自室の部屋の扉を開けた。奥は何処までも暗い‥‥と、言うよりは真っ暗で何もない無の空間が広がっている。

「書き割りより酷い‥‥手抜き過ぎるわね」

 その無の中へ、歩いていく。そして音もなく吸い込まれていった。





 翌日、登校したリシャンは、隣の席が空いている事に気が付く。

 昨日までは確かに女性徒のアバターがいた。それは確認している。

「隣にいたコはどうしたの?」

 前の席にいた男子に聞いた。

「え? そこはずっと空いてたけど」

「‥‥そう?」

「そうだよ」

「でも不自然に思わない? このクラスだけ、女子の数が極端に少ないのは?」

「それも少子化の影響なんじゃないかな」

「‥‥‥‥」

 それ以上、聞く事はしなかった。聞いても無駄なのは分かっている。

 行方不明になったわけでもなく、初めからいなかったという認識なら、特段、彼が気に掛ける事もない。

 この事は、後でクロウに調べさせればいい。とは言っても、前と同じで原因不明と言われるに違いないが。

「‥‥それにしても‥‥」

 リシャンは空いた隣の席を睨む。

 外部からの進入が全く検知出来ないとは、相手はどれほどの手腕を持っているのだろうか。



 そうしてるうちに授業が始まる。

 全員が席についているはずだが、あちこちに空席が目立つ。データごと消えたのは全て女子生徒だ。リシャン以外に女子は五人しかいない。次に消えるのもこの五人の誰かなのだろうか。それとも‥‥。

「‥‥ふふ」

 意外に目立つ事は有効だったかもしれないと、リシャンはほくそ笑む。




 何も起こらない学校での時間は退屈以外の何者でもない。

 そんな時間をやっとの事で乗り越えて放課後を迎える。

 終了を告げるサイレンが鳴り、部活のある生徒以外は一斉に下校を始める。

 リシャンもその流れの一つになる、

 その中では生徒達の笑い声、騒がしい会話が渦の様に周りに満ちる。

 ここはリアル世界ではとうに過ぎ去った過去。そんな世界の中でこうしている事は、リアル世界の化学技術の結晶だという事を、彼女は知識では理解はしている。だが、リシャン自身はリアルで活動する事が出来ない。

 本来の自分の身体がどうなっているのか‥‥未熟児として捻じれたままなのか、普通に成長しているのか。

 肩にとまったこのカラスに聞いた所で、答えてはくれない。

 =リシャン、歪みが発生しています=

「‥‥‥‥」

 足を止める。

 ここは街路樹の並ぶ住宅街へと続く道。あれだけいたはずの他の生徒は誰もいなくなっている。

「‥‥‥‥いた」

 一人だけ生徒を確認できる。

 反対側の道を歩いているのは、同じクラスの女子生徒。声をかければ届くぐらいの距離にいるはずだが、リシャンには気が付かずにスマートホンという当時流行った携帯デバイスを見ながら歩いている。

「!」

 地響きとともに、アスファルトの地面が割れていく。そこから土埃とともにせり上がってきたのは‥‥女性‥‥背中に翼の生えた白い衣装で身を包んだ天使だった。

 天使は真っ直ぐに女性徒の方に向かっていく。

「クロウ!」

 =周辺への環境データ、及び、AIへのアクセスは見当たりません=

「だったら、あれは何?」

 =不明です=

「役に立たないわね!」

 リシャンは中央分離帯を乗り越えて、謎のアバターと女性徒の方へと走った。

 “GIAAA!”

 天使は奇声を発した、その腕にはいつの間にか鎌を持っており、大きく女性徒に向けて振り下ろそうとしていた。

「な‥‥なに⁉‥‥いやあああ!」

 頭上に突き刺さるその直前、リシャンの鎌が、天使の赤色に光る鎌を弾いた。

 “GI‥‥”

「悪いけど、その道具は私の専用なの‥‥」

 リシャンが振り上げると、天使の鎌も後ろへと弾かれ、大きくよろめく。

 “GII!”

