2022年2月4日土曜日 第1週目
朝
朝の大きなベルの音で目が覚める。
今日は休日だ。
だから、本来なら目覚ましをかける必要はない。
しかし、今日は違う。
平野さんに会う大切な休日だ。
一分一秒だって惜しい。
今すぐにでも集合場所の図書館に行きたいという気持ちを抑えて洗面所に顔を洗いに行った。
俺は水の勢いに任せて勢いよく顔を洗うと、横にある新品のタオルで顔から水滴を完全に落とし切ってからリビングへと向かった。
リビングにはすでにお母さんが食事の準備を終えて俺が来るのを待っていた。
「早く、座りなさい」
「はーい」
俺は、気だるい返事をして席に着くと、朝ごはんとしては定番の焼き魚、味噌汁とご飯のセットを食べた。
「今日は、1日家で勉強するの?」
「いや、出かけてくる」
「あら、どこに?」
「ちょっと勉強しに行ってくる」
「私たちも午後から出かける予定があるから鍵を持って行くの忘れないようにね」
「おっけ」
俺はお母さんからの一通り話を聞き終えると荷物をまとめて家を出た。
俺の家から図書館までは自転車で20分ぐらいのところにある。
集合時間までは40分。
俺は、勉強道具をまとめたバックを自転車の前に乗せるとペダルに強く力を込めて自転車をこいで図書館へと向かった。
図書館には待ち合わせ時間よりも少し早くに着いた。
あたりを見回してみるけれど、平野さんはいない。
俺は、入り口から少し離れたベンチに腰を掛けた。
1分ほどぼぅとしていると、反対側から知っている顔が見えた。
奥川さん!?
俺は、声を出しそうになったのを必死に堪えた。
幸いなことに向こうは俺のことに気が付いていないようだ。
平野さんと2人で図書館にいるところを見られたらきっと勘違いをされるだろう。
俺は、何としても奥川さんに今日一日会わないようにしようと決心した。
トントン
俺の肩にやわらかい感触が2度ほど感じられた。
後ろを振り向くと、そこにいたのは平野さんだ。
平野さんの私服は今までグループのみんなで遊ぶことがあったため見たことがあったが、今日の私服は俺と遊ぶために選んできてくれたということを考えてみると余計にうれしいものがあった。上は水色の薄い黄色の服に水色のカーディガンを羽織っていて、下は少し落ち着いた薄い肌色のスカートだった。髪は後ろでまとめていて中学で見ているものとは変わらないが、私服と合わせて見ると初めて見る髪型のように見えるのが不思議だ。また、全体的に体のラインは出さないようにしているところが自分の体を積極的に見せようとはしない謙虚さがあって可愛さを引き立たせている。
「おはよう」
俺は、何とか平静を装った。
「おはよう。成実くん」
そして、次に言う言葉は決まっている。
昨日、練習は散々した。あとは目を見て何も意識しないでさりげなく言うだけだ。
「何かあったの?」
少し何か言いたげに少し目線を逸らしている俺を平野さんは不思議そうな目で見てくる。
「いやっ、その、なんでもない」
「うそだ。成実くん絶対何か隠しているでしょ」
俺の顔がいっきに赤くなるのが自分でもわかった。
一方で、平野さん平然な様子だったは。
「いやっ、なんでもないよ!」
「何を言おうとしていたの?」
「そ、それより早く中に入ろう」
しまった。
言うタイミングを逃してしまった。
俺は強引に話を終わらせようとすると、平野さんは声を出して止めることはなかったが、無言で言うまでは動かないということを訴えてきた。
「もしかしてどこか変なところでもある?」
平野さんは右手で髪を触って少し目線を下にして聞いてきた。
こんな感じになってから言うのを少し恥ずかしいが、言わないと先には進まないようだ。
「その、平野さんの私服がすごく似合っているなって…」
平野さんの顔がいっきにかっと赤くなった。
そして、同時に目線を下に向けてスカートの裾を右手で軽くつまんだ。
「そっ、そういうことは本当に好きな人に言わないと…。練習だと分かっててもさすがに恥ずかしい……」
