まさかここまでしておいて、連絡先を交換してと言われるとは思わなかった。
この一瞬で冷静になった天理は、まだ身体は熱いが彩羽の目をはっきりと意識を持って見ることができた。
「……今、なんと?」
「連絡先……交換して欲しい……」
なにかは分からないが、もっと違うことを期待したのに、力が抜けてしまう。
逃げたい気持ちはあるのだが、こうまで拍子抜けしてしまうと逃げる気力は湧かない。
「……わかりました」
それでも連絡先の交換という重大な出来事だ。震える手でスマホを取り出す。
彩羽も同様に手を震わせながらスマホを持っている。
スマホを振って連絡先を交換できるのだが、そんな機能は使ったことが無かったため、大人しく二次元コードを読み取って交換した。
これでいつでもどこでも連絡を取ることができる。
本当なら喜ばしいことなのだが、天理は素直に喜ぶことができなかった。
彩羽も彩羽で、なにか言いたげな顔をしている。
「……どうされましたか?」
「いやー」
そう言って頭を搔くだけ。ここまでしたのなら、言いたいことがあるのならハッキリ言えばいいのに。
「彩羽さん」
天理の言いたいことが伝わったのだろう。立ち上がった彩羽は頭を搔くのを止めて一歩下がり頭を下げる。
「ごめん! 今日の朝、変なことを聞いて!」
その瞬間、天理は顔を今にも泣きだしそうな程歪める。
逃げた自分を追いかけてまで、追い詰めてまでしたことが、連絡先の交換と謝罪だけだという。
「それだけですか?」
本当にこれだけなのだろうか。そこまで顔を赤くしている理由が、連絡先の交換を申し込むのに緊張したせいなのか。
そんなに緊張しているのに、でもこの感情は――。
「今朝のあの出来事から、彩羽さんのことが、頭から離れないんです」
「うっ……ごめん」
「謝ってほしいんじゃないんです。確かに彩羽さんのせいで今日は一日中彩羽さんのことばかり考えていました。それと同時に、なぜ自分がこのような感情を抱いて、このように緊張してしまうのか、逃げたくなるのか、それについても考えました! ですが、分かりませんでした……。今この瞬間も! 私は自分の知らない感情に振り回されて、緊張して、頭が回りません! もうなにがなんだか分かりませんが、全て彩羽さんのせいだということは理解しています! 文化祭の日、彩羽さんに助けられ、知らないことを教えてくれました。どんな些細なことでさえ、私にとっては大切なこと。自分の知らない色に心を彩られました。彩羽さんの名前の心地良さを感じてしまい、何度も呼んでしまいました。私が知らないことを教えてくれる彩羽さんを見るたびに、私は嬉しかったんです。ほかの誰でもない彩羽さんだから。彩羽さんの名前を呼んで、返事をしてくれる。それがかけがえの無いものだと知りました。それに今だから分かります。寒くなかったのは、彩羽さんと話すのに緊張していたからだと! でも! それでも! 今抱いている感情はなんなのかが分からないんです! 知らないんです! この感情は、いったいなんなんですか!」
感情のままに、一息に捲し立てた天理の目から、一筋の涙が零れる。そして一度流れたものは、止めることができずに流れ続ける。
天理が抱いている感情がなんなのか。その答えは彩羽が教えることはできない。その感情を向けられている彩羽だけは、答えることはできないのだ。
だから、できるのはただ黙って天理の涙を拭うことしかできない。
だけど、この感情を、伝えることならできる。
「篠原さん……」
膝をつき、天理の顎をそっと上げて目を合わせる。
顔が熱くなってくるが、それはお互い様だろう。
天理とは違い、彩羽は気持ちを整理しながら、嚙まないように口を開く。
「わたしもね、今日は篠原さんのことばっかり考えてた。それでね、なんでここまで篠原さんにこだわるのかなーって考えたんだけど、その答えはまあそれは言えないというか、篠原さんと同じだと思う感情を持ってたんだ。自分でも無意識のうちに抱いていたんだと思ったよ。朝の質問だって、なんで篠原さんがわたしを下の名前で呼ぶようになったのか、いつから呼ぶようになったのか気になったし、あとこれを聞くのはさすがにどうかと思って聞かなかったんだけど、言うね。篠原さんがなんでわたしにだけ嬉しそうに微笑んでくれるのかが分からなかったりしたんだよね。でも、その理由を知れて良かった。わたしも、篠原さんと同じ感情を抱いているけど、それを抱くようになった理由がなんなのか、いまいちピンとこないんだよね。多分、篠原さんのようにしっかりとした理由じゃないし綺麗な理由でもないと思うんだけど、だけど、安心してほしい。わたしは篠原さんがその答えを見つけるまで待つし、そばにいるから」
そう伝えて、天理の涙を拭った彩羽は、天理の隣に腰を下ろす。二人でなんの感慨も無い校舎の壁を見つめる。それでも、二人で同じものを見ている。
「意地悪ですね……」
視線を下げた天理の言葉に、彩羽は申し訳なさそうに笑う。
「ほんとにごめん」
「同じ感情を抱いているのなら、教えてくれたっていいじゃないですか……」
「間違っていたら恥ずかしいから嫌、それに、本当にこれは篠原さん自身が見つけないといけないものだから」
そう言うと、彩羽の肩が少し重くなる。見なくても分かる。天理が頭を乗せてきたのだ。
冷えてきたのに、再び身体が熱くなるのが分かる。こうしたら天理も緊張でどうにかなるのだと思うのだが、やけに静かなのが気になる。
「……なーんで眠れるのかなあ」
この状況で、その感情を抱いているのに眠れるとは。もしかすると、同じ感情を抱いているというのは間違いかもしれない。
「でも、人それぞれって言うしねー……」
相変わらず心臓がうるさいし十一月とは思えない暑さだが、今は耐えるしかない。これに慣れる日が来るかは分からない、でもこのままずっと慣れなくてドキドキするのもいいのかもしれない。
この先、天理がどう答えを見つけるのか、どんな答えを見つけるのか。それが待ち遠しい彩羽であった。