 天使は体勢を立て直して振り下ろす。だが、リシャンは動かない。

 リシャンの頭に刃が当たった瞬間、ガシ‥‥という音が響く。

 確かに命中した。だがリシャンは微動だにせず、ただ笑みを浮かべている。

 “G?”

「だから、無理って事!」

 “UGI‥‥!”

 ヒュン‥‥という風切り音とともに、碧い光が天使の頭上から足下まで真っ直ぐに伸びた。左右二つに分断されそれぞれ両側に倒れるが、地面に着いた瞬間に、光の粒となって消えた。

 何事もなかったかのように、ただ風の音だけが流れていく。

「そのコはどう?」

 倒れている女子生徒の脇にいるクロウに状態を聞いた。

 =無事ですが‥‥それ故に困った問題が発生してしまいますね=

「問題?」

 =彼女は今の事を記憶しているでしょう。事件に発展すれば、大事になります。特例として記憶を改ざんしてなかった事にしても、そうした処置をした事をこの事件の首謀者が知れば、警戒を強めて隠れてしまう事になるでしょう=

「どうすればいいと思う?」

 =背後にいる何者かの目論見通り、彼女の存在を消去するべきだと思います。狙いはクラスの女子のようです。彼女が消えたら、もしかしたら次のターゲットはリシャン‥‥あなたかもしれません。それは好機となります=

「‥‥‥そうね‥」

 碧く点滅する鎌の刃を彼女の胸に突き立てた。

 クロウの言うような事はリシャンにも分かっていた。だが、そのまま彼女を消去する気にもなれなかった。

「‥‥‥‥」

 鎌を引っ込める。

 =リシャン?=

「彼女はここで他の人との関係を全て断たれた。誰も彼女の事を覚えていないし、知らない」

 =‥‥‥‥=

「でも存在は無くならない。通り魔に襲われたショックで他の町へと引っ越した‥‥それから新しい生活が始まる‥‥と、いう事でいいわよね?」

 =全く、面倒な事をまた‥‥二局面の変更が必要になります。複雑な変更をするとデバックが大変なんですが=

「そうね、お願い」

 悪態をつきながらも、クロウは後始末をしっかりとやってくれる。信頼しているわけではなかったが、信用はしていた。

 彼女の身体が光の粒子に包まれて消えていく。そこには何も残ってはいないが、彼女は記憶を持ったまま、別の地域で新しい人生を刻む事になる。

 =問題がまだ残っています。テロリストはあのクラスの女性徒をターゲットにしている可能性が高いですが、その選択基準が不明のままです=

「そうね、だったら直接聞いてみましょう」

 =直接?=

「その辺は聞き取りとか、地味な調査を続けるしかないんじゃない?」

 =地味でお願いしたいものですが‥‥まあ、無理でしょう=

「最近、嫌味のレベルが上がったんじゃない?」

 クロウはカア‥‥と、何度か鳴いて飛び立っていった。





 翌日になり、リシャンは授業中の教室の自分の席から周りを見渡す。

 席がまた一つ空いていており、女子の人数はいよいよ絞られてきている。残っている彼女達は、危機が迫っているかもしれないという事を認識は出来ない。

 英語の授業が終わる。この区域にリアルの人間の精神を移したアバターがいないのにも関わらず、遥かな遠い過去に行われていた学校の授業というものを、AIは忠実に再現している。リシャンは感心しながら授業を聞く‥‥と、言うよりは傍観していた。

 終礼の合図で皆が席を立ち、それから一礼する。次の授業までの束の間の時間、生徒達はそれぞれの意志で好きなように休息を取る。

「‥‥‥‥あの‥‥遠野さん」

 座ったままでいたリシャンは、男子生徒に声をかけられ、顔を上げた。

「‥‥何でしょう?」

「‥‥‥‥」

 リシャンはその生徒を見つめる。彼は男性とは思えない程に線が細い‥‥つまり華奢な感じだ。浮かべている笑みは、その整った顔立ちと相まって、かなり穏やかで優しい印象を受ける。