「ごめん…」
俺たちの間に気まずい空気が流れた。
そして、そのままほとんど話をすることなく中へと入って行った。
自習室はだいたい普段の教室の3つ分くらいの大きさでいつもよりも広く感じる。
1つの部屋全体にそれぞれ独立した机と椅子が4列設置されていた。
全体で70人くらいは使うことができそうだ。
この時期は受験生が多いからしばらくしたら満席に近い状態になるだろう。
俺が奥の席に座ろうかと言うと、平野さんはうんと頷いた。
俺は席に着くと、苦手な国語の問題集を開いてそのまましばらくの間集中をしていた。
どれくらいたっただろうか。
現代文の長文がちょうど3つ終わったところで手元の腕時計を見ると1時間半がちょうど経とうとしていた。
ずっと集中していたため腰と腕を少し伸ばして休憩をすると、右側にある平野さんの席に当たってしまった。
「ごめん、平野さん。勉強のじゃまをしちゃったかな」
俺はできるだけ申し訳なさそうに小さな声で言った。
返事が無い。
寝ているのだろうか。
俺がそっと右側を向くと、そこにいるのは平野さんではなかった。
これがもし知らない人ならまだ良かったのだが、あいにくそこにいるのは良く知っている人物だった。
「奥川さん…」
あまりにも意外で名前を呼ぶので精一杯だった。
「やっほー」
奥川さんは自習室ということもあっていつもの教室の時のような元気な声は出してはこなかった。
ただ、今までに見たこともないくらいの満面の笑みをしながら右手を振りながらこちらをのぞき込んでいた。
「桜ちゃんじゃなくて残念だったね」
「なんで、ここにいるんだ」
「何ででしょう?」
「ちょっと場所を変えようか…」
このまま話をしていると俺のほうからぼろを出しそうだったので、俺たちは一緒に自習室の1つ上にあるラ4階のウンジスペースに行くことにした。
このスペースは図書館の上にあり、ベンチやテーブルがあって会話や飲食が許可されている場所だ。
時刻はちょうど1時回ったくらいで1番人が多い時間だった。
自販機のまわりには期末試験の勉強にきているような5人組の男子中学生がわいわい盛り上がっていて、奥を見てみると30~40くらいの何組かの大人の男女が何やら椅子に座って話をしている。
俺たちはジュースをそれぞれ買うと、空いている2つの椅子に腰を掛けた。
そして、俺は単刀直入に気になっていることから聞くことにした。
「平野さんはどこにいるんだ?」
「私がここにいる理由よりも桜ちゃんのことのほうが気になるんだ」
俺は、どきっとすることを言われて少し動揺した表情をしまったと思った。
対して、奥川さんは少し笑った顔をしている。
「さくらちゃんなら1階の図書館にいるよ。休憩だって」
「そう…」
こっちは必死に冷静さを保とうとしているのにさっきから、一向に目の前にいる奥川さんからの生暖かい目がやみそうにない。
ここはどうやってごまかそう。
平野さんがいた席に座っていたということはそこにあった机の上の平野さんの私物も見たということだろう。
つまり、1人や男友達と来たという言い訳は通じない。さすがに休日の図書館でたまたま席が隣になったと言うことも無理だ。
こちらが悩んでいると、向こうから話を始めて来た。
「どっちから誘ったの?」
「まあ、一応こっちから」
「じゃあ、優気がさくらちゃんのことを好きなの?」
「いや、ちがくて…」
「何が違うの?」
「その、いつも1人で勉強するのは寂しかったからだれか誘おうかと思ったらたまたま平野さんがいただけで…」
「へー。じゃあ、さくらちゃんのことは何とも思っていないんだね?」
「あっああ、もちろん、ただの中の良いグループの1人だよ」
「じゃあ、何で私も誘ってくれなかったの?」
「それは、、」
「私の誘ってくれたら行ったのに…」
そういうと、奥川さんは俺の肩に軽くもたれかかってきた。
「ごめん…」
俺はただ謝ることしかできなかった。
「きっと、誰もいないところでさくらちゃんだけを誘ったんでしょ」
