2023年2月10日 金曜日 第2週目
朝
朝の会5分前。
平野さん以外の全員が学校に来ていたけど、俺たちの空気は今までにないくらいに暗かった。
平野さんが不合格だったことはみんなも聞いたらしい。
いつもなら明るく話題を振る島田さんも今日ばかりは静かになっていた。
そして、俺たちは明るい会話をすることなく、朝の会のためにそれぞれの席へと戻った。
放課後
平野さんは今日も来ることはなかった。
俺たちはそれぞれにやることがあると言って、全員別々に変えることにした。
まあ、俺の場合は本当なら一緒に帰ってもよかったのだけど、今の雰囲気的にきっと気まずくなるだけだろう。
俺は、月曜日までの課題を誰もいない教室で1人やり始めた。
時刻は午後5時になろうとしていた。
6時間目の授業が終わってからだいたい2時間が過ぎている。
生徒の最終下校時刻の案内が流れた。
俺は、やっていた課題をバッグに詰めると鍵を職員室に返した。
下駄箱で自分の靴をとって校門へと向かうと、そこには知った顔の人物がいた。
「やっときたね」
「奥川さん……」
奥川さんは真剣な表情で校門の横にもたれかかって立っていた。
「ちょっと、これから時間ある?」
俺は、こくりと頷いて2人で歩き始めた。
場所は先週にデートの練習として平野さんと来たカフェだった。
俺は奥川さんに案内されるまま奥の席に座った。
そして、俺はどうしたらいいか分からずに奥川さんの出方を伺った。
「何にする?」
奥川さんのおすすめのカフェということもあって手つきが慣れていた。
対して、俺はここに来るのは2度目だったので、奥川さんと2人でいるということを考えないとしても少し緊張感があった。
「オレンジジュースで」
俺は、少し小さめの声で委縮しているのがまるわかりで答えた。
「おっけい。私はコーヒーにしようかな」
そういうと、奥川さんは店員さんを呼んで2人分の注文を伝えた。
カフェにつくと、すぐに話が始まるかと思えばそういうことはなかった。
自分から誘ったにも関わらず、全く話しかけてこようとしない。
何が目的で俺を呼んだのだろうか。
俺は不思議そうに奥川さんを見つめた。
対して、奥川さんはすごく落ち着いている雰囲気だった。
「ねえ、なんで呼んだと思う?」
やっと、話を始めたかと思えば質問をしてきた。
正直、こっちが聞きたいくらいだ。
ただでさえ、みんなの気持ちが暗いこのタイミングに2人で何の話をするつもりだったのだろうか。
「分からない……」
奥川さんの目はまるで怒っているかのようにも見えた。
少なくても不機嫌なことは確かだった。
でも、こんな態度を取られる心当たりはない。
「何で俺を呼んだの?」
俺はこのままではこの沈黙が終わりそうにないと思って自分から恐る恐る聞いた。
そして、奥川さんははぁと小さなため息をついて正面を向いて話を始めた。
「ねえ、桜ちゃんのことは聞いたよね」
「うん……」
俺はこくりと小さく頷いた。
すると、奥川さんはばっとその場で立ってこっちを向いた。
「なんで優気までめそめそしてるの!こんな時こそ優気がしっかりしないと‼」
この場の雰囲気がガラッと変わった。
「それは……」
奥川さんの言う通りだと思った。
「桜ちゃんのお母さんから聞いたんだけど、桜ちゃん、今1人で自分の部屋に籠っているらしいよ!」
「そうなんだ……」
「それに、病気の件だって……」
「病気……?」
病気の件ってたまに学校を休む先天性の病気ことなのか。
「いや、それは何でもない!とにかく、優気はこのままでいいと思っているの?」
「それは、違う……」
俺は、このままではダメだけど何も行動を起こせていない自分に後ろめたさがあって奥川さんの目から逃げるように返事をした。
でも、奥川さん逃がしたままにするような人じゃなかった。
「こっちを見て!」
俺は、ビシッとした声に一瞬びくっとしながらも奥川さんの目を見た。
すると、奥川さんは今までにない真剣な表情で顔も何だか少し熱くなっていた。
「優気は桜ちゃんのことが心配なんでしょ!」
「うん」
「桜ちゃんのことが大事なんでしょ!」
「うん」
「桜ちゃんのことが好きなんでしょ!」
「うん」