 もちろん、リシャンはクラス全員の名前や顔などのデータは既に頭に入れている。

 彼の名前は柳瀬幹夫‥‥美術部の一員で、今までに何度も賞を取るほどの絵を描いている。成績はそれほど良くはないが、それは絵を描く為に、一日の時間のほとんどを費やしているからなのだろう。

 絵を描く事以外に興味のない彼が何の用なのだろうか‥‥リシャンはその理由を幾つか考えながら、彼の顔をじっと見つめる。

「あの‥‥実は、僕は美術部の部員で‥‥絵を描いてるんだけど‥‥」

「‥‥‥‥」

「あ、僕の絵は‥‥人物画で‥‥」

「‥‥‥‥」

 リシャンは彼が一通りの説明が終わるまで、話の腰を折らない様に黙っていたが、次第に彼の顔が赤くなっていくのを見て取る事が出来た。

「えっと‥‥あの‥‥」

「‥‥‥‥」

 なぜか焦っているようだ。

「その‥‥君に絵のモデルになってほしいんだ」

「‥‥私が?」

「駄目‥‥かな?」

「どうして私なの?」

 リシャンは目を細めた。これは意地悪な質問だが、敢えてリシャンは聞きたかった。

「それは‥‥何て言うか‥‥」

「‥‥‥‥」

 全く、はっきりしない男だ。リシャンは心の中でため息をつく。

「‥‥遠野さんが‥‥綺麗だから‥‥」

「‥‥‥‥ふふ」

 聞きたい答えが返ってきた。思わず笑い声がもれる。

「別にいいけど」

「そう? 良かった!」

 顔を見ると、心底喜んでいるのが分かる。

「じゃあ、放課後に美術室に来てください!」

「ええ」

 そこまで会話した所で始業のチャイムが鳴る。それぞれバラバラだった生徒達は自分の席へと戻っていく。

「‥‥‥‥」

 黒板の字を見つめながらリシャンは考える。

 もしこれが、背後にいる者のリアクションなら、話は簡単だ。

 柳瀬幹夫に糸をつけて監視すればいい。いつかは網にかかる。それで終わりだ。何れかのタイミングで襲ってくるかもしれないが、それは問題にはならない。彼が事件と関係がないのなら、それはそれで構わない。時間が経てばまた別の反応があるはずだ。

「では、次の問題を‥‥遠野さん、前に出て書いてください」

「はい」

 面倒な‥‥と考えたが、今のこの状況もテロリストが見ている可能性もある。リシャンは立ち上がって、教壇の前まで歩いた。

 ただのアバターに成りすましてはいるが、おかしな事をすればそこから管理局のエージェントである事が露呈するかもしれない。

 今は普通の女子高生。それを心して黒板に向かって回答を書いていく。

「む‥‥」

 ここで疑問が生まれた。普通というのはどういう事なのだろうと。

「‥‥‥‥」

 答えを書こうとしたリシャンの手が止まった。

「先生」

「何ですか?」

「問題文、三段目の式が間違っています」

「ん?」

「この場合は、ここだけ訂正するよりも‥‥」

 リシャンは問題文の数式を全部消して新たに書き直していく。

 静まり返った教室内に、黒板にうちつけるチョークのカツカツ‥‥という音が響く。

「こっちの方が‥‥間延びしていた問題文のこの箇所を省いて‥‥ああ、これで、すっきりしました。あのままだと質題者として頭の程度が疑われましたから‥‥そして答えは‥‥こうですね」

「‥‥‥‥あ、ああ‥‥正解だ」

「‥‥‥‥」

 軽く会釈して席に戻る。

 若干、教師が苛ついているようにも見えるが、目下から不手際を指摘された事からの感想であり、それは予想の範疇にある。つまりこれが普通の対応なのだろうと、リシャンは考えた。