奥川さんは少し元気の内容な優しい声で話を続けた。
「もしかしてこの前、2人で帰っていたからその時?」
心の中でご名答と言いかけてしまった。
きっと普段からクラスの中心にいるから恋愛相談とかもきっと受けているのだろう。
こういう時の勘が鋭い。
これはもう、覚悟を決めるしかないか。
俺は今の状況を全て話そうと思って口を開きかけると、誰かが走ってこちらに向かっているのが見えた。
「偶然だね。明日香ちゃん」
やってきたのは、せっかくまとめた長い髪が乱れていて、少し顔が赤くなって息が切れている平野さんだった。
「桜ちゃん…」
これはさすがの奥川さんでも予想していなかったことのようだ。
「桜ちゃんはどうしてここにいるの?」
あくまで何も知らない態度を貫くつもりらしい。
「それは、、自習室で勉強をしていたらたまたま奥川さんを見かけたから」
奥川さんはそう、とだけ呟いて少し考えるような顔をした。
「ねえ、一つ聞きたいことがあるんだけどいい?」
そして、奥川さんがいつもは見せない真剣なまなざしで俺たちを見て来た。
それに対して、平野さんは何かを感じたみたいだった。
「少し2人で話さない?」
奥川さんは意外という表情を見せることはなく小さくうなずいた。
俺はあの後先に戻っていて欲しいと平野さんから頼まれたため、自習室に戻って1人で先ほどの国語の問題集の続きをしていた。ただ、さっきから全く文章が頭の中に入ってこない。
その日の調子によって物語の読むスピードや感じ方は違うというが、今日はそれが特にひどいように感じられる。
何とかひと段落を付けた時には時間は15分しかたっていなかった。ただ、入り口のところを見ると、そこには平野さんがゆっくりと歩いていた。
ただ、こういう時になんて声をかけたらいいか知らない俺はさっと見るのをやめて問題集に集中することしかできなかった。そして、平野さんは席に着くと、机の上に置かれていた荷物をまとめて俺に話かけてきた。
「ねえ、少しおなかも空いたしお昼ご飯を食べに行かない?」
「いいよ」
俺はさっきまでの動揺が残っていたせいか少し硬い表情でうなずいた。
昼ご飯はどこにするのかはある程度昨日までの段階でメモをしておいたので行くところに困ることはないと考えていた。
「何食べたい?」
俺はできるだけさりげなく聞いた。
ここはきっとなんでもいいよという返事が来る場面だろう。
「私に合わせるよりも成実君の好きな子の趣味に合わせたほうがいいんじゃないかな」
「そっそうだね!」
危うく、設定を忘れるところだった。
まあ、好きな人がいるっていうのは間違いないんだけど。
「いや、せっかくだから女子がどんなもの食べたいのか気になるから教えてほしい」
「そうだなぁ…」
平野さんは少し目線を下にして真剣な表情をして1分ほどで顔を上げた。
「うん。サンドイッチとかどうかな」
俺も気分的にはサンドイッチを食べたいとも考えていた。
ただ、こういう時にサンドイッチを出してくるということが手作りを期待しても良いということだろうか。
優しい平野さんならデートの練習だとしてもお昼を作ってきてくれるのでは?
「それって平野さんの手作り?」
「うんん。でも、私の好きなところだしどうかな?」
ですよね。
「うん、それならそこに行こうか」
俺はそう言うと、2人で図書館から少し歩くことにした。
平野さんのおすすめの店ならきっとおいしくないということはないだろう。
でもふと考えてみると、俺は3年間も一緒にいたのに平野さんの好きな食べ物すら知らないのか。
なんだか少しショックな気分にもなった。
でも、こんなに一回一回テンションが変わっていたらきりがない。
ポジティブに平野さんの好きな食べ物を1つ知ることができたということで十分プラスになったと考えることにした。
さすがにデートの練習で手作りのサンドイッチは作ってくれないよな。
そして、俺はふと思った。
なんだか、発想がストーカーじみてきているような……?