「桜ちゃんのことが大好きなんでしょ‼」
「うん」
俺は、奥川さんに言われたことに対して自分の心の中から声を出して必死に返事をした。
そして、奥川さんは軽く息を吸って俺の目をもう一度しっかりと見た。
「なら、やらないといけないことがあるでしょ‼」
沈黙が訪れる。
このカフェ全体が別世界のようだ。
でも、この空間はいつまでも続かない。
この沈黙は俺が破らないといけない。
ガラッ。
俺が思いっきり椅子を引いた。
そして、財布から千円札を2枚抜いてテーブルの上に勢いよく置いた。
「ありがとう。俺、行かなきゃいけないところがあるから!」
俺はそう言うと、横に置いた荷物をがばっと体いっぱいに抱えて急いでカフェを後にした。
がんばれ。
桜ちゃんを助けてあげられるのは優気だけだから……
夜
あたりはすっかり暗くなっている。
時刻は18時頃だろうか。
俺は、全力で平野さんの家に向かって走っていた。
奥川さんと一緒にいたカフェから止まることなく走り続けている。
あと少しだ。
全身が今にも倒れそうなくらいに悲鳴を上げている。
でも、ここで倒れるわけにはいかない。
俺には伝えないといけないことがあるから。
電話じゃなくて直接会ってしないといけないことがあるから。
俺は残り少しの道のりに対してペースを上げて走りだした。
何とか平野さんの家の前まで来た。
平野さんの家は茶色のマンションでどこにでもある普通なものだ。
そして、俺は中に入ると一階にあるオートロックで平野さんが住んでいる205のボタンを押した。
ピンポーン
静かなエントランスに呼び出し音が響き渡った。
返事がない。
俺はもう一度オートロックのボタンを押した。
ピンポーン
返事が来ない。
居留守を使われているのかな。
俺は、オートロックの横に守衛室があるのを見つけた。
近づいてみると、そこには60歳くらいのおじいさんが座っていた。
「すいません。205の人っていつもこの時間帰っているか分かりますか?」
俺は、何か分かるかと思って聞いてみた。
「あー。205の人ね。いつもこの時間はお母さんと子供でどっか出かけているみたいだよ」
マジか。
「ありがとうございました……」
俺は守衛室の人にお礼を言うと、ゆっくりとマンションの外に出た。
いる場所が分からないなら手の打ちようがない。
足取りが重い。
前を向くことすらできない。
俺は、機械のように一歩ずつ進んだ。
「成実くん……?」
ついに幻聴まで聞こえてきたか。
自嘲気味に笑った。
「成実くん……?」
俺の体の動きが止まる。
残った力をすべて振り絞って前を向いた。
「成美くん……」
「平野さん……」
よかった。
会うことができた。
でも、俺を見た平野さんは一瞬体が強張ったようだ。
ただ、それは俺も同じだった。
走り続けてやっと会うことができた。
けれども、平野さんは俺と目線を合わせてくれない。
まあ、いきなりマンションに来たのだから無理もない話だけど。
平野さんのお母さんらしき人は状況を察したのか先に行っているねとだけ言ってこの場を去った。
そして、2人だけになる。
視界にはすぐ横にあるベンチがあった。
「そこのベンチに座らない?」
そう言うと、俺が座ったのを確認してから平野さんも同じベンチの少し離れたところに座った。
外には何台もの車が行きかっているが、全く耳に入らない。
俺にはこのベンチの中だけが世界のすべてにすら思えるようだった。
でも、このままではいけない。
俺は、今から平野さんを傷つけないといけない。
一つ息をする。
2月の寒い空気が口いっぱいに入って、俺の気持ちを少し落ち着かせてくれたように感じる。
そして、俺は少し声を落として話を始めた。
「ねえ、何で学校に来てないの?」
平野さんは返事をしようとしない。
「みんな心配しているんだよ」
平野さんは下を向いたままだった。
俺は、平野さんがこっちを向かなかったのでベンチを立って平野さんの正面に立った。
覚悟はとっくに決まっている。
きっと、平野さんにはすごく嫌われるだろう。
でも。
それでも、平野さんがこのままでいるのは嫌だ。
俺はもう一度息を吸う。
そして、心と声に力を込めた。
「いつまでくよくよしてるの‼」