 そのはずなのだが、同格のはずの生徒達に唖然とされている事に疑問を感じてもいる。代弁してやったのに、何がだめだったのか‥‥リシャンには理由が分からない。

 その注目している中に、柳瀬幹夫を確認した。

 彼の表情は他の生徒とは少し違うようだった。

 まだ、彼とテロリストを結び付けるものは何もない。

 約束は今日の放課後、絵のモデルと言っていたが、果たしてそれだけだろうか。

「ふふ‥‥」

 リシャンはほくそ笑む。

 そうして最後の授業が終わる。




「さて、ここからは慎重に‥‥」

 そう呟きつつも、心中では彼がどのような行動を起こすのか、期待しかしていない。

 これから物事が予想より大きく動くかもしれない‥‥そんな時に心が躍るのはリシャンの癖のようなものだ。

 美術室は部室棟の一番奥にある。同じ文化部でも吹奏楽部などの華やかな部活と違い、地味な印象は否めない。一応、記録上は五人が所属している事にはなっているが、その全員が真面目に活動しているとも思えない。

「‥‥‥‥」

 リシャンは部室の扉の前に立った。ドアの窓は光が入らないように暗幕がかけられており、中は見えない。光による作品の劣化を防ぐ意味合いがあるのだろうが、この黒い幕は、まるで来る者を拒んでいるかの様に見える。

「‥‥ふん」

 取手に手をかけると、一気に開いた。

 中は思っていたよりも明るい。

 目に飛び込んできたその光と同時に、油のような匂いが感じられる。

 普段、授業で使うときの机や椅子は脇に片付けられており、中央に少し広い空間が出来ている。そこにイーゼル‥‥絵画用のスタンドがあり、柳瀬幹夫は置いてある絵と向かいあうように座っていた。

「何だ、遠野さんか‥‥びっくりした‥‥」

「ここに来る予定だから驚く事は何もないでしょ?」

「その‥‥突然入ってきたから」

「?」

 ノックして伺うという事をリシャンは知らない。意味が分からず首を傾げるだけだった。

「遠野さん、とりあえず、適当な所に座って」

 言われて近くにあった椅子に座る。

「それで、私は何をしたら良いの?」

「そこにじっと座っててくれればいいよ」

「そう」

 リシャンは近くの椅子に腰を下ろす。柳瀬幹夫がキャンパス越しに対面になる。

 しばらく経ってもなかなか描き始める様子がない。

「そう見られると照れるよ」

「正面を向いてなくていいの?」

「そうだね、ちょっと斜め下ぐらいで」

「‥‥‥‥」

 視線を落とす。そこには幾つかのキャンパスが置いてあった。

「それは、あなたの作品?」

「え?‥‥‥ああ、そうだよ」

「見せてもらってもいい?」

「どうぞ」

 柳瀬幹夫は机の上に一つずつキャンパスを置いていく。

「‥‥‥‥」

 そこに描かれていたのは、制服姿の女子生徒。リシャンが今、着ているこの学校の制服と同じだった。

 まだ下書きで鉛筆画の状態だったが、彼女達の表情は細かく描かれており、それが誰かはすぐに特定出来る。

 全ての絵のモデルは、失踪した‥‥と、言うより存在が消されたクラスメイトの少女達である。その中には、つい昨日、リシャンが救って、他の場所で復帰させた者も含まれていた。