平野さんに案内されたのは少し落ち着いた感じの喫茶店だった。
店内ではBGMのようなものは特に流れていなかったが、明らかに他の喫茶店よりも居心地がいいように感じられた。土曜の喫茶店にしては人が少ないからだろうか。
俺たちは店の中で窓がすぐ近くにある席に座って平野さんは1つしかないメニュー表を先に渡してくれた。
「平野さんは何を頼むか決めているの?」
「うんん。いつもは同じメニューを頼んでいるんだけど、たまには違うものにしようかなと思って」
「ありがとう」
平野さんは何のことか分からずきょとんとした顔でこっちを見て来た。
「何のこと?」
「なんでもないよ」
こういう何気ない優しさを持っているとことが俺の平野さんのことが好きな理由の1つだったりする。
一方で、平野さんは不思議そうにこちらを見ているけれど、テーブルに置かれた水を一口飲むとそれ以上聞いてくることはなかった。
俺はもらったメニュー表に目を通した。
ただ、ここの喫茶店のメニューは少し多く、どれがいいのかなかなか1つに絞ることができなかったのでこの喫茶店の経験者に聞くことにした。
「平野さんはいつも何を頼んでいるの?」
「私は、モンブランとオレンジジュースかな」
なるほど。参考にできない。
昼ご飯の時には何を食べるのか聞いたつもりだったんだけど。
女子って昼ごはんにスイーツを食べるんだろうか。
「一応、昼ごはんにおすすめのメニューを聞いたつもりだったんだけど」
「私もそのつもりで言ったよ」
平野さんの目は夏の沖縄で見ることができるような青い海のように澄んだ目をしていた。
女子って怖い。
結局俺は、メニュー表の中で本日のおすすめと書いてあるレタスと卵が入ったいたって普通の見た目をしたサンドイッチとコーヒーのセットにすることにした。
そして、平野さんにメニュー表を渡すと一通り目で追って1分ほどでメニュー表を閉じた。
「何にするか決めたよ」
「何にするの?」
「ハムとチーズのサンドイッチセットで飲み物はオレンジジュースにするよ」
スイーツどこ行った⁉
俺たちは店員さんに注文をすると、しばらく待ち時間ができた。
「ここは何回くらい来たことがあるの?」
喫茶店とはいえ何もすることが無く対面での沈黙は俺にとってとても耐えがたいものだったので当たり障りのない話をすることにした。
「あんまり覚えていないけど、月に1回くらいかな」
「あんまり、多くはないんだね」
「うん」
「誰とよく行くの?」
「明日香ちゃんかな」
「ああ…」
沈黙。
さっきの図書館での一件があったから奥川さんの話題には触れにくい。
話題を変えよう。
「この喫茶店いいところだね。どうやって見つけたの?」
「1年生の秋くらいに明日香ちゃんから教えてもらった…」
沈黙(10秒ぶり本日2度目)
そろそろ、沈黙にも限界が来る。内心ではさっきの2人だけの話合いがどうなったか聞きたいが、さすがの俺でも平野さんの今の表情を見ていたら聞いていいことかどうかは分かる。
平野さんはあの後から表情はいつものように戻しているみたいだがどこか無理やり作っていることは薄々感じ取れる。
でも、ふと考えがよぎる。
これは話せないではなく話を切り出せないということではないだろうか。
こういう時は何か話をするのを待つのではなくこちらから何があったか少しずつ聞いていくほうが良いのではないだろうか。
こういう時こそ勇気を出さないでどうする。自分の名前の優は何のためにつけられた。こんな時に優しく聞くためなんじゃないのか。
俺はゆっくりと平野さんのほうを見ると、この沈黙のけりを付けに行こうとした。
「あら、優気じゃない?」
「?」
俺のせっかくの勇気を遮る声が聞こえた。
この声には聞き覚えがある。というよりか今までの人生の中で一番聞いた声ではないだろうか。
俺はさっきの決心を空のどこかへとやって体全体をゆっくり回して後ろを振り向いた。
「母さんと父さん⁉」
「やっぱり、優気だった」
母さんは声の大きさが普通の代わりに、普段からテンションが高く回りよりも声が高いことから声が大きく聞こえる。
「何しているんだよ、こんなところで」
「何って、お父さんと昼ごはんを食べに来たのよ。そっちこそ何してるのよ」
「俺も昼ご飯を食べにきただけだよ…」
母さんは終始、笑顔で俺の奥に座っている1人のとてもかわいい女の子のことを見ていた。すごく暖かくにやけた目をしていた。
やっかいなことになったな。
俺は、普段から家でクールなキャラを演じていというわけではないがあまり浮ついた話をするようなタイプでもない。もちろん、そういう話には興味があるのかないのかと言えばもちろん、健全な男子としてあると答えるが学校、特に家ではそういうことにはまったく興味がないようにふるまっている。
そして、さっきから母さんは笑顔の奥の瞳からさっさと紹介しないさいという圧が見えるような気がするんだが気のせいだよな。
