感情のままに吐き出したせいで、どうやら疲れて眠ってしまっていたらしい。今寝ると夜眠れるかどうか心配になったが、この状況をどうにかする方が先だ。
少し冷えた身体に熱が巡り、身体が熱くなってくる。自分が今、もたれている相手を思い出して、よく自分でもこういうことをできたなと呆れてしまう。それでも、心地良く、安心できたのは確かだった。
緊張して、頭を上げ、恐る恐る彩羽の様子を窺うと、彩羽も顔を真っ赤にして、汗までかいていた。
「……すみません」
どれぐらいの時間眠っていたのか分からないが、天理が眠っている間ずっと、彩羽は肩を貸してくれたことになる。
「ありがとうございます」
「いやー、大丈夫だよ」
古びたロボットのように、なんとか立ち上がる彩羽は、深呼吸を繰り返していた。
「そろそろ帰ろっか」
「そうですね……帰りましょう」
そうして、二人は無言で駐輪場まで向かう。
日はかなり沈んでいたが、まだ部活動の音は聞える。帰宅部の生徒達は帰っているということで、半分以上自転車が無くなっている駐輪場には人がおらず、彩羽と天理の二人だけしかいない。
同じ自転車通学、だけど家の方向は真逆。校門を出れば、すぐに別れてしまう。
一緒にいられるのは後少し。なにをする訳でもないが、名残惜しい。
なにも話さぬまま二人は校門を出てしまった。いつもなら、ここで別れるのだが、今日はどちらも帰ろうとせず、ただ黙って立ち尽くすだけだった。
いつまでもここにいる訳にはいかない。帰り道、どこか寄り道をしたとしても、今の二人の状況では、ずっと無言だろう。
一度家に帰って落ち着いてからの方が、気持ちも落ち着けるはずだ。それに、また明日も会えるのだから、無理に今日は一緒にいようとしなくてもいい。
「あの……彩羽さん……」
なんとか言葉を絞り出す。
「ん?」
「さようなら、また……明日」
どちらから切り出すしかなかった。天理が手を振ると、彩羽も照れた様子で手を振り返してくれる。
「また明日」
彩羽に背を向けて自転車に跨り、ペダルを力強く踏み込む。
ゆっくりと自転車が走り出し家へ向かう。寄り道せず、ひたすらにペダルを漕ぎ続けた。
その日の夜、これから勉強しようと椅子に座った天理。
いつも通り、アラームを設定しようとスマホを開くが、ここで彩羽と連絡先を交換してたことを思い出す。普段なら忘れることは無いのだが、今日は交換した後に色々あったせいで忘れてしまっていたのだ。
思い出した瞬間、明日までと我慢していた気持ちが解き放たれ、あの時の彩羽の温もりを思い出してしまう。こうなれば勉強は手につかない。
せっかく、いつでもどこでも彩羽と繋がれる手段を手に入れたのだ。使わない手は無い。時間もまだ二十一時と、彩羽が早寝するタイプでないのなら、恐らく返信してくれる時間帯だ。
震える手で文字を打ち、何度も誤字脱字が無いか確認する。たったこれだけの文なのに、十分経っても送信できないでいた。押せば一瞬、しかし送信してしまえば取り消しができないのだ。だがこのままでは、送信した時には彩羽は眠っているかもしれない。意を決して、送信ボタンをタップする。
『こんばんは』
一仕事やりきったかのようにベッドに飛び込んで大きく息を吐く。これで返信が来なければどうしよう――と。
画面を確認してみると、『既読』の文字が付いていた。ということは、彩羽は見てくれたという訳だ。しかし返信が来ない。
もしかして迷惑だったのではないかと絶望しそうになったが、連絡先を交換しようと申し出たのは彩羽の方だ。だから無視をするはずは無いのだが、ここまで返ってこないとなると、もう彩羽は眠っているのかもしれない。メッセージだけを見て、すぐに返す程のものじゃなければ明日返すつもりなのかもしれない。