 存在が消えたなら、肖像画が残っているはずがない。

「綺麗なコたちね。彼女たちはどこで?」

「‥‥‥うん‥」

 柳瀬は言葉を詰まらせる。

「僕はその絵を描いた覚えがないんだ」

「じゃあ、このモデルはどうしたの? あなたの想像?」

「いや‥‥想像では描いてないと思う。僕はただ‥‥」

「‥‥‥‥」

 柳瀬は何かを言いかけてやめた。

 嘘を言っているようには見えない。かと言って全てを話してるでもない。

 何れにしても、この絵からして、彼が一連の事件に関与している事は明らかになった。

 どうすれば彼に全てを自供させる事ができるのか‥‥リシャンは自分の中で自問自答する。

 クロウに言って彼の行動や思考のログを取ってもらえば、だいたいは分かる。だが、それで全てを理解する事が出来るとは、リシャンは思ってはいない。

 その表層の裏、もしくは底に、真実はいつも隠されている。

 そう信じて疑わなかった。

 考えている間にも、柳瀬は手を動かしている。キャンパスの上を滑る鉛筆の音が、心地の良いリズムを刻んでいく。

 そうして小一時間も経った頃。

「‥‥違う‥‥こうじゃない‥‥」

 柳瀬の顔が苦渋に歪みだす。

「どうしたの?」

「‥‥‥‥」

 リシャンの問いにも耳を貸さない。あれほど軽快だった鉛筆の音は、今はただ叩きつけるかのように激しいものに変わっていた。

「‥‥‥こんなんじゃ‥」

「‥‥‥‥」 

 立ち上がって彼の描いている絵を覗く。

 そこには俯いて何かを憂いている少女の姿があった。姿はリシャンのようだが、何かが違っている。その違和感の正体は何なのか‥‥。

「違う! 違うんだ!」

 座っていた椅子を後ろにけり倒し、頭を押さえてよろめく。顔は青ざめて視線は定まっていない。

 窓がカタカタと揺れ始めた。

 空間にも影響が出始めている。

「‥‥‥‥」

 あらゆる方面から探っても、このアバター‥‥柳瀬幹夫にアクセスした痕跡は見られない。

 それは即ち‥‥。

 =リシャン!=

 窓ガラスとカーテンをつき受けてクロウが教室に飛び込んできた。硬いはずの窓には水面の様な波紋が広がる。

 =最初からテロリストはいなかったのです! プログラムを歪ませている犯人はそれです! そのアバターこそが‥‥=

「‥‥そうね、ここにはリアル世界からの介入はなかったみたいね‥‥」

 リシャンの体が金色に輝く。目がくらむその光が収まった後は、制服姿の女子生徒の姿はなく、薄紫色の着物を羽織り、大鎌を持った死神の姿になっていた。

「‥‥‥‥」

 その鎌を柳瀬に向ける。

 顔をあげてリシャンを見たが、さほど驚いたようでもなく、ただ茫然としている。

「‥‥‥僕は‥‥どうしたら‥」

 震える手でリシャンの腕をつかんだ。強く握りしめたリシャンの白い腕に痕がつく。

「‥‥‥ふーん‥‥‥」

 向けていた鎌の刃を下げた。

 =リシャン、どうしたのですか? 早く、そのアバターを消去‥‥=

「彼は違うわ」

 =何がですか?=

「人物画を描いてる癖に、他人に対して全く興味がない‥‥だから、私の絵もあんなふうに描いてしまう」

 感じていた違和感の正体を、その子細も説明せずにクロウに言い放つ。

「そんなアバター‥‥‥‥人格が、他人を攻撃する方向に意識が向かうはずがないじゃない」

 =ですが、事件は起きました。彼が犯人でないとするなら誰が‥‥=

「‥‥ふふ‥‥それはすぐに分かるでしょ」

 =なぜです?=

「犯人は‥‥‥‥この彼の姿勢に反対する存在だから」

 リシャンは柳瀬の手を掴み、彼を起こした。

「僕は‥‥会いたいんだ‥‥」

「誰に?」

「‥‥‥‥」

 彼は誰かを描こうとしていた。

 それはもう、彼の近くにはいない誰か。

「クロウ! 彼の今までの生きてきた記録の中で、深く関わってきた女性をあげて」

 =母親、姉、幼稚園と小学校、中学校、高校の同級生、あとは‥‥」

「その中で、今、会えていないものは?」

 =二十七人です=

「彼の意思で会える者と、時間をかければ会う事が出来る者を除外」

 =一人‥‥彼の姉です。姉は彼が小学校に上がる前に消失‥‥死亡しています=

「‥‥‥‥」

 リシャンは彼を抱きしめた。

 その幼い時期に死に別れた姉の記憶は、保持していても意味がないとしてサーバーから削除されたはず。だから、彼にもそれが誰かは分かっていないのかもしれない。だから推測が当たっているかどうかも分からない。