さすがにこの状況でたまたま知り合ったということは使えないだろう。それに、親に友達として紹介しなかったら、平野さんは自分に責任があると感じてしまうかもしれない。それだけは絶対にいやだ。
「お母さん。紹介しておくよ。俺の高校の友達の平野さんだ」
尚もお母さんの緩み切った表情は戻る気配はない。
「ねえ、もしかして優気の彼女さん?」
「はっっ⁉」
思わず声を出してしまった。
そしてまずいと思ってぱっと後ろを振り向くと、顔を真っ赤にしてあわてふためく女の子がいた。
「いっ、いえ違います。成実くんとは中学に入学した時からの友達でこれからもずっと友達です」
いきなりの俺のお母さんからのトンデモセリフへの返事としてはすばらしいと思う。俺なら硬直して声はおろか首を横に振ることさえできないだろう。
ただなぜだろう。
「おいくつ?」
「14歳です」
「あら、学年は下なの?」
お母さんの笑顔が止まらない。
「いえ、学年は同じです。誕生日がもうすぐ来るので」
「そうなんだ」
「優気のどこがいいの?」
「お母さん!」
「あら、こういう話は優気がいないところでしたほうがよかったかしら」
「お母さん‼」
「よかったらLINE交換しましょう」
「嫌だよ!」
「あら、優気じゃなくて平野さんに聞いているんだけど」
「そうじゃなくて、普通にイヤだろ。お母さん何を言い出すか分からないし」
「あら、何か言われたらまずいことでもあるの?」
「いや、それはないけど」
「平野さんはどうかしら?」
平野さんは少し動揺していたようだが少し俺と母さんの2人の会話が続いたため、落ち着きを取り戻すことができたようだ。
「はい。私はいいですよ…」
やっぱり、さっきの表情が硬かったことと奥川さんの話を言い出せなかったということは無関係で単に緊張していただけだったのだろうか。
そして、2人のLINEの交換が終わると、お母さんからの気遣い?によってこれ以上は詮索されることはなかった。ちなみに、お父さんに関しては終始興味なさそうに後ろの方で携帯を触ってニュースを見ているようだった。
それからひとしきり話を終えると2人は何も頼まずに店を後にした。母さんからの帰り際のいらない耳打ちつきで。
「ああいうタイプは自分から積極的に行かないとだめよ。自分には優気しかいないと思わせたら勝ちよ。あと、同級生は付き合ったら喧嘩しやすいってよく言うから気を付けなさいよ」
「余計なこと言うな!」
静かな喫茶店の中で思わず声を荒げてしまった。
そして、今日のお母さんのにやけた表情を今後1カ月は忘れられないだろう。
俺たちは店を出ると、最後にこの町で一番高い丘の上にある公園に行った。
ただ、一番高い丘と言っても歩いて15分くらいだから特別に大きいというわけではないけど。
その代わりに周りには公園以外は何もないため、意外と穴場の良い場所だったりする。
俺たちは町を一望できるベンチに腰を掛けた。
「平野さん。今日はありがとう」
俺は、平野さんにしっかりと今日のお礼を言った。
「こちらこそ。私も楽しかったよ」
夕日に染まった平野さんの表情は凄く魅力的で可愛かった。
平野さんの澄んだ瞳には人間性そのものが現れているようだ。
「ちょっと待ってて」
俺は、平野さんに思わず見とれてしまっていると平野さんはベンチを立ち上がって公園の奥の方へと行ってしまった。
俺はベンチから立ち上がって2歩ほど進んで、柵に身を乗り出す形で町を見渡した。
こうやって町全体を見ると、俺の学校生活全般のことがどうでもいいようなことに感じられる。
俺の悩みなんて少し離れてみると誰も気にしないようなことなのだと思わせられる。
それは嬉しいようで少し悲しいようにも感じられた。
いつか大人になった時、どうでもいいことの一つとして記憶からゆっくりと消えていくのだろうか。
俺は感傷的な気分に浸っていると急に自分の頬っぺたを冷たい感触が襲った。
「わっっっ!?」
俺は情けない声を出しながら後ろを振り向くと、そこには2つのみかんジュースを持った平野さんがはにかんだ笑顔で立っていた。
「びっくりしすぎだよ」
平野さんはそう言うと、持っていたみかんジュースを1つ俺に分けてくれた。
「ありがとう」
俺はそう言うと、ベンチに座った。
座ってみると、後ろに夕日のある平野さんはいつにもましてかわいいなと思った。
「どういたしまして」
そう言うと、平野さんはベンチに座ることなくみかんジュースを開けるてくいっ一口飲むと俺の正面で話し始めた。
「今日の練習は参考になりそう?」
「そうだね。すごく参考になったと思う」
「それならよかった」
平野さんは落ち着いた表情だった。
ただ、平野さんはジュースをくれたあたりから元気がないようにも感じられた。
「私、図書館で明日香ちゃんに言われたことがあるんだ」
「何?」
そういえば、平野さんと奥川さんの2人が図書館で話した内容を俺は聞きそびれていた。
「成実を振り回すのは辞めてほしいって」
俺を振り回す?