平野さんは体をぴくんとして涙を含んだ目で俺を見た。
罪悪感を感じる自分の心を必死に封じて話を続ける。
「いつまでそんなことしているの!受験に落ちたくらいで‼」
「そんなこと……」
平野さんが何か言ったような気がした。
「何?」
それで、俺はさらに強い口調で言った。
「そんなことなんて言わないでよ!こっちだって本気だったんだから!」
平野さんは少し頬をきゅっとさせてやっと口を開いた。
今までにないくらいに怒って泣いていた。
「本気でやってダメだったら落ち込んでもいいじゃん‼」
平野さんは涙で顔を濡らしながら必死に訴えている。
「まだ、受験は終わってないじゃん!」
俺は、さらに勢いを増して話す。
「まだ、受験は終わってない。2月の終わりに公立入試があるじゃん!それで挽回しようよ‼」
「そんなのできないよ……」
「どうして!?」
「こんなに真剣に勉強してダメだったならきっと次も無理に決まってる!」
「そんなことない!」
俺は今までで一番強い声を出した。
「成実くんに何が分かるの‼」
平野さんも今日一番真剣な声と表情だ。
そして、俺は最後の力を振り絞った。
「だって、平野さんの頑張りを3年間見てきたから!」
俺は、平野さんの涙で透き通った目を見た。
そして、平野さんとの3年間の勉強の日々を思い出す。
俺は大きく息を吸って少しの落ち着きを取り戻してから話を始める。
「1年生の時、勉強合宿で隣の席だったね。俺、凄くびっくりしたんだ。勉強のこと聞いたらなんでも答えてくれるし、きっと天才なんだろうなって思った。でも、違った。1年生の終わりに平野さんが休みの時に先生からノートを届けて欲しいって頼まれたことがあったんだ。そこで、平野さんのノートを少しだけ見たんだ。そしたら授業のことだけじゃなくて予習と復習のこともすごくびっしり書いてあってびっくりした」
俺は話を続けた。
「2年生の時、期末テストの勉強って言ってテスト期間に一緒に勉強したよね。その時、もうすでに平野さんはテスト受けられるんじゃないかってくらい勉強していたこと覚えている?平野さんにとっては当たり前のことなんだろうけど、俺は自分の努力の少なさに少し反省をしたんだ」
平野さんは地面を向きながらゆっくりと頷いていた。
俺は、力を出して話を続ける。
「3年生の時、平野さんが私立と公立のどっちも県内でトップの高校を受けるって聞いた時、生意気かもしれないけど、俺はやっぱりなって思ったんだ。だって、平野さんの努力を見てきたから。そして、受験が近くなると今まで以上に頑張っている平野さんを見て、俺ももっと勉強しなくちゃって思えた。もっと、努力しないと平野さんとこのまま一緒に居られないような気がして」
俺は、さらに話を続ける。
「そして、平野さんが受験に落ちたって聞いても今までの平野さんへの見方は変わらなかった。そんな、私立受験の合否1つで平野さんの3年間を否定していいはずがない。きっと、平野さんにはもっと良い学校があるってことだと思ったんだ」
ゆっくりと深呼吸をして俺が伝えたい最後の言葉を話す。
「だから、平野さんの3年間に比べたら私立受験に落ちたことなんて些細なことなんだ!今までの自分の努力を思い出して‼」
沈黙の空間が訪れる。
俺がひとしきり言い終えたが、平野さんは俯いたままだ。
この後どうしようか。
悩んでいると、ばさっと俺の体を柔らかい体が包み込んだ。
えっっ……
2月の寒空の下で冷え込んだ俺の体はカイロを持ったかのようにいっきに暖かくなった。
平野さんが俺の体に両手を広げて抱き着いていた。
「ありがとう……」
小さな声だけど、確かに聞こえた。
「いや、その……」
恥ずかしすぎて平野さんの顔を見ることができない。
「優気がそこまで私のこと見てくれていたなんて知らなかった」
平野さんが初めて俺の名前を読んでくれた。
名前を呼ばれることがこんなにも嬉しかったことは今まであっただろうか。
俺は右手で自分の頬を少しかいた。
「優気には助けられてばっかりだね」
「そんなことはないよ」
俺がそう言うと、平野さんは俺の胸に顔を当てて腕を回して抱きついたままかすれた声を出した。
「ありがとう」