 ただ一つだけ確かな事は、周りを歪めるほどに‥‥人格構成が崩壊するほどに会いたかったその人物は、絵を描く事でしか表現できなかったという事、それだけだ。

「う‥‥う‥‥」

「‥‥‥‥」

 リシャンの腕の中で泣きじゃくるその姿は、高校生ではなく、ただの幼子だ。

 =理由はどうであれ、この世界を狂わせる存在には違いありません。管理局規定により、直ちにそのアバターを消去してください=

「‥‥そうね」

 頭を優しく撫でる。それに呼応するかのように、リシャンに強く抱き着いてきた。

「その前にやる事がある」

 柳瀬の腕を離してリシャンは立ち上がった。

 教室中の窓が割れて吹き飛び、カーテンが激しく靡く。

 “GAA!”

 “GIAA!

 同時に複数の釜を持った天使が室内に飛び込んできた。

 そして一人の少女がただの暗黒になった窓の奥からスっ‥‥と、音もなく姿を現す。

 それはリシャンと柳瀬幹夫と同じクラスの女子。

 ただの普通の女子高生。

 =これは‥‥=

「これこそ、黒幕って事」

 《‥‥許さない》

 少女は口を開く。

 《‥‥柳瀬君の‥‥絵の主人公に‥‥思い人になるのは‥‥この私だけ‥‥》

「だから、先にモデルに選ばれたクラスメイトを無き者にしたって事? バカじゃないの?」

 《‥‥‥‥‥‥》

「他のコが消える事と、彼があなたを選ぶのは別問題」

 リシャンはフフンと鼻を鳴らした。それから柳瀬幹夫を抱きしめる。

「先に選ばれた七人の生徒を消してもあなたは彼に選ばれなかった。それから転校してきた私を選んだ‥‥つまりあなたは‥‥」

 《‥‥そんなはずは!》

「違うと言うなら証明してみせなさいよ!」

 “GIAA!”

「フン!」

 ヒュン‥‥という鎌イタチの風が、リシャンを襲おうとしていた天使たちを二つに切り裂いた。

 リシャンは着物の裾がまくれないほどの速さで、ゆっくりと歩いていく。

 《‥‥私は‥‥ただ‥‥》

 彼女の口が震えている。遠くに倒れている柳瀬をただ見つめていた。

「こんな現象を起こせるなんてね、どれだけ強く思ったの?」

 =ただの思考ルーチンの過負荷によるバグが、他の環境パラメーターに影響を与えただけです=

「そうかもね」

 肯定の言葉を発してはいたが、リシャンは納得してはいなかった。

 いくら負荷をかけても、こうはならない。それをただの偶然と片付けるには浅慮すぎる気がしてならない。

「‥‥‥‥」

 常識では起きない事が起きる事、それは確か別の言葉があった気がする。

 鎌を彼女の首にかける。

「‥‥でも、他のアバターを巻き込む事とそれは別。報いというのを受けなければならない」

 《‥‥ああ‥‥》

「‥‥お休みなさい‥‥」

 赤く輝く刃が、彼女の首を刎ねた。光の粒子が四散してすぐに消えていく。

 “ああああ! そうか!“

「!」

 突然、柳瀬が大声を上げた。

「そうか! わかったぞ! 僕は‥‥僕が求めていたものは!」

 教室中に風が巻き起こる。強風にリシャンは体が激しく揺さぶられる。

 =リシャン!=

「まさか、あなたも‥‥」

「あああ、僕は‥‥僕も‥‥」

 壁が崩れ落ち、空へと舞い上がった。

 巻き起こった竜巻が上空の雲と繋がっている。放課後の時刻。茜色の雲は黄土色へと変っていった。地上まで下りてきた雲が雲海を作る。傾いた日差しが、雲の凹凸に長い影を作った。