「どういうこと?」
俺はどういうことか全くわからなかった。
そして、平野さんは少し考え込むような素振りを見せてから話を続けた。
「ねえ、成実くんは振られたことある?」
俺は、何も返すことができなかった。
もちろん、事実として知ってはいるけど本人から言われるとは思ってなった。
「私、この前好きな人に振られちゃったんだ…」
「え…」
「こんな状態でデートの練習をしたのはさすがに迷惑だったかな」
「そんなことないよ」
俺はすぐに否定をした。
だって、全てを知っていたから。
「ありがとう…」
平野さんは目を下に向けて少し寂しいような表情をして話を続けた。
「今日一日、私と一緒にデートの練習をした成実くんに1つ聞きたいことがあるんだけどいい?」
平野さんは少し悲しそうな表情のままで何か試すような口ぶりで俺に言ってきた。
俺はいいよと言って頷いた。
すると、平野さんは小さく一息ついて話を始めた。
「私のどこがよくなかったのかな…。ねぇ、成実くん。私のどこがダメだったと思う?」
「それは…」
「性格かな。顔かな、言葉遣いかな。それとも、全部かな…」
平野さんの顔からだんだん笑顔が薄れていった。
「そんなことないよ」
俺は少しでも平野さんの気持ちが落ち着けばいいと思って言ったが、平野さんの表情は変わることはなかった。
それどころかだんだんと泣きそうな目になっているようにも感じられた。
「私は、精一杯の努力をしたつもりだった。でも、それでもダメだった…。ねえ、教えて成実くん。私のどこがダメなの?」
平野さんは今まで見たどの姿よりも弱々しく見える。
「私のダメだったところを教えてよぉ…」
地面に一滴の水が落ちた。
もう、限界だ。
俺は、ベンチを立ち上がって涙でくしゃくしゃになった平野さんを全力で抱きしめた。
ほのかに感じられる柔軟剤の香りは夕日が差し込むこの丘にとても似合っていた。
「大丈夫だからっ!」
俺は少し強めの口調で平野さんの心に言い聞かせるように言った。
平野さんの体は直後に少し強張ったようにも見えたがだんだんと力が抜けて俺に体重を預けるような感じになっていた。
「でもっ!」
「いいから聞いて!平野さんはすごく頑張ってる。誰にも負けないくらいすごくかわいい。だからっ」
俺は今日一番の声を出して思っていることを伝える。
「だから、泣かないで!俺は、平野さんの笑っている表情が大好きだから‼」
平野さんはそのまま体を預けたまま泣き続けた。
「なんでっ、なんでそんなに成実くんは優しいの⁉私のダメな所きっと何個もあったでしょ!言ってよ全部!普段の限られた学校の時間だけじゃ見えないところもいっぱいあったでしょ‼」
平野さんは、必死というより怯えているようだった。
自分の気が付いていない自分との葛藤があるのだろう。
「そんなことないよ。俺は、友達として平野さんのことが大好きだから‼」
今度はできるだけ優しく平野さんの心に響くように言った。
平野さんは俺の言葉を聞き終えると少し俺の体にかかる力が少し小さくなった。
そして、平野さんはかすれそうな声で俺に顔を預けた形で最後に一言いった。
「ありがとう…」
この一言にどれだけの意味が含まれているのかについては考えるまでもなかった。