あれ程悩んだのに、自分の送ったメッセージがすぐに返す程のものじゃないということに再び絶望しかける。そして泣いてしまいそうになったところで、彩羽から返信が来た。
瞬時に正座をした天理がメッセージを確認する。
『こんばんは。今日はごめん。それとありがとう』
もしかすると、彩羽も自分と同じく、メッセージを送るまで時間がかかったのかもしれない。
彩羽から返信が来たことが嬉しかった天理は、勢いに任せて通話ボタンをタップする。
我ながら勢いで動きすぎたのかもしれないが、嬉しいのだから仕方がない。するとワンコールで彩羽が応答してくれた。
「………………」
『………………』
電話が繋がったのはいいが、互いに聞えるのは互いの息遣いだけ。
無言の時間が続くが、互いに通話を終了させようとはしない。
やがてその沈黙を破ったのは天理だった。
「こんばんは、すみません、彩羽さん。いきなり電話をかけてしまって」
話してみて気づく。直接会って話すよりも、電話越しの方がいくらか緊張がマシになることを。
『いや、大丈夫』
どことなく彩羽の声が固い気がする。緊張しているのか、それとも迷惑だったのではないか。
「声が固い気がしますが、迷惑でしたか?」
『いや迷惑じゃないよ! これは本当! ただ――』
そう言ってから、彩羽は声を顰める。
『わたしの部屋、妹と同じなんだよねー。だから、あまり大きな声を出せないというか。今妹は風呂入ってるから大丈夫だけど……。普通の声で喋るにしても、結構他の部屋まで声響いちゃうから』
「やっぱり、それは迷惑ということですよね、すみませんでした」
『いやいやほんと大丈夫! まあ妹が出てきたら通話できないけどあいつ風呂長いし通話するのが嫌だったらそもそも出ないし!』
通話には時間制限があるということだ。
それならなにか話題を――というところだが、天理が電話をかけた理由は特に無い。
「……安心しました」
『それで、どうしたの?』
「いえ、理由は特にありません。ただ……彩羽さんの声が聞きたくて、言葉を交わしたくて、彩羽さん、と呼びたかっただけです」
一瞬彩羽が息を吞む音が聞こえた。
『特にあるじゃん……』
「そうでしょうか? ……確かに、そうかもしれませんね」
彩羽に言われ、確かにこれは立派な理由なんだなと笑う。
今、彩羽に抱いている気持ちを見ると、彩羽といたい、彩羽の声が聞きたい、彩羽の名前を呼びたい。そんな気持ちが見えるのだ。
『わたしも、篠原さんと似たような感じかなー。特に理由が無くても関わりたい』
「同じ気持ち……ですか。それは、とても嬉しいことですね。彩羽さんには、この感情がなんなのか、その答えを知っているんですよね……?」
『うん』
「私に、その感情の答えを見つけることができるのでしょうか?」
『分かんないけど、急がなくてもいいと思うよ。学校でも言ったけど、篠原さんがその答えを見つけるまでそばにいるから。もちろん、篠原さんが嫌じゃなければだけど』
「嫌ではありませんよ。彩羽さん。もし、その答えを見つけるのにどれだけ時間がかかっても、彩羽さんは私のそばにいてくれますか?」
この感情の答えを見つけるのはもしかすると明日かもしれないし、五年後かもしれない。いつ見つけられるか分からない、見つけられるかも分からない。天理にとっては、それ程のものなのだ。
不安に思った天理が聞くと、彩羽は心配するなと言うように笑う。
『そばにいるよー。十年でも二十年でも、百年でもそばにいるよー』
「それは、心強いですね」
百年でもそばにいてくれるのなら、答えを見つけられなくてもいいのかもしれない。
それでも、この知らない感情の答えを見つけたい。なぜだか分からないが、そう強く思うのだ。
「ねえ、彩羽さん」
『ん?』
「これから、よろしくお願いしますね。彩羽さんに彩られた、私の心。その知らない色の、答えを見つけるまで」