 その風景はただの風景には見えない。

「‥‥そうか‥‥これは‥‥絵画の‥‥世界‥‥」

 不自然なほどに大きく感じる太陽から、何かがこっちへと飛んで向かってきている。

 翼の生えた女性‥‥今までの天使とは違い、人の表情をしている。柔らかな笑顔で‥‥柳瀬を目指している。

 彼女は彼の姉だった存在なのだろうか?

「僕は‥‥僕はここだよ!」

 彼もおぼつかない足取りで雲の上を歩いていく。

 =こ、これはもはや、この一帯全域の環境を変えてしまっています。リシャン! 彼を消してください! こんな事が‥‥=

「‥‥‥‥」

 =リシャン!=

「‥‥‥‥」

 雲の隙間から別の天使が何人か現れる。それは既に消去されたはずのクラスの女子生徒達、そしてたった今、リシャンが消したはずの彼女だった。

「これで‥‥やっと‥‥」

 彼女達が伸ばした手を柳瀬は掴んだ。そのまま別の世界へでも消えていきそうな勢いだ。

「行かせない!」

 リシャンは雲の上を駆け抜け、瞬時に柳瀬のすぐ後ろについた。

「あなたは、ここであなたの人生を生きなさい!」

 柳瀬の腕を掴んだが、

「!」

 バシっとリシャンの手は叩かれた。

「‥‥‥‥」

 柳瀬を取り囲むように、ぽっかりと空に開いた雲の穴の中へと消えていく。

 =‥‥‥‥リシャン=

「‥‥‥‥」

 ほんの瞬きするほどの時間だった。その刹那の刻、既に元いた美術部の教室へと戻っている。

 教室の外からざわめく声が聞こえてくる。今あった事は幻ではなく、大勢の人が目撃したこの世界の真実だ。

 =彼は消えました。ですが、存在を多くの人が覚えています。騒ぎをおさめるには相当な時間がかかりそうです=

 クロウはカラスである事を忘れてため息をつく。

「‥‥‥‥」

 リシャンは雲の晴れた空を見つめる。

 いつもと同じ夕焼け。当たり前すぎる光景が広がっている。

 鎌から手を放すと、倒れる前に宙に消えた。

 一歩だけ足をふみだすと、落ちてるガラスの破片が、パキ‥‥と小さな音を立てた。

 美術室の窓は全て割れて、中は酷い有様だ。ここに長居するわけにはいかない。

「彼らの思い‥‥システムの許容を超える意志が、世界のパラメーターを作り替えて、通常ならざる事が起きた‥‥けれど、それはここが仮想世界である事を知っているから、私たちは、そう言えるだけ」

 リシャンは風に黒髪を揺らしながら笑みを浮かべる。

「リアル世界の真実を、その裏舞台を私たちは知らない。同じ事がリアル世界で起こった時、それを何て呼んでいるか知ってる?」

 =‥‥何て言うんですか?=

「人はそれを奇跡と言う」

 フフと笑った。

「だから、そんな日があってもいいんじゃない?」

 =この惨事をですか? いくらこの世界の司法でも誤魔化せませんよ=

 クロウは首を傾げる。

 =それはそれとして‥‥負けましたね‥‥リシャン‥‥=

「何が?」

 =いえ、別に=

「‥‥全く」

 最近はクロウの嫌味がひどい。

 リシャンは足元に視線を落としてフン‥‥と、小さく鼻を鳴らした。

 突然に巻き起こった春の嵐の過ぎ去った夕焼けは、それが奇跡だと言わんばかりに、深紅の絨毯を空に広げていた。



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